放課後、いつものように図書室に向かおうと準備をしていると、琴美がやってきて申し訳なさそうに手を合わせた。

「ごめん、里香にちょっと買い物付き合ってって言われちゃった」
 私とはあまり面識のない、別のクラスの子だったけれど、初めてできた彼氏の誕生日プレゼントに何を買ったらいいのかわからないと言って琴美に助けを求めて来たらしい。

 さすが琴美、と私は感心した。交友関係の広さもだけど、琴美に聞けばいいアドバイスがもらえると信頼されている。流行に敏感な方でセンスもあると、私だけじゃなくみんなが思っているってことだ。

「いいよ、今日は私ひとりでやるよ」
 はかどる気はまったくしないけど、かといって自分を甘やかしてしまえばそれが癖になってしまう。テストまではあと少しなのだから、自分に喝を入れてがんばらないと。

「ごめんね、後で連絡するから」
「大丈夫だよ、気にしないで」
 そう言うと、琴美は教室を出るまで三歩ごとにこちらを振り返りながら謝っていた。

 琴美の姿が見えなくなるまで見送ってから、私は鞄を肩にかけて教室を出る。

 図書室は私たちの教室がある校舎とは別の棟になる。その棟は図書室以外には司書の先生の部屋とか、資料室みたいな図書関連の部屋しかないから、ほとんど図書室専用の棟と言ってもいい。高校では比較的充実している設備のようで、大学の図書館みたいだと、以前先生の誰かが言っていた。私は大学の図書館なんて行ったことないからわからないけど、どうやら大学というのはすごい設備の集まりらしい、という印象は持った。

 いつもはしんとしているイメージの図書室だけど、テスト前ともなれば私と同じように勉強目的で訪れている生徒も多く、空気が少しだけにぎやかで軽い。四人掛けから八人掛けまで大きめの机がいくつも用意されているけれど、空いているのは大きな八人掛けのものだけだった。

 もちろん大きな話し声がするわけじゃないけど、それぞれ教え合ったりしているみたいで、テストも近いから、表情はみんな真剣だ。

 今日は自分ひとりのせいか、ちょっとだけ居心地が悪く感じる。にぎやかな空気に横から押し出されるように、私は密度の少ない八人掛けの一番端、窓際の席に座った。

 座ってみて、どうしてこの辺りが人気が少ないのか理解した。ここは西日が当たっていて、暑くて眩しい席だ。しかたないかと諦めて、先生から配られた対策プリントを引っ張り出す。座り直すのも面倒だし、人の固まっているところに行くのも嫌だし。

 しばらくプリントに書かれた問題と向き合っていると、暑さにも眩しさにも慣れて意外と集中できた。正直わからない問題の方が多いから、教科書と交互ににらめっこしながら進めている。

 どれくらい時間が経ったのか、すごく長い時間勉強したように感じるけど、実際には大して経っていないかもしれない。相談する相手がいないまま、わからない問題に立ち向かうというのはすごく疲れるんだなと、思い出したように実感する。

 少し休憩しようと、大きく息をつきながら私は椅子の背にもたれかかる。

 すると、それを待っていたかのように、後ろから誰かに声をかけられた。

「あのさ」
「わぁっ!」
 驚いて、つい悲鳴を上げてしまう。瞬間、周囲の視線が一斉に私の方へ注がれたけど、それどころじゃなかった。こんなところで急に声をかけてくるなんて誰だろうと、その人物の特定に私の全神経が向けられる。

 そこにいたのは、見覚えのない男の子だった。ひょっとしたら、見たことぐらいはあるのかもしれないけど。忘れてるだけかもしれないけど。

 とりあえず、クラスメイトでないことは確か。

「しーっ。そんなに驚かなくても……」
 周囲の目を気にして慌てていたのは彼の方だった。人さし指を口元に当て、小声で私をたしなめるように言ってきたけれど、急に後ろから声をかける方もどうかと思う。

「えっと……誰、ですか?」
 警戒しつつも、そう尋ねるのは正直勇気が必要だった。私が忘れているのだとしたら、事故がどうこうの言い訳はあるけど単純に申し訳ない。事故前の記憶をすべて思い出しているという自信がないから、知らないことを当然のようには扱えない。

「いや、ごめん。話したことのない人にいきなり話しかけられても困るよね。桜川愁です、一応、隣のクラス」
「あ、私……高山雪穂」
 自己紹介されたので自分も名乗ったけれど、どうやら私が彼のことを忘れているわけではなさそうだとわかってほっとした。

 隣のクラスということで、同級生ということもわかった。ただ、やっぱり彼の顔に見覚えはない。元々私の人付き合いは他のクラスの人まで把握できるほど広くないから、しかたないけれど。

「それで、何か用ですか?」
 ほっとしたとはいえ、私の警戒心は薄れなかった。そもそも私は男子と話すことも話しかけられることもほとんどないから、いきなりじゃなくたって男子を前にするとつい身構えてしまうんだ。

 私が尋ねると、桜川、と名乗った同級生の彼は思い出したように口を開く。

「あ、そうそう。高山さんって、事故に遭ってずっと入院してたんでしょ? それで、最近になってようやく退院したって聞いたんだけど」
「……うん、まぁ」
 その時の私がどんな表情をしていたかわからないけど、決して友好的な表情ではなかったと思う。

 退院して学校に通い始めた直後、同じような質問を何度か受けた。心配されていたのもあると思うけど、興味本位で聞かれていると感じることも多くて、正直うんざりしていたのを思い出す。

 聞かれても事故のことはほとんど覚えてないし、入院していた時もずっと眠っていたような状態だったのだから、答えられることはあまりない。私の頭の中に人工の機械の脳が入っているなんてことも、言ってはいけない気がした。

 私が答えられず困っているとすかさず琴美が助け船を出してくれていたのだけど、その琴美も今日はいない。

 私は歯切れの悪い返事をして、そのまま口を閉ざした。私の精一杯の拒絶の意志だ。それ以上のことを答えるつもりもなかったから、彼の顔が見えないようにうつむいていた。

 そんな私の態度につまらなそうな視線を向けてくる人もいるのは知っている。それを見てしまうと何か悪いことをしたような気分になるので、嫌だったから。

 何とか早く去ってほしいと心の中で願っていると、彼の口からは予想していなかった言葉が飛び出した。

「こんなとこでひとりで勉強してるってことは、やっぱりずっと休んでた影響で勉強遅れてるからでしょ? もしよかったら、わからないところ教えようかと思って」
「え?」
 私は思わず、顔を上げて聞き返す。きょとんとした顔で、私をまっすぐに見下ろす彼の顔があった。

「どうかな? 教えるのは得意な方だと、自分では思ってるんだけど」
 照れくさそうに笑みを浮かべながら、そう続ける。

 私は唖然としていた。まさか、話したこともない同級生から突然勉強教えてあげると言われるとは思っていなかった。いや、そもそもどういうつもりでそんな申し出をしてくれているのだろう。ただの親切心なのかな。

「友達が教えてくれるからいいよ。今日は、ちょっとその友達が別の用があっただけで」
 どちらにしても、勉強の相談相手は琴美がいるので間に合っている。琴美がいなかったとしても、話したこともない相手に頼むことは気が引ける。

「でもほら、ここ間違ってるし」
「えっ」
 言いながら彼が指さした先を見やる。そこはついさっき、私が教科書とにらめっこしながら苦心して解いた問題だ。

「あと、ここと、ここと、ここも。全部惜しいけど使う公式が違う」
「えぇ……」
 せっかく解けたと思ったのに、間違いを指摘されてしまうと自分の努力が無駄な時間だった気がしてがっかりする。

 もうダメ、これ以上やる気出ない。今日はもう諦めようと思った時、彼は私のシャープペンを手に取り、プリントの余白にさらさらと式を書き進めていった。

「こっちの公式を使うのが正解。考え方はこんな感じ」
「もう解けたの?」
 私は驚いて目を見開く。このプリントは今日の最後の授業で配られたもので、授業の直前に作ったと先生が言っていた。だからこの問題を見ているのは私のクラスだけのはずなのに。

 それを瞬時に解いてしまうなんて、信じられない。

「えっと……桜川、くん? ひょっとして、けっこう成績いい?」
 そう尋ねると、彼はまた照れくさそうに笑った。

「一応、テストの時はたいてい学年トップかな……」
「えぇっ!」
 私は思わず大声で叫び、また周囲の目をこちらに呼び寄せてしまった。今度は私も申し訳なく思い、周囲にぺこぺこと頭を下げる。

「すごい……学年トップの人って、本当にいたんだ」
「いるでしょ、そりゃ」
 彼に突っ込まれて自分でも何言ってるんだろうと思ったけど、学年トップの成績を取るなんて、毎回テストの度に頭を悩ませる私からすればまるで別次元の存在だ。証拠はないけど、すぐに問題を解いたところを目の当たりにしてしまうと、信じるしかない。

「いつもは友達に教えてもらってるんだったら、よけいなお世話だったね。ごめん、ひょっとして困ってるんじゃないかって思ったから」
 そう言われて私は黙り込んだ。困っているのは図星だ。せっかく解いた問題を違うと言われ、まるで袋小路に迷い込んだ気分。

「……よかったら、ここだけでも解説する?」
 私の落ち込んだ気持ちを感じ取ったのか、彼が控えめにそう尋ねた。助かる、と反射的に感じて彼の方を見上げた私の目は、輝いていたかもしれない。

 すると、彼は抑えきれなかったように、ぷっと吹きだした。

「じゃあ、隣座ってもいい?」
 私は少しだけ考えた後、無言でこくりとうなずく。

 座りながら彼に、高山さんって思ってることがけっこう表情に出るよね、と指摘されて恥ずかしかった。