呼び止められて敦斗は驚いた表情を浮かべる。けれどそれ以上に呼び止めた美桜自身が困惑していた、いったい自分はどうしたのだろう。もう人となんて関わるつもりはなかった。特に敦斗となんて絶対に。それなのに、去って行くあの背中に声をかけずにはいられなかった。

「美桜?」
「……お兄ちゃんの部屋、開いてるよ」
「敬一さんの?」

 美桜は頷く。三つ上の敬一は大学進学を機に一人暮らしをしている。長期休みのときに帰ってくるからと家具や寝具はそのままになっている。月に一度、風通しをしているから埃っぽくもないはずだ。

「公園で寝るよりはいいんじゃない?」
「でも」
「母親も、相変わらず家にはほとんどいないから、さ。それに公園で猫に威嚇仕返したりしたら、猫が可哀想だし」
「たしかに」

 敦斗は美桜の言葉に小さく笑った。
 美桜の家に父親はいない。美桜が小さい頃に病気で死んだ。女手一つで育ててくれた母親は自宅にはほとんどいない。美桜が小学校低学年までは時短勤務でなんとか夕方には母親だけでもいるように、と頑張ってくれていたけれど美桜が四年生、兄の敬一が中学一年になった春からは「もう大丈夫ね」と家を空けがちになった。
 最初こそ夜中には帰ってきていたけれどそれも気づけば週に一度、高校に上がった今じゃあ月に一度帰ってきたらいいほうだ。寂しかったけれど自分のために働いてくれている母親にそんなことは言えなかった。
 美桜の言葉に敦斗は少し考えるような表情を浮かべたあと、頭を掻きながら照れくさそうに口を開いた。

「それじゃあ、お願いしようかな」

 こうして美桜と敦斗の秘密の同居生活が始まった――。

「あ、ねえ」
「え?」

 美桜は敬一の部屋へと向かう敦斗の背中に声をかけた。

「未練って、本当に学食なの? 本当は何か心当たり、あるんじゃないの?」

 美桜の言葉に敬一は黙り込む。その反応はおそらく当たりなのだろう。

「ちゃんと教えてよ、未練」
「……そうだよな」

 敦斗は振り返ると真っ直ぐに美桜を見た。その表情に少しだけ心臓の音が大きくなるのを感じた。なんで、そんな表情をするの。美桜が口を開くよりも早く敦斗がポツリと呟いた。

「俺、好きな子がいたんだ」
「そう、なんだ」

 心臓の音が、うるさい。あまりにも敦斗の視線が真っ直ぐに美桜を射貫くから。