それでも一度だけ、どうしてもと母親に言われ渋々会いに行ったことがあった。そのときの父親は美桜を見て涙を流し、骨と皮しかない手で頭を撫で、そして抱きしめた。

「そのときにね、お父さんが私に言ったの。『ありがとう』って」
「ありがとう?」

 美桜は頷いた。今でもよく覚えている。息が切れかかっていて、苦しそうで、ほとんど聞こえないような掠れた声で父親が絞り出すように言った『ありがとう』。もしかしたらもっと伝えたいことはあったのかもしれない。ドラマや漫画の中なら死ぬ間際に伝える言葉はきっと『ずっと見守っているよ』とか『そばにいられなくてごめんね』とかそういうものだ。でもそんなにたくさん喋れない中で、父親がなんとか紡ぎ出した言葉が『ありがとう』の五文字なのだと美桜には思えた。

「その言葉があったからお父さんがいなくて辛いときとか悲しいときに、私は一人じゃないって思えた。でもあのとき会いに行かなかったら、そんな言葉も聞けないままに私の中のお父さんは病気で苦しんで弱って死にそうになっている姿のままだった。本当はあんなにもあたたかかったのに」
「そっか」
「だからね、細村の怖いっていう気持ちも凄くわかるけど、わかるからこそ行ってほしかった。勝手に気持ち押しつけちゃってごめんね」
「いや……。あのとき美桜がああ言ってくれたからちゃんとばあちゃんに向き合えたし感謝してる」

 真剣な表情で言う敦斗に美桜は小さく微笑んだ。自分と父親の思い出が誰かの、敦斗のためになったのならそれは凄く嬉しいことだ。今はもういないはずの父親がまた誰かの心の中で生きることができるから。

「それじゃあ、また明日。学校で」
「うん、また明日」

 美桜は敦斗と別れて家に入る。あんなにも行きたくなかったはずなのに、自然に『また明日』と言えたことに驚くと同時に、むず痒さを覚えた。