三人で水族館に行く日、私は約束の時間の十分前に一番乗りで到着した。
水族館の入口の前を待ち合わせ場所にしたのは琴美だ。私と琴美の家は近いから、当然一緒に行くものだと思っていたけれど、朝から行く場所があるからと琴美に断られてしまった。
待ち合わせの五分前になった時、慌てた様子で愁くんがやってきた。
「ごめん、もっと早く着くつもりで支度してたんだけど、乗る予定だった電車に乗り遅れちゃって」
「まだ時間前だし、大丈夫だよ」
「待たせちゃったね」
「ううん、私も今来たばかり」
「まだ雪穂だけ?」
「うん。琴美も時間になれば来るよ、きっと」
何気ない会話だったけれど、どこかで見たようなやり取りが私には新鮮で楽しい。
それから約束の時間になっても、琴美はまだやってこなかった。まぁ、愁くんも予定より遅れたぐらいだし、琴美もちょっと遅れてるのかもしれない。そう思ってもう少しこのまま待つことにした。
「そういえば、愁くんは何で遅れたの?」
別に遅れた理由を責めるつもりは全然ないけれど、単純に気になって聞いてみた。
「いや、えっと……ちょっと、服とか選ぶのに時間かかって」
恥ずかしそうに頭をかくような仕草をしながら、口をもごもごとさせて愁くんが答える。
「えっ?」
「正直に言うと、女の子と休みの日に出かけるのは初めてで……何を着ていけばいいのかわからなくて、けっこう迷った」
「……そうなの?」
意外な答えが返ってきて、私は思わず聞き返してしまった。愁くんは遊び慣れてる……ようにはとても見えないけど、そんな経験がまったくないとも、洋服にそんなに悩んだりするとも思わなかった。
「ふふっ」
私は思わず、声を出して微笑んでしまう。
「やっぱり、おかしい?」
「ううん、違うよ」
私は首を横に振って、否定する。
「私も同じ。何着ていけばいいかわからなくて、昨日けっこう悩んだんだ」
自分の格好を見せるように手を広げる。今日のコーディネートは昨日の夜、琴美がうちに来て一緒に選んでくれた。服装にまったく気を使わないわけじゃないけど、センスにはあまり自信がなかったからだ。洋服や小物だけじゃなくて、普段はやらない編み込みのヘアアレンジも、昨日がんばって習得した。
私に向ける愁くんの表情が、心なしか強張っているように見える。私もじっと愁くんを見返した。
実は、このコーディネートを手伝ってもらった代わりに、琴美から厳命を受けている。それは全身をアピールして、感想を引き出すんだよ、というもの。恥ずかしくて無理だよ、と反対したけど、結果的に押し切られた。せっかくおしゃれするのに、感想をもらわないのも言わないのもありえない、と琴美が断固として譲らなかったからだ。
さすがに直接『どうかな?』なんて聞くのは私も恥ずかしくてはばかられる。代わりにじっと見つめて、せめて気に入ってもらえるように祈った。
「……何か、制服じゃない雪穂を見るのは初めてだから新鮮だね。すごく、いいと思う。その髪型も、似合ってるし」
勉強ができたことを褒めるのは簡単そうにやるのに、こういうところを褒めるのは恥ずかしいみたい。視線を外して顔を赤らめる愁くんに、私はどきりとした。
でも何とか気に入ってもらえたみたい。褒め言葉が素直に嬉しくて、私は心の中で飛び跳ねながら、ガッツポーズまで掲げる。
「愁くんも、いいと思うよ」
お返しに、私も愁くんの格好を褒めようと思ったけど、確かに恥ずかしい。視線を外した愁くんの気持ちが理解できる。私たちはお互いに、顔を伏せながら頬を紅潮させていた。
「そういえば、琴美遅いね」
はっと気づいてスマホを確認すると、もうずいぶん待ち合わせ時間を過ぎている。何かあったのかなと心配していると、アプリから私と愁くん宛にメッセージが届いた。
「あれ、琴美からだ。やっぱり何かあったのかな」
私はすぐにアプリを開いてメッセージを確認する。そこには。
――ごめん、急用で行けなくなっちゃった。二人で楽しんできて。
と、簡素な文字が浮かぶ。それに続けて、かわいい動物のキャラクターが手を合わせて申し訳なさそうに謝っているイラストも画面に表示された。
「え、どういうこと?」
私は慌てて返信しようとした。すると――
ぶるっとスマホが震えて、また琴美からメッセージが飛んでくる。でも今度はなぜか、私だけに送られている。
不審に思いながら私はそのメッセージを確認した。
――というわけだから、がんばってね。
という文章と、最後に大きなハートマーク。
「えっ……」
思わず、絶句する。そして察した。
琴美は最初からそのつもりだったんだ。三人で行くと思わせて、直前でドタキャンして私と愁くん二人だけの場を作る。だから私と一緒に行くのも、用事があると言って断ったに違いない。
琴美がこのシチュエーションを望んでいる、いや楽しんでいるのはわかっていたけど、まさかこんな古典的な手を使うなんて。まんまと引っかかった私も私だけど。
「どうかした?」
私だけに送られた琴美の策略に、愁くんは気づいていない。頭を抱える私に、愁くんが尋ねてくる。
「いや……ううん、何でもない」
「じゃあしかたないから、行こうか」
入館口の方を指さしながら、愁くんが歩き出す。
「……うん」
想定外の状況に突然放り込まれて、平静を失いそうになる。愁くんだって初めてだって言っていたのに、どうしてそんなに落ち着いているように見えるんだろう。とはいえ、ここであたふたしたり断るのも変だ。か細い声でうなずいて、私は後を追った。
しばらくドキドキしていた私の心臓も、館内に入ってしばらくすると不思議と落ち着いた。真夏の暑さを忘れさせてくれるような、ひんやりとした空気に包まれていて、ぽーっとしていた頭がゆっくりと冷静さを取り戻す。入り口からトンネルのような薄暗い通路を抜けて、差し込む青白い光を目指すと、大きな水槽のある部屋に出た。
「わぁ……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
自分の背丈となんて比べ物にもならない、映画のスクリーンのような大きな水槽。遥か頭上から水面に向かって降り注ぐ疑似的な太陽の光が、水の色を写し取りながら薄暗い部屋を穏やかに照らしている。
分厚いガラスの向こうには、海の世界が広がっていた。岩や砂でごつごつとした地面に、ゆらりとただよう海藻。それに大きさも種類も様々な海の生き物が、自由に動き回っている。タイやヒラメの舞い踊りなんて童謡の歌詞があったけれど、悠然と泳ぐその様は、確かに私には舞っているように見えた。魚にしてみれば、私たちがただ道を歩くのと同じように泳いでいるだけなのだろうけど。
私はガラスへ近づいて、そっと手を触れる。光の錯覚のせいかよくわからないけど、このガラス一枚の向こうはどれだけ広いんだろう。ひょっとしたらこの中のどこかが本物の海と繋がっていて、実は私たちがいるこの場所よりずっと広大なのかもしれない。
「好きなの? 水族館」
隣で海の中を覗いていた愁くんが、そう尋ねてきた。
「うん」
「そっか、よかった。久しぶりに来たんでしょ?」
「そうだね。最後に行ったの、もう一年以上前だよ」
確か、高校受験から解放された時に行ったのが最後だったと思う。
「だから琴美は水族館にしようってあんなに強く言ってたんだ」
ようやく合点がいったというように、愁くんが首を縦に振る。二人で相談したのかと思いきや、やっぱり琴美の一存だった。そのやりとりが容易に想像できる。
「琴美に感謝しなきゃね」
「え?」
「雪穂がそんなに夢中になって楽しめるとは思わなかったから」
言われて、私ははっとした。二人しかいないというのに、私はあまりに心を奪われてしまって会話どころか声すらまともに発していなかった。
「あ……ごめんね、つい」
「気にしなくていいよ。むしろそんな夢中になってる雪穂を見るの初めてだったから嬉しい。だから、感謝しなきゃってね」
「ありがとう。そうだね」
「でも、まだ最初の部屋だから時間配分は考えておいてね。ここだけで閉館時間にならないように」
「だ、大丈夫だよ。まだお昼回ったばかりだよ? いくら私でもそんなに長くいないよ」
私が慌ててそう言うと、愁くんは笑いながらまた水槽に向き直った。私もまた海の世界へ浸ろうと思ったけれど、その前に少しだけじっと愁くんの横顔を見つめてしまった。
この状況も……感謝するべきなのかな。多少強引だけど、自分だけの力ではなかなか二人で遊びに行くなんて状況は作れなかったと思う。いきなり愁くんを放っておいて言うのもおかしい話だけど、正直嬉しいし、楽しい。
たぶん、今日の夜あたり「どうだった?」っていう電話がかかってくるかな。根掘り葉掘り聞かれそうだから、構えておかないと。それで、一応苦言を呈した後、お礼を言おう。
私はまたしばらく、この巨大水槽を堪能した。
ふと気がつくと、周囲がざわざわと騒がしくなっている。いつのまにか子供連れの団体客が入館してきていて、私と同じようにガラスに張りついて夢中になっていた。食い入るような目で魚を眺めている子もいれば、歓声を上げて跳ねている子もいる。
ずっとここにいたら邪魔になってしまうかなと、譲る気持ちでこの場所を離れようとした。私はもう、たぶんここにいる誰よりも長く楽しんだし。
ところが、動こうとしたら目の前を小さな子供が走り抜けて、さらにそれを追うお母さんが申し訳なさそうに頭を下げながら通り抜ける。予測不能な動きに、ぶつかりたくない私はその場所から動けなくなってしまった。
「雪穂、こっち」
戸惑っている私をその場から連れ出すように、愁くんが私の手を引く。
優しく、包み込むように私の手を握って。
ひんやりとした巨大水槽の室内で、繋がった手の一点だけが淡く灯るように温かかった。
学校を飛び出した後、公園で抱きしめられたことを思い出した。いろいろあって忘れてしまっていたけど、この手の温もりはあの時と同じだ。再び感じたその温もりが、手を通して血液を通して、私の心臓をどくりと鳴らした。
少しだけ、欲が出る。少しだけ、思い上がったことを考えてしまう。
私は――特別な存在、なのかなって。勘違いじゃなくて、そう思ってもいいのかなって。
巨大水槽の部屋を抜けた後、世界の海ごとに分けられた部屋や、深海のコーナー、イルカのショーと順番に見て回った。水族館の方もリニューアルされていたみたいで、展示内容も私の小さい頃の記憶とは違っていたし、途中ペンギンに実際に触れ合えるエリアも新設されていた。ほとんど初めて来たような気持ちで、自分でも自覚できるぐらい夢中でテンションも上がりっぱなしだったんじゃないかと思う。その間ずっと私は愁くんを振り回していたかもしれない。それはちょっと、申し訳なかった。
水族館のエリアを一通り見て回ると、併設する形で新しく建てられた美術館の方へ移動した。美術館へは館内の連絡通路で繋がっていて、日の当たる暑い屋外へ出なくてもいいのは嬉しい設計だった。
美術館には水族館で見ることのできなかった海の生き物を中心に、写真が展示されている。よくは知らないけど、何かの理由で水族館に連れて来られなかった代わりなのかもしれない。それでも初めて見る姿に、私の心は思いきりつかまれてしまう。
「へぇ、珍しい生き物だね。僕も見るの初めてかも」
感心した声で、愁くんがそう言った。
「愁くんでも?」
自分が夢中になりすぎてて聞きそびれてしまったけど、愁くんは頭がいいし、物知りだ。私にとっては初めて見るものでも、愁くんだったら知ってることなんだろうと勝手に思っていた。
「うん。相当珍しいと思うよ。実は僕も海の生き物って好きでさ、小さい頃によく図鑑とか見てたの覚えてる。でもこの写真のものは見たことないかな」
「へぇ……図鑑にも載ってないんだ」
「子供の時に見た図鑑だからね。ひょっとしたら、最近見つかった新種だったりして」
それまで私の一歩後ろで見ていた愁くんが、私のすぐ隣で覗き込むようにその写真を見つめる。愁くんの子供時代なんてもちろん知らないけれど、その頃を想像させるような、キラキラとした目がかわいくて、私は嬉しくなった。
「よかった」
「何が?」
「愁くんも、楽しそうで」
「楽しいよ、最初からずっと」
愁くんがそう言って笑みを浮かべる。
やがて、琴美と一緒にサイトで見た写真が私たちの前に姿を現した。水平線の向こうに昇る、眩いほどの朝日。その写真は、さすがにサイトでもメインで扱われていただけあって、これまで見てきた中で一番大きな写真だった。部屋の壁の一面をすべてその一枚で占めるようなサイズで、壁に沿いながら歩いていたら、とても視界に収めきれない。
私たちは部屋の中心に立って、その写真を見つめた。
まるで、本当にその写真の場所に立って朝日を眺めているみたい。放射状に伸びる光で、空が明けていく。その光が写真を突き抜けて、薄暗いこの部屋の天井まで照らし出しそうだった。
「何か……きれい」
私はたぶん、感動しているのだけど、それを言葉にできないのがもどかしい。もっと素直にこの気持ちを、自分の心を、この口から言葉にして伝えられたらいいのに。
「うん、きれいだね」
私と同じ言葉でこの景色を形容する愁くんと、思わず顔を見合わせた。愁くんが私に合わせてくれたのか、それとも愁くんでも表現できないほどこの景色が素晴らしいのかわからないけど、ただ同じように感動を共有できたのは伝わった。
「……一緒に、見に行こうか」
「えっ?」
つぶやくように愁くんが言って、私は聞き返す。
「こんなにきれいじゃないかもしれないけど、海に見に行かない? 朝日」
「それって……」
「そんな時間に出かけることになるから、ちょっとドキドキしちゃうけどさ」
恥ずかしさを隠しきれない顔で、愁くんがそう言った。声の調子がいつもと違う。さらりと言おうとしているようだけど、上ずってしまってるし、ちょっと早口。見えなくても、聞こえなくても、愁くんの鼓動が速いんだとなぜだかわかる。たぶん聞いた私も、同じことを思って、同じように鼓動が高鳴っているからだ。
「うん、行く。行こう、一緒に」
私も勇気を出して、はっきりとそう返事をした。
水族館の入口の前を待ち合わせ場所にしたのは琴美だ。私と琴美の家は近いから、当然一緒に行くものだと思っていたけれど、朝から行く場所があるからと琴美に断られてしまった。
待ち合わせの五分前になった時、慌てた様子で愁くんがやってきた。
「ごめん、もっと早く着くつもりで支度してたんだけど、乗る予定だった電車に乗り遅れちゃって」
「まだ時間前だし、大丈夫だよ」
「待たせちゃったね」
「ううん、私も今来たばかり」
「まだ雪穂だけ?」
「うん。琴美も時間になれば来るよ、きっと」
何気ない会話だったけれど、どこかで見たようなやり取りが私には新鮮で楽しい。
それから約束の時間になっても、琴美はまだやってこなかった。まぁ、愁くんも予定より遅れたぐらいだし、琴美もちょっと遅れてるのかもしれない。そう思ってもう少しこのまま待つことにした。
「そういえば、愁くんは何で遅れたの?」
別に遅れた理由を責めるつもりは全然ないけれど、単純に気になって聞いてみた。
「いや、えっと……ちょっと、服とか選ぶのに時間かかって」
恥ずかしそうに頭をかくような仕草をしながら、口をもごもごとさせて愁くんが答える。
「えっ?」
「正直に言うと、女の子と休みの日に出かけるのは初めてで……何を着ていけばいいのかわからなくて、けっこう迷った」
「……そうなの?」
意外な答えが返ってきて、私は思わず聞き返してしまった。愁くんは遊び慣れてる……ようにはとても見えないけど、そんな経験がまったくないとも、洋服にそんなに悩んだりするとも思わなかった。
「ふふっ」
私は思わず、声を出して微笑んでしまう。
「やっぱり、おかしい?」
「ううん、違うよ」
私は首を横に振って、否定する。
「私も同じ。何着ていけばいいかわからなくて、昨日けっこう悩んだんだ」
自分の格好を見せるように手を広げる。今日のコーディネートは昨日の夜、琴美がうちに来て一緒に選んでくれた。服装にまったく気を使わないわけじゃないけど、センスにはあまり自信がなかったからだ。洋服や小物だけじゃなくて、普段はやらない編み込みのヘアアレンジも、昨日がんばって習得した。
私に向ける愁くんの表情が、心なしか強張っているように見える。私もじっと愁くんを見返した。
実は、このコーディネートを手伝ってもらった代わりに、琴美から厳命を受けている。それは全身をアピールして、感想を引き出すんだよ、というもの。恥ずかしくて無理だよ、と反対したけど、結果的に押し切られた。せっかくおしゃれするのに、感想をもらわないのも言わないのもありえない、と琴美が断固として譲らなかったからだ。
さすがに直接『どうかな?』なんて聞くのは私も恥ずかしくてはばかられる。代わりにじっと見つめて、せめて気に入ってもらえるように祈った。
「……何か、制服じゃない雪穂を見るのは初めてだから新鮮だね。すごく、いいと思う。その髪型も、似合ってるし」
勉強ができたことを褒めるのは簡単そうにやるのに、こういうところを褒めるのは恥ずかしいみたい。視線を外して顔を赤らめる愁くんに、私はどきりとした。
でも何とか気に入ってもらえたみたい。褒め言葉が素直に嬉しくて、私は心の中で飛び跳ねながら、ガッツポーズまで掲げる。
「愁くんも、いいと思うよ」
お返しに、私も愁くんの格好を褒めようと思ったけど、確かに恥ずかしい。視線を外した愁くんの気持ちが理解できる。私たちはお互いに、顔を伏せながら頬を紅潮させていた。
「そういえば、琴美遅いね」
はっと気づいてスマホを確認すると、もうずいぶん待ち合わせ時間を過ぎている。何かあったのかなと心配していると、アプリから私と愁くん宛にメッセージが届いた。
「あれ、琴美からだ。やっぱり何かあったのかな」
私はすぐにアプリを開いてメッセージを確認する。そこには。
――ごめん、急用で行けなくなっちゃった。二人で楽しんできて。
と、簡素な文字が浮かぶ。それに続けて、かわいい動物のキャラクターが手を合わせて申し訳なさそうに謝っているイラストも画面に表示された。
「え、どういうこと?」
私は慌てて返信しようとした。すると――
ぶるっとスマホが震えて、また琴美からメッセージが飛んでくる。でも今度はなぜか、私だけに送られている。
不審に思いながら私はそのメッセージを確認した。
――というわけだから、がんばってね。
という文章と、最後に大きなハートマーク。
「えっ……」
思わず、絶句する。そして察した。
琴美は最初からそのつもりだったんだ。三人で行くと思わせて、直前でドタキャンして私と愁くん二人だけの場を作る。だから私と一緒に行くのも、用事があると言って断ったに違いない。
琴美がこのシチュエーションを望んでいる、いや楽しんでいるのはわかっていたけど、まさかこんな古典的な手を使うなんて。まんまと引っかかった私も私だけど。
「どうかした?」
私だけに送られた琴美の策略に、愁くんは気づいていない。頭を抱える私に、愁くんが尋ねてくる。
「いや……ううん、何でもない」
「じゃあしかたないから、行こうか」
入館口の方を指さしながら、愁くんが歩き出す。
「……うん」
想定外の状況に突然放り込まれて、平静を失いそうになる。愁くんだって初めてだって言っていたのに、どうしてそんなに落ち着いているように見えるんだろう。とはいえ、ここであたふたしたり断るのも変だ。か細い声でうなずいて、私は後を追った。
しばらくドキドキしていた私の心臓も、館内に入ってしばらくすると不思議と落ち着いた。真夏の暑さを忘れさせてくれるような、ひんやりとした空気に包まれていて、ぽーっとしていた頭がゆっくりと冷静さを取り戻す。入り口からトンネルのような薄暗い通路を抜けて、差し込む青白い光を目指すと、大きな水槽のある部屋に出た。
「わぁ……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
自分の背丈となんて比べ物にもならない、映画のスクリーンのような大きな水槽。遥か頭上から水面に向かって降り注ぐ疑似的な太陽の光が、水の色を写し取りながら薄暗い部屋を穏やかに照らしている。
分厚いガラスの向こうには、海の世界が広がっていた。岩や砂でごつごつとした地面に、ゆらりとただよう海藻。それに大きさも種類も様々な海の生き物が、自由に動き回っている。タイやヒラメの舞い踊りなんて童謡の歌詞があったけれど、悠然と泳ぐその様は、確かに私には舞っているように見えた。魚にしてみれば、私たちがただ道を歩くのと同じように泳いでいるだけなのだろうけど。
私はガラスへ近づいて、そっと手を触れる。光の錯覚のせいかよくわからないけど、このガラス一枚の向こうはどれだけ広いんだろう。ひょっとしたらこの中のどこかが本物の海と繋がっていて、実は私たちがいるこの場所よりずっと広大なのかもしれない。
「好きなの? 水族館」
隣で海の中を覗いていた愁くんが、そう尋ねてきた。
「うん」
「そっか、よかった。久しぶりに来たんでしょ?」
「そうだね。最後に行ったの、もう一年以上前だよ」
確か、高校受験から解放された時に行ったのが最後だったと思う。
「だから琴美は水族館にしようってあんなに強く言ってたんだ」
ようやく合点がいったというように、愁くんが首を縦に振る。二人で相談したのかと思いきや、やっぱり琴美の一存だった。そのやりとりが容易に想像できる。
「琴美に感謝しなきゃね」
「え?」
「雪穂がそんなに夢中になって楽しめるとは思わなかったから」
言われて、私ははっとした。二人しかいないというのに、私はあまりに心を奪われてしまって会話どころか声すらまともに発していなかった。
「あ……ごめんね、つい」
「気にしなくていいよ。むしろそんな夢中になってる雪穂を見るの初めてだったから嬉しい。だから、感謝しなきゃってね」
「ありがとう。そうだね」
「でも、まだ最初の部屋だから時間配分は考えておいてね。ここだけで閉館時間にならないように」
「だ、大丈夫だよ。まだお昼回ったばかりだよ? いくら私でもそんなに長くいないよ」
私が慌ててそう言うと、愁くんは笑いながらまた水槽に向き直った。私もまた海の世界へ浸ろうと思ったけれど、その前に少しだけじっと愁くんの横顔を見つめてしまった。
この状況も……感謝するべきなのかな。多少強引だけど、自分だけの力ではなかなか二人で遊びに行くなんて状況は作れなかったと思う。いきなり愁くんを放っておいて言うのもおかしい話だけど、正直嬉しいし、楽しい。
たぶん、今日の夜あたり「どうだった?」っていう電話がかかってくるかな。根掘り葉掘り聞かれそうだから、構えておかないと。それで、一応苦言を呈した後、お礼を言おう。
私はまたしばらく、この巨大水槽を堪能した。
ふと気がつくと、周囲がざわざわと騒がしくなっている。いつのまにか子供連れの団体客が入館してきていて、私と同じようにガラスに張りついて夢中になっていた。食い入るような目で魚を眺めている子もいれば、歓声を上げて跳ねている子もいる。
ずっとここにいたら邪魔になってしまうかなと、譲る気持ちでこの場所を離れようとした。私はもう、たぶんここにいる誰よりも長く楽しんだし。
ところが、動こうとしたら目の前を小さな子供が走り抜けて、さらにそれを追うお母さんが申し訳なさそうに頭を下げながら通り抜ける。予測不能な動きに、ぶつかりたくない私はその場所から動けなくなってしまった。
「雪穂、こっち」
戸惑っている私をその場から連れ出すように、愁くんが私の手を引く。
優しく、包み込むように私の手を握って。
ひんやりとした巨大水槽の室内で、繋がった手の一点だけが淡く灯るように温かかった。
学校を飛び出した後、公園で抱きしめられたことを思い出した。いろいろあって忘れてしまっていたけど、この手の温もりはあの時と同じだ。再び感じたその温もりが、手を通して血液を通して、私の心臓をどくりと鳴らした。
少しだけ、欲が出る。少しだけ、思い上がったことを考えてしまう。
私は――特別な存在、なのかなって。勘違いじゃなくて、そう思ってもいいのかなって。
巨大水槽の部屋を抜けた後、世界の海ごとに分けられた部屋や、深海のコーナー、イルカのショーと順番に見て回った。水族館の方もリニューアルされていたみたいで、展示内容も私の小さい頃の記憶とは違っていたし、途中ペンギンに実際に触れ合えるエリアも新設されていた。ほとんど初めて来たような気持ちで、自分でも自覚できるぐらい夢中でテンションも上がりっぱなしだったんじゃないかと思う。その間ずっと私は愁くんを振り回していたかもしれない。それはちょっと、申し訳なかった。
水族館のエリアを一通り見て回ると、併設する形で新しく建てられた美術館の方へ移動した。美術館へは館内の連絡通路で繋がっていて、日の当たる暑い屋外へ出なくてもいいのは嬉しい設計だった。
美術館には水族館で見ることのできなかった海の生き物を中心に、写真が展示されている。よくは知らないけど、何かの理由で水族館に連れて来られなかった代わりなのかもしれない。それでも初めて見る姿に、私の心は思いきりつかまれてしまう。
「へぇ、珍しい生き物だね。僕も見るの初めてかも」
感心した声で、愁くんがそう言った。
「愁くんでも?」
自分が夢中になりすぎてて聞きそびれてしまったけど、愁くんは頭がいいし、物知りだ。私にとっては初めて見るものでも、愁くんだったら知ってることなんだろうと勝手に思っていた。
「うん。相当珍しいと思うよ。実は僕も海の生き物って好きでさ、小さい頃によく図鑑とか見てたの覚えてる。でもこの写真のものは見たことないかな」
「へぇ……図鑑にも載ってないんだ」
「子供の時に見た図鑑だからね。ひょっとしたら、最近見つかった新種だったりして」
それまで私の一歩後ろで見ていた愁くんが、私のすぐ隣で覗き込むようにその写真を見つめる。愁くんの子供時代なんてもちろん知らないけれど、その頃を想像させるような、キラキラとした目がかわいくて、私は嬉しくなった。
「よかった」
「何が?」
「愁くんも、楽しそうで」
「楽しいよ、最初からずっと」
愁くんがそう言って笑みを浮かべる。
やがて、琴美と一緒にサイトで見た写真が私たちの前に姿を現した。水平線の向こうに昇る、眩いほどの朝日。その写真は、さすがにサイトでもメインで扱われていただけあって、これまで見てきた中で一番大きな写真だった。部屋の壁の一面をすべてその一枚で占めるようなサイズで、壁に沿いながら歩いていたら、とても視界に収めきれない。
私たちは部屋の中心に立って、その写真を見つめた。
まるで、本当にその写真の場所に立って朝日を眺めているみたい。放射状に伸びる光で、空が明けていく。その光が写真を突き抜けて、薄暗いこの部屋の天井まで照らし出しそうだった。
「何か……きれい」
私はたぶん、感動しているのだけど、それを言葉にできないのがもどかしい。もっと素直にこの気持ちを、自分の心を、この口から言葉にして伝えられたらいいのに。
「うん、きれいだね」
私と同じ言葉でこの景色を形容する愁くんと、思わず顔を見合わせた。愁くんが私に合わせてくれたのか、それとも愁くんでも表現できないほどこの景色が素晴らしいのかわからないけど、ただ同じように感動を共有できたのは伝わった。
「……一緒に、見に行こうか」
「えっ?」
つぶやくように愁くんが言って、私は聞き返す。
「こんなにきれいじゃないかもしれないけど、海に見に行かない? 朝日」
「それって……」
「そんな時間に出かけることになるから、ちょっとドキドキしちゃうけどさ」
恥ずかしさを隠しきれない顔で、愁くんがそう言った。声の調子がいつもと違う。さらりと言おうとしているようだけど、上ずってしまってるし、ちょっと早口。見えなくても、聞こえなくても、愁くんの鼓動が速いんだとなぜだかわかる。たぶん聞いた私も、同じことを思って、同じように鼓動が高鳴っているからだ。
「うん、行く。行こう、一緒に」
私も勇気を出して、はっきりとそう返事をした。