誰しも、人生の中で一度は不思議な体験をすることがある。私の人生ではその“不思議体験”が比較的早く訪れた。

「きみという人物に興味がある」
 
耳にはっきりとした輪郭をもって響いた声。男の人の声だった。いまだかつて、こんな文句で突然話しかけてくる人に出会ったことなんてなかったし、これからだってもう二度とないだろう。それくらい、印象的な出会いだった。

 その日は、高校二年生の5月1日。
 毎月私の通う高校では月の初めに体育館で全校集会が行われていたため、この日も朝からそれほど大きくもない体育館に生徒と先生たちが集まっていた。
 真ん中に私たち二年生が並び、前に一年生、後ろは三年生だった。
 平均的な身長をしている私だけれど、体育館で並ぶ時だけは男女二列ずつになるため、ちょうど一番後ろになった。後ろに人がいないと背中がすうすうする。しかも、三年生の視線を感じるこの場所は些か居心地が悪かった。
 全校集会といっても、今月の学校の目標が発表され、校長先生の話があり、最後に校歌を歌うだけ。これだけのために全生徒が集まるのだから、生徒たちが鬱陶しがるのは先生たちも重々承知だろう。それでもこうやって全校生徒が一堂に会す機会は貴重らしい。

 私は——というか、これは全生徒の総意なのだろうけれど——毎月なんら変わりばえのない「校長先生の話」にうとうとと首を縦にふりそうになった。
 いけない。起きなくちゃ。ここで寝ると後で担任に注意されるのだ。私は、体育座りの足の下で右手首をつねりながら、校長先生の頭上——ステージの壁に飾られた不思議な絵をじっと見ていた。
 画の右半分を占める真っ赤な太陽。彼のものはなぜか顔を持っている。その目が見つめる先にあるのは、全身青色をした人間。これには顔がない。マントのような羽織りを着ているだけの人だった。
 何かの童話の絵なのか、単に風景を模しただけなのか、誰の作品なのか、全く分からないけれど、私は一年生の頃からその絵が気になって仕方がなかった。
 絵を習ったことはないのだけれど、絵を見るのは昔から好きだった。
 絵を描く人も、好きだ。
 私の母が趣味で水彩画をよく描いていて、私は小さい頃から母の絵を描く姿を見て育った。母は画家ではなかったけれど、自分が描いた絵を葉書にしたり、Tシャツにプリントしたりと趣味にしてはやたらめったらこだわりを持っていて。今でも時々、「この絵、どう思う?」と私に感想を求めてくることがある。
 とにもかくにも、私に絵心があるかどうかはさておき、絵を見ること、絵を描く人を見ることは大好き。

 体育館の名前のない絵画を注視していると、司会担当の先生が「これで5月度の全校集会を終わります」とアナウンスするのが聞こえた。
助かったー。あの絵のおかげだ。校長先生の話をまともに聞いていたら、さっきの閉会の挨拶で飛び起きるところだった。
 集会が終わると、三年生から退場する。自分たちの番が回ってくるまで、私たち下級生は「黙想」をして待っていた。
「二年生、退場してください」という指示があり、ようやく顔を上げて出口の方に進み始めた。もう大丈夫。友達と喋っていても特に何も言われない。
 私は、クラスで一番仲の良い森村結衣(もりむらゆい)と今日の授業のことなどを話しながら教室に戻ろうとした。
 が、体育館の後方の出入り口から一歩足を踏み出したとき、不意に左肩をぽんと軽く叩かれて身体がビクッと震えた。
 とっさに後ろを振り返り、そこにいる人物に視線を走らせた。
 私の視線の先に立っていたのは、一人の男子生徒。学ランに付けられた校章の色を見るに、三年生らしい。部活動をしていない私には、知り合いの先輩など皆無だ。したがって、目の前に飄々と立っている彼が一体どこの誰なのか、検討がつかなかった。

「……あの、どなたですか?」

 その人は私に、にっこりと笑顔を向けていた。
 なに、なんなの、この人。私に何の用?
 人違いなんじゃないか。
 そう勝手に納得しかけたのだが、

朝倉南(あさくらみなみ)さん、だよね」

 え、ええ!?
 なんで私の名前を知ってるの! というか、あなたは誰なのという私の質問に答えんかい!
 怪しさをむんむんに醸し出しているその男の先輩は、しかしとても端正な顔立ちで、爽やかな笑みを依然として浮かべていた。普通に考えたら、いかにも女子にモテそうなタイプだ。そんな“勝ち組”な先輩がなぜ帰宅部で地味な私なんかに声をかけてきたの?

「そうですけど、何か?」

 隣を歩いていた結衣も何事かと私と共に先輩の姿をまじまじと見つめている。

「突然話しかけてごめんよ。実は僕は」

 なんだろう、この背中がむず痒い感じは。
 私たちの脇を通りすぎてゆく生徒たちのガヤガヤとした話し声が、一気に耳に入らなくなる。心が強制的に「彼の言葉を聞きなさい」と命令しているかのようだった。

「きみという人物に、興味があるんだ」

 じゅわ。
 掌から大量の汗がにじみ出るのを感じ、思わず制服のスカートを握った。
 私は、「え」と声に出して露骨に驚いてしまった。
 ちなみに、隣にいた結衣も「は」と隠しきれない驚きを口にした。

「それ、どういう意味……?」

 意味も何も。
 単に興味があるだけなんだ。
 答えになっていない答えを、先輩はのたまう。
 とにかく、この硬直状態からなんとか抜け出したい一心で、私は「すみませんっ」と早口で告げ、結衣の腕を引っ張り、その場から逃げ出したのだった。