「あれって?」
「……柴田君とのこと」
「ああ、そのこと」

 その名前に触れた途端、さくらの声が暗く沈んだ。昔話とはいえ、無理もない。あのころは、さくらにとっては辛い時期だった。

 柴田はぼくやさくらの高校の同級生だ。人当たりがよくて、社交的。おもしろいことを言って場を盛り上げたりもするから、クラスの中心的な存在というか、みんなに好かれていた。

 事が起こったのは一年生の秋ごろ。さくらはその柴田に告白された。だけどさくらはきっぱりと断った。いい人だとは思っていたけれど、付き合うというのはイメージが沸かなかったらしい。

 しかし柴田はしつこく、二度三度と告白を続けた。だけどさくらはどうしても付き合う気にはなれず、全て断った。すると三学期になるころには、ついに柴田も諦めたのだった。

 だがその代わりに、さくらの悪い噂が流れるようになった。柴田がさくらのことを逆恨みして、根拠のない噂を言いふらしたのだ。ぼくはそれを聞いて、最初は放っておけばいいと思っていた。しょせんは根拠のない作った話。そんなものが簡単に人に信じられるわけがない。

 ところが予想に反して、噂はどんどん広まっていった。噂が広まるということは、信じている人が多いということ。柴田は話が上手かった。それにもともとあった人望のおかげで、話の信用性もあがったのだろう。また、さくらがあまり広い交友関係を持つタイプではなかったことも要因の一つで、彼女をよく知らない人が多く、そんな人たちが疑いもなく信じてしまったのである。

 さくらはそういった悪口や噂などに対して、関係ないという態度で凛としていられるような性格ではなくて、むしろ打たれ弱い。そんな日が続くに連れて、さくらは目に見えて元気がなくなり、学校に向かう足も重くなっていった。

 ぼくはその噂の発信源が柴田だと確信していたが、どうすればいいのかわからなかった。柴田が憎くてたまらなくて、顔を見る度何度も殴ってやりたくなった。でも、たとえ本当に殴ったとしても、これだけ広まった噂はどうにもならないと思った。

 しかしある日、ぼくは偶然にも、校内で柴田がさくらの噂を、その上手い話術で広めている場面に出くわしてしまった。この耳で直接、聞いてしまった。内容はまったく根も葉もないでたらめ。それをさも本当のように話す柴田は、本当に立派な詐欺師だ。どうしてこんな風に平気で人を傷つけられるのか、怒りで震えた。

 次の瞬間にはぼくは柴田を思い切り殴っていた。正直その時のことはよく覚えていない。それぐらい頭の中が真っ白で。とにかく殴って、叫んで、殴って、叫んでいたと思う。

 さくらは、そんな子じゃない。みんなに聞いてほしかった。

 その後、ぼくは先生たちからの尋問と、反省文という仕打ちにさらされたが、この事件がきっかけでさくらの噂がでたらめだったことが発覚し、一週間と経たない内に噂自体が消えた。

 ぼくの人生の中で、あれだけ人を殴ったのは初めてだ。殴りたいと思うほどムカつくことは何度もあったけれど、逆に殴られるのは嫌だったし、それで気が済んでも周囲から非難されるのは目に見えている。

 そうしてぼくには強靭な理性ができあがっていたはずだった。たぶん、あの時までは。だけどさくらのことを傷つけられた瞬間、ぼくはそんな理性をゴミのように捨ててしまって構わないと思った。

「あのままだったら、私、学校やめてたかもしれない」

 さくらの言葉に、ぼくは何も答えなかった。あの時のさくらの様子を思い出せば、そんなことないだろうとはとても言えなかったし、かといって、そうだねと答えるのも何だか気が引ける。

「ほんとに、ハルのおかげだね」

 ぼくはそこでも黙ったままだった。顔が見えないぶん、返事を考えないぶん、よけいにさくらの声がぼくの中に響く。それはそのままさくらの心を奏でるメロディーのように。

 ぼくはもう気づいていた。昔話を始めてから、話をすればするほど、胸が苦しくなっていくこと。そしてそれは、さくらもきっと同じだった。二人の昔話は、今日ここまでしか、もう語れないことを、知ってしまっているから。

「ねぇ、ハル。私ね、どうしても、聞いてみたいことがあるんだけど」
「何?」

 ぼくがそう聞き返すと、さくらは口をつぐんだようだった。また少し、空白の会話が生まれる。

「言ってよ」

 さくらがまた迷っていると思ったぼくは、そう促した。どうしても聞きたいこと。言葉には出さなかったが、それが何なのか気になった。ここで聞いておかないと、たぶん、もう次はないんだろうなと思ったから。

 すると、しばらくして、さくらは口を開いた。

「ハルは……ほんとは、私のこと、好きだった?」