「それで、今日は学校どうするの?」

 気持ちが落ち着くと急に恥ずかしくなったのか、愁くんが突然素早い動作で身体を離した。人ひとり分くらいの間隔を空けるように座り直して、そう尋ねてくる。

 このまま一緒にさぼってもいいけど。言葉にはしなかったけど、そう付け加えられている気がする。

 ちょうど正面に設置されていた背の高い時計台を見上げて、私は今の時間を知る。まだ十時を回ったくらい。急げば午前中の内には学校に戻れる。

 けど、朝の光景を思い出すと足が重くなるのを感じた。
 
 あんな飛び出し方をして、あれからクラスの中がどんな空気になったのかわからない。もしみんなが阿久津さんの意見に賛同して、私を待ち構えていたらどうなるんだろう。教室に戻った瞬間、私を排除するような視線が一斉に襲いかかってきたら、私は平静でいられるのか自信がなかった。

 まるで魔女裁判みたい、と想像すると重苦しい絶望が肩にのしかかる。

 でも、いつまでも逃げるわけにはいかないと自分に言い聞かせる。今日じゃなくたって明日、明日じゃなくたって明後日には、それに立ち向かわなくちゃ、私はあの場所に戻れないんだ。

「学校、行くよ。怖いけど、もう一度ちゃんと説明してわかってもらわなきゃ」
 そうじゃないと、琴美にだってまた心配をかける。

 そこで私ははっと思い出した。

「琴美に連絡しなくちゃ。心配してるだろうし……あ、でも荷物全部学校に置いてきちゃった……」
 荷物の中には私のスマホも入っている。これじゃ琴美に連絡を取れない。

「僕のスマホ貸そうか。電話してみたら」
 私と愁くんが連絡先を交換した時、愁くんは琴美とも念のためにと交換をしていた。普段はほとんど連絡することはないみたいだけど、その念のためにがこんな形で役に立つとは。

 申し訳なく思いながら、私は愁くんのスマホを受け取った。

 電話をかけると、しばらくしてコール音が止み琴美の声が聞こえる。私じゃなくて愁くんからだと思っているせいか、最初に聞こえるもしもし、という言葉の調子が焦っているように感じた。

「琴美……ごめんね、私だよ。雪穂」
「雪穂? え、どうして? 愁と一緒なの?」
 琴美が言葉を詰まらせるほどに驚いている。声の向こうに、車の走行音のような音も聞こえた。やっぱり琴美も私のことを探し回ってくれているんだ。

「ねぇ、雪穂。大丈夫? ごめんね、あんな騒ぎになっちゃって。私も雪穂があんなこと言われてついカッとなっちゃって……そもそも、私が保健室で人工脳のことしゃべっちゃったりしたから……」
 自責の念か、琴美は涙ぐむような声になっていった。私は琴美を責める気なんて欠片も持っていない。むしろ、いつも気を使ってくれて感謝してるぐらいだ。

「琴美のせいじゃない。気にしないで。私だって……今まで誰にも言えなかったんだし」
 元はと言えば、私のせいだ。人工脳になった自覚がないとか、前と何も変わらないなんて言いながら、内心琴美以外の人に知られるのを怖いと思っていた。それは私自身、阿久津さんに言われたのと同じことを疑っていて、自信がなかったから。あの場で逃げ出したのだって、自分の弱さだ。

「雪穂、今どこにいるの?」
 急かすように、琴美が尋ねる。

「今は公園にいる。授業中だと目立つから、お昼休みぐらいに学校に戻るよ。琴美は先に戻ってて」
 私がそう答えると、琴美は一瞬口ごもったけれど、驚いている様子なのが息づかいでわかった。

「戻るって、大丈夫なの? 私もすぐ雪穂を探しに出てきちゃったから、あの後教室の中がどうなったかわからないけど……」
 今度は私の方が口ごもってしまった。大丈夫と即答できないぐらいには、怖さも不安も、当然ある。でも、決めたんだ。

「……行って、もう一度話す。わかってもらえるか、わからないけど」
「わかった。じゃあ、先に学校で待ってる。みんな阿久津さんと同じようなこと思ってるわけじゃないと思うしさ。何かあっても、私がついてるから」
 私の決意は、琴美がちゃんと受け止めてくれた。

「うん、ありがとう。琴美」
 通話を切って、愁くんにスマホを返した。

 ふぅ、と大きく息をついて空を仰ぐ。

 ああは言ったものの、どうしようかと正直悩んではいた。

 教室に戻って、私は何を言えばいい? 何を言えば、阿久津さんの、みんなの拒絶は収まるんだろう。私を、受け入れてもらえるんだろう。

 昼休みに戻ると言ったのは目立ちたくないからじゃない。その答えを用意するための時間が欲しかったからだ。

「そういえばさ」
 ふと、愁くんがつぶやく。

「さっき、私は誰なんだろう、って言ってたね。ひょっとして、ずっと悩んでた?」
 私は少し考えて、うん、とうなずいた。

「ずっと、ってわけでもないんだけど。正直に言えば、この人工脳のこと知って、自分の記憶に百パーセントの自信が持てなくて。そしたら、たまに思うの。あの事故を境に、私は『私』じゃなくなっちゃったんじゃないかって」
 すると愁くんは、気づいてあげられなくてごめん、と頭を下げる。

「もう一度言うけど、雪穂は雪穂だよ。僕はそう思う」
 当人の私より、それを信じ切ったような目で、愁くんが断定した。その迷いのない言葉に今は本当に救われる。

「雪穂のことを偽物だって思う人はさ、きっと脳がその人そのものだって思うんだね」
 愁くんの言葉に、私は首を傾げる。

「脳って、確かに人の記憶が保存されてる。感情とかだって、脳の機能の一部だってわかってる。でも、だからといって脳がその人だってこととは限らないと思うんだよね」
「どういうこと?」
「例えばさ、何の問題もない僕の脳を誰か別の―まぁちょっと嫌かもしれないけど、雪穂の頭の中に移したとするでしょ。そしたら、雪穂は僕になるのかな。僕と同じように考えて、しゃべって、行動するのかな。どう思う?」
 その問いに、私は戸惑った。

「どう、って……どうなんだろう。そこまで考えたことなかった」
「……きっとそうはならないよ。誰の脳だろうと、機械だろうと、脳なんてただの臓器のひとつにすぎない。その臓器ひとつがその人そのものなんて、僕たちはそれだけで人を区別しているわけじゃない。僕はそう思う」
 脳が別のものになったからと言って、私が偽物だということにはならないと、そう言ってくれていることはわかった。

「じゃあ、『私』は……どこにいるの?」
「どこに、じゃない。ここだよ。雪穂の頭の先から足の先まで、身体全部と、目に見えない心全部。それから、雪穂が生まれてきてから今までの全部の時間。そういうひとつひとつが雪穂を作って、それが『雪穂』なんだよ。頭の中身ひとつ変わったからって、雪穂を構成してる他の全部が変わってるわけじゃない。雪穂じゃなくなったなんて、思わない」
 愁くんが手のひらを私に向ける。向けた手のひらで円を描くように、私の身体をなぞるように動かしながらそう言った。

 愁くんはきっと難しいことを教えてくれたんだと思う。私が全部理解できたかどうかはわからない。でも、私の心の中に落ちてきたものがある。目には見えないけれど、そこに存在する、確かなもの。

 私はどうやら、もうひとつ愁くんに与えられたみたいだ。


 昼休みの時間を見計らって学校へ戻ってくると、校舎の入口のところで琴美が待っていた。心配そうに落ち着きなく辺りを見回す琴美を遠目に見ていたけれど、私の姿を見つけると、琴美は大きく手を振った。

「雪穂! あぁ、よかった。本当に心配したんだよ」
 飛びつくような勢いで、琴美が私の身体に抱きつく。危うく私の身体ごと後ろに倒れ込むところだった。

「もう、大丈夫だよ。教室行こう」
 電話越しに感じた泣きそうな顔そのままの琴美に、私は笑顔を作ってみせる。

「愁も、ありがとう。雪穂を見つけてくれて」
 私に抱きついたまま、琴美が愁くんにお礼を言う。どういたしまして、と手を振ってみせる愁くんとは昇降口のところで別れた。

「本当に大丈夫?」
 意を決し、階段を上る私に心配そうに琴美が聞いてくる。

「大丈夫だよ。正解かわからないけど、ちゃんと私なりの気持ちは見つけてきた」
「気持ちって?」
「私は……偽物なんかじゃない」
 今ならはっきりとそう言える。琴美は驚いたように目を丸くしたけれど、すぐににこりと笑みを浮かべて、私の髪をくしゃくしゃになるほど強く撫でた。

「何か、表情変わったね、雪穂」
「え?」
「自信持ってるって、顔してる」
「そうかな」
 自覚はないけど、いつも私を見ている琴美が言うのだからそうなのかもしれない。

「愁のおかげかな」
 ほんの少しだけ悔しそうな声で琴美がつぶやく。

 うん、そうだね。それは間違いなくそうだと思う。

 自信かどうかはわからないけど、愁くんにもらったものがあるんだ。

 私は琴美の方を振り向き、答える。

「勇気をもらったの、愁くんに」
 琴美は一瞬意外そうな顔をしたけど、そっか、と言ってうなずいた。

 教室の扉を開けると、入口近くにいたクラスメイトが驚いた声を上げる。ぴんと糸が張るような空気が波及して、一気に教室全体に広がる。ぽつり、ぽつりとみんなの視線が私に集まってきて、私の心臓も鼓動が速くなるのがわかった。そうなると思ってはいたけど、やっぱり緊張する。

 みんなの視線は向けられているけれど、私に近寄ってこようとする人はいなかった。私がまっすぐに、教室のある一点を目指して進んでいるからだ。

 阿久津さんは教室の中央辺りの席で、いつも一緒のクラスメイトとひとつの机を囲んでいる。

 彼女の目の前まで進んで見下ろす形になると、阿久津さんはつまらなそうな目で私を見据えてきた。

「おかえり。今日はもう来ないかと思った」
 さして興味もなさそうに、阿久津さんが言う。

「阿久津さん、話があるの」
「いいよ。どっか行く?」
「……ううん、このままでいい」
 彼女にだけ言ってもしかたない。これはみんなにも聞いてもらわなきゃいけないことだ。

 すると阿久津さんは私と同じように立ち上がって、今度は私が見下ろされる格好になった。阿久津さんの背は高く、まっすぐ見下ろされると圧を感じる。

「で、何だっけ」
「朝、私が偽物じゃないかって言ったでしょう?」
「うん、言った」
 悪びれることもなく、当然というような調子で阿久津さんがうなずく。

「どうしてそう思うの?」
「だって、雪穂の頭の中、機械なんでしょう? 元々の脳をうまくコピーしてるのかもしれないけど、それ自体は全部人工的に作ったものなんだよね? そんなものに動かされてるなんて、本物の雪穂だって思えなくても無理なくない?」
「確かに私の頭の中は今機械で、人工的に作ったものが入ってる。でも、私はそれだけで動かされてるわけじゃないし、それだけが私っていうわけじゃないよ」
「ふうん」
 阿久津さんは鼻を鳴らすようにそう言って、私の言葉はちっとも届いていないようだった。

 思わず唇をぎゅっと噛み締めてしまう。彼女と対峙していることもそうだけど、周囲全方向から感じる視線もプレッシャーとなって私に襲いかかってくる。まるで心臓を強く握りつぶされているように息苦しい。

「じゃあさ、雪穂って何? 何が雪穂なの?」
「私は……」
 阿久津さんの問い。それは私もきっとずっと持っていた疑問。事故に遭って、大切な身体の一部がなくなって、自分が自分じゃなくなった気がした。ずっと探しつづけて、見つからなくて、実は私自身が一番疑っていたのかもしれない。

 でも、今は少しだけ見つけた気がしてるんだ。

 暗闇のような世界の中から、差し込んできた光。私はその光に向かって、やっと顔を上げて、手を伸ばした。

 だから、ちゃんと言える。私は私だと、胸を張って。

「私は、ここにいる全部だよ」
「は?」
「私の身体は、生まれてからずっと成長してここにある。私の記憶も感情も考えも、これまで過ごしてきた時間が積み重ねてきたんだよ。私の頭の中にあるこれは、ただそれを持ってくれているだけだから、機械になったってそれが全部なくなっちゃうわけじゃない。それに、みんなが見てくれている私がいる。家族とか、友達とか、私のことをずっと見てくれていた人が、私のことを雪穂だって言ってくれるの。だから、ここにいる私は偽物なんかじゃなくて、私なの」
 私はまくしたてるように言った。言葉が、想いが止まらなかった。ちゃんと全部言わなきゃ伝わらない。伝わるまで、全部言わなきゃいけない。何度でも、何度でも。

「私は偽物なんかじゃない……私が、ちゃんと積み重ねてきた……私なんだよ……!」

 いつのまにか、涙が溢れていた。でも目をそらしたらもう顔を上げられない気がして、必死に彼女の目を見返した。顔も喉も熱くなって、言葉が詰まってうまく出てこない。でもそれでも、言葉を紡げなくなったら私は負けだ。

 教室内がしんと静まり返っていて、私の言葉だけが響いている。そこに小さく、阿久津さんのうんざりしたようなため息が聞こえた。

「あぁ、そう」

 短く、呆れたような声。私は絶望して心が折れそうになる。こんなに必死に伝えようとしているのに、何で伝わらないんだろう。

 怒りで手が震えそうになった。手を伸ばして突き飛ばして、喚き散らしてやりたかった。でもそんなんじゃ、違う。私がもらった勇気の形じゃない。

「あの、私は……!」
 何とか声を絞り出そうとするけど、しゃくりあげる身体の動きが邪魔をする。それでも見苦しく声を上げようとする私を、阿久津さんの手が制した。

 目の前に突き出された阿久津さんの大きな手のひら。私は思わずごくりと唾を飲みこんだ。

「わかったから、そんな熱くならないでよ」
「えっ……?」
 面倒そうに髪の毛をかき上げる彼女に、私は言葉を失った。

「だったら、それでいいよ。雪穂の言ってること難しくてわかんないけどさ、別にそんな熱く議論したいわけでも、白黒はっきりさせたいわけでもないし」
 阿久津さんが手を振って、話を終わらせようとしている。何だか肩透かしをくらった気分で、心の中がもやもやとする。

「ちょっと待ってよ。朝はあんな風に突っかかってきておいて、そんな言い方ないんじゃない?」
 阿久津さんの態度に我慢できなくなったのか、ずっと距離を取って見守っていた琴美が近寄ってきて彼女へ詰め寄った。

「突っかかってなんかいないよ。私は思ったことを言っただけ」
 あくまであしらうような態度で、阿久津さんが答える。

「それで雪穂は現に傷ついたんだから、ごめんの一言ぐらいあってもいいでしょ」
「何で謝るの? 私が間違ったこと言った?」
「そういうことを言ってるんじゃなくて!」
「もういいよ、琴美」
 私は琴美を制して、阿久津さんに向き直る。

「私は……偽物なんかじゃないって、わかってほしかっただけ」
 もう一度、しっかりと阿久津さんの目を見返してそう言うと、彼女は苛立ったように肩をすくめた。

「だから、それはわかったってば。これからは偽物なんて言わないから、それでいいでしょ」
「……うん。それで、いいよ」
 私は半ば諦めたように、うなずく。

「そんなに熱くなることでもないじゃない。必死で生きてるみたいで、暑苦しいしさ」
 そう言って、阿久津さんは足早に教室を出て行った。その背中を空虚な気持ちで見つめながら、しかたない、と私は心の中でつぶやく。人の考えは簡単には変えられないのかもしれない。できればわかってほしかったけど、たぶん私の考えも、阿久津さんの考えも、どっちが正解だなんて言えない。たぶん、この件はここが限界なんだろう。

 今の私にできることは、ちゃんと自分の線を目に見えるように主張して、その線を消さないようにお願いするぐらいかもしれない。

 ぽん、と琴美が私の頭に手を乗せて、髪をくしゃくしゃにかき乱す。

「すごかったよ、雪穂」
 私はその言葉にはっと我に返った。周囲からの視線が集まっているのを自覚して、ようやく恥ずかしさがこみ上げてくる。そういえば私、泣いてたし。

「ごめん、私……」
 両手で顔を覆って、みんなの視線から逃れようとした。そうしたら、琴美が私の頭ごと包み込むように、抱きしめながら今度は優しく頭を撫でてくれた。ひょっとしたら、また泣いていると思われたのかもしれない。

「ちょっと不完全燃焼な感じだけど、雪穂の言いたいことは伝わったと思うよ。だから、言い返してこなかったんだよ、きっと」
 諭すように、琴美が私の耳元で言った。

 その時、私を包む琴美以外の手が何本か、私の背中や肩を優しく叩く。私を囲むように集まる人の気配。そして口々に、私を称賛するような声が聞こえた。

 私はようやく、ほっとした。全部がうまくいったわけでも、受け入れられたわけでもないかもしれない。けれど全身で感じる温かなこの空気が、私はここにいても大丈夫なんだと教えてくれる。

 少なくとも私は、ここから排除される存在ではなくなったらしい。

 けれど、私の心の中に阿久津さんの去り際の一言が引っかかっていた。

――必死で生きてるみたいで、暑苦しい。

 そうなのかな。さっきみたいに主張するのは、暑苦しくて引かれちゃうのかな。

 でも、私は必死に生きていたいよ。

 せっかく、せっかくこの世界に戻ってこられたんだから。