「雪穂、それで納得できたんだ」
 意外そうに、琴美が言った。

「納得してるわけじゃないよ」
 私は首を傾げながらぼやくように否定する。

 学校からの帰り道を琴美と歩きながら、私が病院で自分の頭の中のことを聞かされた時の話をした。

 琴美は小学校のころからずっと仲の良い親友で、私が事故に遭ってから毎日のようにお見舞いに来てくれていたらしい。だから私の頭の中の人工脳のことも私が知るより前から知っている。琴美もよく理解できていたわけではないけれど、私が目を覚ます可能性があるならと、その提案には賛成だったそうだ。

「説明を受けてもさっぱり。いまだにここに機械が入ってるなんて信じられないよ。全然そんな感じしないし」
 私は自分の頭を指さしながら言った。強めに頭を揺さぶってみたら何か変わった音でもするかなと思ってやってみたけど、音はしない。

「私たちみたいな普通の女子高生には理解できない話だったね」
 琴美は困ったように苦笑しながら、肩をすくめた。

 私が日常に戻って、もう一ヶ月になる。

 数ヶ月眠っている間に私は何とか進級して高校二年生になっていて、幸運なことに琴美と同じクラスだった。私が事故に遭ってほぼ植物状態となっていたことはクラス全員の知る噂になっていたらしい。退院後、初めて登校するのはさすがに勇気が必要だったから、琴美がクラスメイトで本当に嬉しい。

 私が教室に入るとさすがにクラス内は一斉にざわついたけれど、元々仲のいい友達もいたことや、琴美が事前に私がやってくることを周囲に話してくれていたおかげで、何とかクラスで浮かずに済んだ気がする。

 私の脳のことは、琴美以外には伝えていないけれど。

「それはそうと、今日はどこか寄ってく?」
 思い出したように、琴美が言った。

「そうだね……あ、そういえばまだ目が覚めてからパフェ食べに行ってないかも」
「じゃあ、駅前の喫茶店行こっか」
 琴美の提案に、私はうん、とうなずく。

 学校から徒歩で十分ほどの場所にある駅は、家とは逆方向に当たるけれど寄り道するには最適だ。お茶をするにも、ショッピングをするにも、ある程度のことはまかなえる。さすがに最近は控えているけれど、事故に遭う前は週に二、三回は寄り道していた。

 駅前の広場を中心に、左右に長い商店街が伸びている。目的の喫茶店は、その商店街の一角に立っていた。今どきのおしゃれなカフェとは対極で、自分で言うのも何だけどおよそ女子高生が立ち入るような雰囲気じゃない、渋い店だと思う。でも、この喫茶店で出される昔ながらのパフェが、私たちのお気に入りだ。


 目の前に置かれた背の高いグラス。うず高く積まれた生クリームやフルーツの山に、私と琴美は歓声に近い声を上げた。

 両手でグラスをそっと持ち上げると、ずっしりした重さが肩まで伝わる。自分の最も食べやすい位置まで引き寄せて、柄の長い専用のスプーンをパフェが崩れないように静かにクリームへ差し込む。そのまま口へ運ぶと、ふわりと軽い食感がして、冷たいクリームの甘みがじわりと舌の上で溶けていった。

 自然と、笑顔がこぼれた。おいしいね、と琴美と確認し合った後、クリームの下に仕込まれたアイスが溶けない内にと、しばらく無言で食べ進める。

「そういえばさ」
 ふと、琴美がつぶやく。

「雪穂は、もう事故に遭う前のことはだいたい思い出せたの?」
 その問いに、私は思わずパフェを食べる手を止める。

「あ、ごめん。あまり言いたくないよね」
 私が暗い顔でもしていたのだろうか。琴美が慌てたように撤回した。

「ううん、そういうわけじゃないけど」
 私は首を横に振って否定した。逆に私こそ、そんな顔をしていたんだったら申し訳ない。

「わからないんだ。確かに事故の瞬間の記憶とか、どこでどうなってあんな目に遭ったのかは覚えてないんだけど。でも、じゃあいつまで覚えているのかとか、そこまでの記憶は本当に覚えているのかとか。覚えていることはわかるけど、忘れていることってわからない」
 私は素直にそう告げた。正直、そのあたりはあまり深く考えてはいなかった。目覚めてからずっと目の前の一日をただ確かめるように過ごすことで精いっぱいで、記憶をさかのぼっていく余裕もない。だから、自分が思い出したつもりでも実は忘れてしまったままのことがあるんじゃないかと、不安もある。

 余裕がないのか、ただ無意識に避けているのかはわからなかったけど。ただ、今のところ生活に支障がないのは救いだった。

「そっか……それもそうだよね。私から聞いといてなんだけど、無理に思い出そうとしなくていいからね」

 琴美はそう言ってまたパフェを食べる手を進めた。何か思い出したらすぐに琴美に話そう、と密かに決意して、私も再びパフェに向かった。

「考えてみれば、意識が戻らないぐらいの事故だったんだもん。目が覚めたのも奇跡、全部じゃなくてもほとんど記憶を取り戻せたのも奇跡。そうでしょう?」
 私はうん、とうなずく。

「琴美とこうしてまたパフェを食べれるのも、奇跡だね」
 言葉を借りてそう言うと、琴美はにこりと笑った。

「事故のことなんていい記憶なわけないんだから、忘れてる方が都合いいくらいなんだよ、きっと」
 そのとおりかもしれない。無理に思い出そうとしているわけではないけれど、今はあまり深く考えないでいよう。

 それよりも――私には、目の前にもっと重大な問題が待ち構えている。

「そういえば、もうすぐ中間テストだけど雪穂は大丈夫?」
 私の心が読めているのかと訝しんでしまうほど絶妙なタイミングで、琴美が話題を取り上げた。できれば私が今一番目をそらしたかった話題だ。

「大丈夫なわけないじゃん……」
 私の声はきっと、世界の滅亡を前にしたような悲壮感に満ちていた。

 中間テスト。今の私にはとても乗り越えられそうにない高すぎる壁だ。眠っている間にかろうじて進級できたとはいえ、およそ三ヶ月近い期間、私はまったく授業を受けていないことになる。

 当然、その期間に勉強する範囲のことは知らないし、今の授業にもついていけていないことの方が多い。そもそも、私は元から勉強が得意じゃないし、好きでもないし。

「ごめん……気にしてあげられなくて」
 琴美が申し訳なさそうに手のひらを合わせた。

「あ、じゃあさ、中間テストまで一緒に勉強しようよ」
 ぱっと顔を輝かせて、琴美が提案する。

「それは助かるけど……でも、琴美の勉強の邪魔にならない?」
 私が言える立場じゃないけど、琴美もあまり勉強が得意というわけじゃない。もちろん、今の私よりはずっとましだけど。いつもテストの前は悲鳴を上げながら一緒に勉強していたな、と思い出す。私のペースに合わせて、琴美の成績がひどいことになってしまったらそれこそ本末転倒だ。

「私は大丈夫だよ。それに、人に教えた方が自分がちゃんと理解できているかわかるから効率いいって聞いたし」
 私は琴美の提案に甘えることにした。そうまで言ってくれるなら、逆に乗らない方が申し訳ないというものだ。

 それから、放課後には遅れを取り戻すための勉強漬けの日々が始まった。

 教室でやってもよかったけど、割と残っている人が多かったり、人の出入りもあって集中できそうになかったから、場所は図書室でやることにした。

 琴美が協力してくれるとはいえ、やっぱり一朝一夕で追いつくのは難しい。せめて勉強がちょっとでも楽しいと思えたら効率もよかったかもしれないけど、そう都合よくもいかない。だから、まずは目の前の中間テストを乗り切ることにした。その山さえ越えれば、ひとまずこの苦労からは解放される。

「何でテストなんてあるんだろうね」
 私が心の中で思っていたことを、琴美も笑いながらそう言った。