ステイ・クリア

「海斗先輩」

 もうすっかり慣れてしまった画材の匂いに埋もれるようにして、先輩はキャンバスに向かっていた。久しぶりに目にするその姿を見ると胸がぎゅっと締め付けられた。

「よく、ここだと分かったね」

「引退してからもちょくちょく行ってたんでしょう。わざわざ、木曜日に」

「ご名答」

 いつかと同じ台詞が、先輩の口から聞こえて懐かしさが込み上げた。あれだけ聞きたかった先輩の声は、一瞬にして私を安心させてくれた。
 先輩以外、誰もいない美術室。暖房の効かないこの部屋には、電気ストーブが一台。先輩はそのストーブすら点けずに、一枚の絵を描いていた。

「寒いから点けましょうよ」

「いや、いいんだ。今とっても温かいものを描いているから」

「なんですか、温かいものって」

「きみの、心臓」

 もう、なんだそれ。めちゃくちゃじゃないか。きっとまた青で描いている。そんなのやっぱりエイリアンじゃん。先輩は私のことを、何だと思っているんだろう。
 いろんな感情がごちゃまぜになり、私は先輩が筆を走らせているキャンバスに目をやった。そこにはあろうことか、真っ赤な炎のようなまるい心臓があった。

「先輩、それって」

「赤色、だろ。これって、きみにはどんなふうに見えてるんだろう」

 先輩には赤が見えない。正確には、一般の人と同じ赤が見えない。
 でも、先輩の中に「赤」は確かにあって。私はそれを、掴みたかった。今もずっと。

「私、先輩が好きです。先輩の青い絵が好きです。先輩の“赤”をもっと知りたいです。それぐらい、好きなんです」

 後には引けなかった。
 私の心臓は、先輩の絵のように、燃えている。
 先輩の中に潜む燃えるような「赤」を、私は知りたいのだ。
 先輩は、珍しくすぐに返事をしてくれなかった。いつもの彼からしたら、「よく言えたね、えらいえらい」とでも茶化してみせただろう。けれどこの時、海斗先輩が十分に思考を巡らせて出したであろう答えは、私の想像するものとは違っていた。

「ありがとう。純粋に嬉しいよ。でも、きみに恋愛感情はないんだ」

 砕かれた。木っ端微塵に。燃えていた火に、バケツの水をぶっかけられた気がした。
 ああ。どうして。
 どうして私は、先輩の心が私にあるだなんて思ったんだろう。
 だって私に言ってくれたじゃん。「興味がある」って。私の手や心臓を描いてくれたじゃん。見えないはずの赤を使ってまで、私を描こうとしてくれたじゃん。
 後退りしながら、「はは」と力なく笑いながら、私は逃げた。その場から走り去った。足がガクガクと震えて転げそうになりながら、走った。
 もう、先輩と話すことはないのだろう。
 ありがとうございました。少しの間でも楽しかった。
 落ちてくる涙を拭いながら、思う。
 どうか先輩が、この先私を忘れてくれますように。