筑紫野(ちくしの)を駆ける雄の霊狐。
 彼の主人は博多で戦乱に巻き込まれた、歩き巫女集団の遺児だった。

 彼女の名前を仮に某巫女(なにがし)としよう。
 高い霊力を持つ某巫女を拾ったのは、筑前を守護する立花山城・城督の戸次道雪(べっきどうせつ)だった。

 荼枳尼天そして稲荷神を厚く信仰し、戦場において霊狐使役に長けた彼は、某巫女を一人娘・誾千代(ぎんちよ)姫を守る狐遣いの侍女として鍛えあげた。

 誾千代姫より僅かに年上だった彼女は幼くして見事な霊狐遣いとなり、誾千代姫が姫城督として立花山城を譲られて以降、生涯命を賭して誾千代姫に奉仕した。

 筑紫野(ちくしの)を翔ける雄の霊狐。
 彼はその幼き某巫女と主従を結んだ、たった一匹の霊狐だった。
 一人と一匹は主従を超えて共に成長し、仲睦まじい兄妹のように成長した。

 誾千代姫の元には何匹もの霊狐が仕えていた。
 その霊狐たちは、その後、稲荷神の善き神使として霊験あらたかな逸話を齎(もたら)した。

 しかし。
 立花にまつわる稲荷信仰の、どの逸話にも、某巫女の名も霊狐の名も残されていない。

 ーーそれは霊狐が若い雄狐だったことに起因する。

 天正年間、豊臣秀吉によって行われた九州平定の結果、立花家は筑前立花山城から遥か南、筑後柳川城への転封が命ぜられた。

 誾千代姫は城督の座を譲った婿と共に、筑後柳川城へと居を移すことになった。
 当初は夫婦で柳川城内に暮らしていたが、誾千代姫の持つ父譲りの強大な霊力が新たな問題を生んだ。

 柳川城は元々、蒲池(かまち)氏が築城した難攻不落の名城。
 蒲池氏は九州古代より続く旧(ふる)い血を継ぐ一族。
 柳川城は敵を寄せ付けぬ建築技術もさることながら、旧き霊力を駆使した結界の強固な城でもあった。

 その結界は柳川城主が蒲池氏から龍造寺(りゅうぞうじ)氏へと移った後、龍造寺の術者によって更に手を加えられ、より戦に特化した形に再構築された。

 柳川城が、どれほどまで難攻不落の城だったか。
 それは誾千代姫の父、猛将戸次道雪でさえ生前、柳川城を攻略できなかった程の強固さだった。

 そのようなーー対戸次道雪の結界が張り巡らされた柳川城。
 実娘誾千代姫が入城すればどうなるか、火の目をみるより明らかだ。

 柳川城に入城後。
 誾千代姫は日を追うごとに食欲を失い疲弊し、更には夫の朝鮮出兵の心労も重なり痩せ細ってしまった。

 彼女は命を守るため、城より南方に位置する宮永(みやなが)村に住まいを移すことにした。
 しかし。その時問題になったのが、女ばかりの宮永の館に、見目麗しい雄の霊狐が住まうことである。

 霊狐にとって誾千代姫は大切な姫だった。
 その情はあくまで幼少期から仕える姫に対する厚い忠義であり、心からの敬愛だった。

 誾千代姫は当時、婿として迎えた夫との間に未だ子供を授かることができないでいた。

 父の代から仕える家臣たちと、新たに夫の代から仕える家臣たち。
 その二つを纏めるためになくてはならない待望の子供が、何の因果か全く生まれる兆しが見られなかった。

 入婿の夫・宗茂(むねしげ)は、実家の仲睦まじい両親の間に生まれた男子で、人が良すぎるほど情愛の深い男だった。決して、誾千代姫との夫婦仲に問題がある訳ではなかった。
 しかし不幸にも、朝鮮出兵の影響で夫は城を空ける日が増えーーますます待望の子供が望めない状況が続いた。

 そんな夫婦の現状を前提とした状態で、誾千代姫が城を離れ新居を建てて住まい、姫と親しい美麗な雄狐を侍らせたとすれば。
 人は皆、若き城主夫婦の関係を、何と噂するだろうか。


—-

 狐色に実った稲穂と青々とした空が美しい秋風の季節だった。
 大切な姫の悪評になりたくないと、雄の霊狐は遂に柳川城から去ることを決意した。

 己のきらきらとした狐耳と尻尾、それによく似た稲穂を眺める狐の元に、一人の女が近づいてきた。
 質素ながら小綺麗に整えられた小袖を着た彼女は、誾千代姫の侍女であり霊狐の主人の某巫女だった。

「来てくれて有難うな」
「……紫野……」

 もう既に、雄狐が何を言うのかは判っているのだろう。
 苦しい感情が既に、彼女の眉間と目元に滲んでいた。

「俺は筑前……博多に帰るよ」
「ッ……!」
「これ以上、姫の迷惑になりたくない」
「……そう、なのね……」
「なあ。お前も一緒に来ないか」

 雄狐の強い眼差しに、侍女の瞳が大きく見開いてーーそして揺れる。

「姫に暇乞いを出して、一緒に博多に帰ろう。共に商いをして、人の夫婦(めおと)のように暮らそう」

 狐は口に出したあと、きゅっと口を真一文字に結ぶ。汗ばむ手を拳に握り、じっと愛する女の答えを待つ。

 狐と侍女は、主従であり恋仲だった。
 二人をよく知る人々は、似合いの男女と持て囃していた。
 主である誾千代姫も黙認して見守るほど、二人は既に『巫女』と『霊狐』を超えた関係だった。

「……ごめんなさい。紫野」

 夕日が僅かに陰る程の時間をかけて、侍女は狐に別れの言葉を告げた。

「私も紫野と離れたくないよ。夫婦になりたい。でも……私を拾って育ててくださった立花への御恩に報いる為にも、誾千代姫が笑って暮らせるようになるまで……私は、姫の傍にいたい」
「……俺は一緒に暮らせない。それでも、ここに残るか」
「判ってる。判っているけれど……」

 侍女は胸をぎゅっと掴み、苦しげに唇を噛み締めた。
 その様子に狐は己の告白を深く後悔した。愛しい女を苦しませるのは、狐の本意ではなかった。

「そりゃそうだ。姫様は今、心細くいらっしゃるからな。父の思い出が残る城を手放してしまったし、頼れる夫も傍にいない。そんな姫様から……幼馴染の侍女を奪うわけにはいかない」
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。紫野」
「謝るな。俺が無理を言ったんだ」

 狐は胸の痛みを抑え、鷹揚に笑顔で尻尾を揺らす。

「俺は博多に帰る。あっちは戦の爪痕がまだまだ深くて、子供の頃のお前みたいな、寂しい思いをしている奴がたくさんいる。俺はそいつらを助けて世話して、暮らしていくよ」
「……紫野……」
「お前が姫の事を見守ってくれるなら、俺も安心して博多に帰れるから。だから泣くなよ」

 愛しい女の涙を拭いたい衝動を堪えて、狐は強がりの笑みを浮かべる。
 今にも沈もうとする夕日に照らされる、愛しい連れ合いの顔を、目に焼き付ける。

「ねえ、紫野」
「ん?」
「もし。……もし、だよ? 姫様のご体調が治って、ややこがお生まれになったりして、姫様が昔のように笑顔でいられるようになった時……私は博多に、紫野に会いに行きたい。その時、私がどれくらい年取ってるかわからないけれど……夫婦になれなくてもいいから。会ってくれる?」
「勿論。当然だろ」

 狐は全身が喜びに総毛立つのを感じる。待っていれば、いつか一緒になれるのならば何十年でも待てる。

「幾つになろうが、落ち着いたら絶対博多に来いよ。俺はいつまでも待ってるから」
「私は人間だから、すぐにシワシワになっちゃうけど……」
「ばぁか。魂で人を見分ける狐の俺には、お前が年取ろうが婆になろうが、お前以外の何者にも見えないんだよ」
「ありがとう」

 顔をあげて笑う彼女が可愛くて、狐はたまらず駆け寄り、力いっぱい、愛しい連れ合いを抱きしめた。

「待って、私、汗臭いから、」
「狐の嗅覚じゃ、風呂上がりだろうが対して変わらねえよ」
「……恥ずかしいのは私の方なんだけど……」

 紫野は抱きしめた女の髪に鼻を埋め、深く息を吸い込んだ。
 一日中、一生懸命外で働いた彼女は太陽の匂いがする。薬草の強い香りが染み付いた髪も、草の色が染み、ささくれ立った指先も、砂埃でざらついた頬も、柔らかな体も全部、今宵から全て過去のものになる。

 紫野は瞳を閉じて、強く抱きしめ、彼女の魂の形を体に刻みつけた。
 主従の印より深く記憶して、彼女のいない年月を生きるための縁(よすが)とするために。

「全部終わったら、夫婦(めおと)になってくれ」

 胸板に押し付けられた彼女の頭が、こくん、と頷くのを感じた。
 着物の袂がじわりと熱い。彼女の涙が染みて、きっと酷いことになっている。
 それすらも紫野は幸せだった。

「お前がいくつになろうが、元気で笑って帰ってきてくれるまで、俺は絶対、ずっと待ってるからな」