中間テストからしばらくたち、一学期の期末テストも何とか無事に終了した。琴美や愁くんの力は引き続き借りてしまったけど、だいぶ授業にも追いついてきた実感はあったし、実際点数も中間テストよりよくなってた。教科によっては琴美よりもいい点が取れて、悔しがらせたぐらいだ。
「雪穂は元々私より点数よかった方だしね」
中学の頃の話を引き合いに出して、琴美がそう言っていた。そうだったっけ、と中学時代が何だか遠い昔のように思えてしまう。
「まぁ、今日は楽しもうよ。ようやく勉強から解放されたしさ」
期末テストの後は、授業なしでご褒美とばかりに全学年での球技大会が開催される。私は運動はあまり得意じゃないけれど、みんなが楽しそうに盛り上がるこの雰囲気は好きだ。
私と琴美は一緒にソフトボールのグループに入った。ほとんどみんな初心者だと聞いて安心したのと、あまりルールに詳しくはないけど、ボールが飛んでこなければ基本的に何もしなくていいと言われたからだ。バレーボールやバスケットボールだと経験者に混じってやらなきゃいけないし、ボールが回ってくる確率が比べ物にならないほど多そうだったし。
その中でも外野っていうポジションは特に出番が少ないらしい。初心者の女子だとそこまでボールを飛ばせないからだとか。せいぜい転がってくるボールを拾えばいいと琴美に教えてもらった。
初夏を迎えた外気温は日を追うごとにぐんぐんと増していって、今日は晴天の影響もあってか、午後を迎えるころには夏日に届く勢いだった。まだ熱さに身体が慣れていないのか、太陽の下に立っているだけでじんわりと汗が滲んでくる。
暑いのも嫌だなぁ。晴れたのはよかったけど、ずっと立ってなきゃいけないのも辛い。こんなことなら、屋内競技の方がよかったかも。
グラウンドの砂が焼けるような匂いを感じながら、私は少し後悔した。左手にはめたグローブの古い皮の匂いも混じって、何だか頭がくらくらする。ちゃんと落ちるかな、この匂い。具合悪そうにしている人もちらほら見かけるし、気をつけよう。
攻守交代になったらどこか日陰で休もうと、どこかよさそうな場所を探して視線を左右に動かす。
その時、カキン、という金属が弾かれるような音がグラウンドに響く。そしてすぐに、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「雪穂、そっち行ったよー!」
琴美の声だ。はっとして向き直ると、砂浜に転がる真珠のような、純白のボールが私の方向に勢いよく向かってきていた。
よそ見をしていたせいで、私の対処は遅れた。いや、集中していても大差はないかもしれないけれど。とにかく、突然やってきた出番に慌ててしまった私は、不安的中というか、案の定ボールをうまくグローブに収めることができずにボールの突破を許してしまった。コロコロと、勢いそのままにボールは私から遠ざかっていく。
やばい、と焦った。あのボールを追わないと打った人は止まらずに走り続ける。一周してしまうと相手に点数が入る。それって、絶対私のせいだ。私がよそ見してたせいだって思われてしまう。
絶対勝ちたいって思ってたわけじゃないけど、せめて自分のせいで負けるのは避けたい。私は急いでボールの後を追った。
しだいに速度を緩めていったボールにようやく追いつく。もう間に合わないかもしれないけど、せっかく追いついたのだからボールを返さなければ。急に全力で走ったせいで、肩で息をしなきゃいけないぐらい、呼吸が荒くなる。炎天下の影響もあって、何だか少しぼーっとしてる気がする。
足元で止まっているボールを拾うため、私は立ったままの前屈の格好で地面に手を伸ばす。その時、また声が聞こえた。
「雪穂、危ない!」
「えっ?」
私が声のした方に振り返った直後――
後頭部に鈍い音と衝撃を受けて、視界がぐるりと転がる。私の平衡感覚がおかしくなったのか、さっきまで水平に見えていた地面が目の前にやってきて、九十度ひっくり返って縦に見えた。揺れる視界の中に、白いボールが二個、少し離れて並んでいる。
砂の匂いがさっきよりずっと近くなった。細かい小石のちくちくと刺さるような感触が頬に当たる。
いったい何が起こったんだろう――その疑問の答えを探す間もなく。
テレビのスイッチを切ったような、ぷつん、という音が聞こえた気がして、私の意識はそこで途切れた。
目が覚めると、見覚えのある天井だった。一瞬、病院のベッドの上を思い起こしたけど、きれいに消毒されきったような独特の匂いはしない。でも、私を隠すように囲ったクリーム色のカーテンがあって、病院ほどじゃないけどどこか空気の流れが遮断されたような感覚があって。そこで私はようやく保健室のベッドの上だと気づいた。
ゆっくり上半身を起こす。何があったんだっけ、と記憶をたどった。何だか、嫌なイメージが脳裏をよぎる。デジャビュなのかもしれない。あの時、事故から病院のベッドの上で目を覚ました時と同じようなシーン。目を覚ます前と後で、私という存在が変わってしまったことを知った、実感のない漠然とした不安。
私が起きた音を察知したのか、カーテンが揺れて、つなぎ目から琴美が顔を覗かせる。
「雪穂! よかった……起きた……」
琴美が涙目になって、私に飛びつくような勢いで、起こした上半身に抱きついてくる。お腹を締め付ける強い力に、琴美の不安や狼狽がどれほど大きかったか伝わってくる。そうか、また心配かけちゃったな。
「ねぇ、大丈夫? 頭、痛くない? 記憶、なくなったりしてない?」
目を覚ましただけでは琴美の不安はぬぐえていないようで、小さな視線移動を繰り返しながら私の全身をくまなくチェックする。
「頭?」
「男子が打ったボールが頭に当たったの。そしたら雪穂、倒れてそのまま気を失ったんだよ」
「そうだったんだ」
グラウンドでは、背中合わせのような格好で男子と女子が同時に試合を進めていた。私がボールを追って追いついた先はすでに男子のグラウンドの範囲だったようで、運悪くそこに男子の打球が飛んできたらしい。そんなピンポイントで当たってしまうなんて、なんて不運なアクシデントなんだろう。
私はそっと後頭部に触れてみた。でも、どこに当たったかわからないぐらい、不思議と腫れてもいないし痛みも感じない。
「大丈夫みたい。ごめんね、心配かけて」
私がそう言うと、琴美はほっと胸をなでおろしたように大きく息を吐いた。けど、すぐにまた不安そうに顔をうつむかせる。
「本当はすぐに救急車を呼んで病院に連れていってもらおうと思ったんだけど、みんな柔らかいボールだから大したことない、目が覚めてから様子を見ようって言って……まさか、雪穂の脳が人工脳になってるなんて言えなくて……」
「仕方ないよ。気にしないで」
私の脳のことは琴美しか知らない。私自身ですらたまに忘れてしまいそうになるくらい、普段の生活に支障はなかった。
「でも、もしかしたら人工脳が衝撃で壊れちゃったんじゃないかって、このまま雪穂がまた目を覚まさないんじゃないかって、想像したら……怖くて」
琴美の声が震えている。この間、公園で話した時も琴美は思い出しただけで泣きそうになっていた。それほど心配してもらえたことが嬉しくもあり、申し訳なくもある。複雑な気持ちが入り混じって、何だか軽はずみに大丈夫、なんて言えない気がした。
私が言葉を飲み込んで黙っていると、琴美は続けた。
「……どうしても心配で、さっき雪穂のお母さんに電話したの。そしたらすぐ迎えに行くって。たぶん、もうすぐ来てくれると思う。病院にも連絡してくれたみたいで、すぐ診てくれるって言ってた」
「ごめんね、ありがとう」
琴美への気持ちでいっぱいになっていたけど、私も次第に不安になってきた。この人工脳になって以来、頭に衝撃や負担がかからないようには注意してきたつもりだ。でも今日みたいな不意の事故にはなすすべもない。自分では特に何も変化ないように感じるけど、もし何か不具合が起こっていたら――また目が覚めなくなるのは、嫌だな。
「ねぇ、雪穂。私もついていっていい?」
琴美が私の手を握りながら、懇願するように言う。
「そういえば、球技大会どうなったの?」
ふと気になって私は聞き返す。突然の話の切り替わりに琴美が一瞬戸惑ったような顔をした。
「雪穂が倒れてからずっとここにいるからわかんないけど、たぶん負けたと思う。みんなざわついてたし、さすがに集中できないっていうか」
「そっか」
間接的に私のせいで負けたみたいだなと、残念に思う。そうならないように、必死でボールを追いかけたんだけどな。
「ねぇ、それより」
琴美がさっきの答えを促した。私は少しでも琴美の不安を取り除きたくて、意識的に笑顔を向ける。
「ありがと。でも、お母さんも一緒だし、琴美もいなくなっちゃうと大騒ぎになっちゃうかもしれないし。琴美はクラスの方に戻ってあげて。まだ試合やってるチームいたら、応援してあげてよ」
琴美は他のみんなとも仲がいいし、クラスでも目立つ方だから、いなくなるとみんなも心配する。それに、琴美の応援はきっと力になる。せっかく琴美もみんなも楽しみにしてた球技大会だ。私のことは心配しないで、楽しんでほしい。
「でも……」
「検査終わったら、すぐ連絡する」
食い下がる琴美を納得させようと、私は大きくうなずいて見せた。琴美の表情はまだ晴れなかったけど、そっと私から身体を離す。
「雪穂は元々私より点数よかった方だしね」
中学の頃の話を引き合いに出して、琴美がそう言っていた。そうだったっけ、と中学時代が何だか遠い昔のように思えてしまう。
「まぁ、今日は楽しもうよ。ようやく勉強から解放されたしさ」
期末テストの後は、授業なしでご褒美とばかりに全学年での球技大会が開催される。私は運動はあまり得意じゃないけれど、みんなが楽しそうに盛り上がるこの雰囲気は好きだ。
私と琴美は一緒にソフトボールのグループに入った。ほとんどみんな初心者だと聞いて安心したのと、あまりルールに詳しくはないけど、ボールが飛んでこなければ基本的に何もしなくていいと言われたからだ。バレーボールやバスケットボールだと経験者に混じってやらなきゃいけないし、ボールが回ってくる確率が比べ物にならないほど多そうだったし。
その中でも外野っていうポジションは特に出番が少ないらしい。初心者の女子だとそこまでボールを飛ばせないからだとか。せいぜい転がってくるボールを拾えばいいと琴美に教えてもらった。
初夏を迎えた外気温は日を追うごとにぐんぐんと増していって、今日は晴天の影響もあってか、午後を迎えるころには夏日に届く勢いだった。まだ熱さに身体が慣れていないのか、太陽の下に立っているだけでじんわりと汗が滲んでくる。
暑いのも嫌だなぁ。晴れたのはよかったけど、ずっと立ってなきゃいけないのも辛い。こんなことなら、屋内競技の方がよかったかも。
グラウンドの砂が焼けるような匂いを感じながら、私は少し後悔した。左手にはめたグローブの古い皮の匂いも混じって、何だか頭がくらくらする。ちゃんと落ちるかな、この匂い。具合悪そうにしている人もちらほら見かけるし、気をつけよう。
攻守交代になったらどこか日陰で休もうと、どこかよさそうな場所を探して視線を左右に動かす。
その時、カキン、という金属が弾かれるような音がグラウンドに響く。そしてすぐに、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「雪穂、そっち行ったよー!」
琴美の声だ。はっとして向き直ると、砂浜に転がる真珠のような、純白のボールが私の方向に勢いよく向かってきていた。
よそ見をしていたせいで、私の対処は遅れた。いや、集中していても大差はないかもしれないけれど。とにかく、突然やってきた出番に慌ててしまった私は、不安的中というか、案の定ボールをうまくグローブに収めることができずにボールの突破を許してしまった。コロコロと、勢いそのままにボールは私から遠ざかっていく。
やばい、と焦った。あのボールを追わないと打った人は止まらずに走り続ける。一周してしまうと相手に点数が入る。それって、絶対私のせいだ。私がよそ見してたせいだって思われてしまう。
絶対勝ちたいって思ってたわけじゃないけど、せめて自分のせいで負けるのは避けたい。私は急いでボールの後を追った。
しだいに速度を緩めていったボールにようやく追いつく。もう間に合わないかもしれないけど、せっかく追いついたのだからボールを返さなければ。急に全力で走ったせいで、肩で息をしなきゃいけないぐらい、呼吸が荒くなる。炎天下の影響もあって、何だか少しぼーっとしてる気がする。
足元で止まっているボールを拾うため、私は立ったままの前屈の格好で地面に手を伸ばす。その時、また声が聞こえた。
「雪穂、危ない!」
「えっ?」
私が声のした方に振り返った直後――
後頭部に鈍い音と衝撃を受けて、視界がぐるりと転がる。私の平衡感覚がおかしくなったのか、さっきまで水平に見えていた地面が目の前にやってきて、九十度ひっくり返って縦に見えた。揺れる視界の中に、白いボールが二個、少し離れて並んでいる。
砂の匂いがさっきよりずっと近くなった。細かい小石のちくちくと刺さるような感触が頬に当たる。
いったい何が起こったんだろう――その疑問の答えを探す間もなく。
テレビのスイッチを切ったような、ぷつん、という音が聞こえた気がして、私の意識はそこで途切れた。
目が覚めると、見覚えのある天井だった。一瞬、病院のベッドの上を思い起こしたけど、きれいに消毒されきったような独特の匂いはしない。でも、私を隠すように囲ったクリーム色のカーテンがあって、病院ほどじゃないけどどこか空気の流れが遮断されたような感覚があって。そこで私はようやく保健室のベッドの上だと気づいた。
ゆっくり上半身を起こす。何があったんだっけ、と記憶をたどった。何だか、嫌なイメージが脳裏をよぎる。デジャビュなのかもしれない。あの時、事故から病院のベッドの上で目を覚ました時と同じようなシーン。目を覚ます前と後で、私という存在が変わってしまったことを知った、実感のない漠然とした不安。
私が起きた音を察知したのか、カーテンが揺れて、つなぎ目から琴美が顔を覗かせる。
「雪穂! よかった……起きた……」
琴美が涙目になって、私に飛びつくような勢いで、起こした上半身に抱きついてくる。お腹を締め付ける強い力に、琴美の不安や狼狽がどれほど大きかったか伝わってくる。そうか、また心配かけちゃったな。
「ねぇ、大丈夫? 頭、痛くない? 記憶、なくなったりしてない?」
目を覚ましただけでは琴美の不安はぬぐえていないようで、小さな視線移動を繰り返しながら私の全身をくまなくチェックする。
「頭?」
「男子が打ったボールが頭に当たったの。そしたら雪穂、倒れてそのまま気を失ったんだよ」
「そうだったんだ」
グラウンドでは、背中合わせのような格好で男子と女子が同時に試合を進めていた。私がボールを追って追いついた先はすでに男子のグラウンドの範囲だったようで、運悪くそこに男子の打球が飛んできたらしい。そんなピンポイントで当たってしまうなんて、なんて不運なアクシデントなんだろう。
私はそっと後頭部に触れてみた。でも、どこに当たったかわからないぐらい、不思議と腫れてもいないし痛みも感じない。
「大丈夫みたい。ごめんね、心配かけて」
私がそう言うと、琴美はほっと胸をなでおろしたように大きく息を吐いた。けど、すぐにまた不安そうに顔をうつむかせる。
「本当はすぐに救急車を呼んで病院に連れていってもらおうと思ったんだけど、みんな柔らかいボールだから大したことない、目が覚めてから様子を見ようって言って……まさか、雪穂の脳が人工脳になってるなんて言えなくて……」
「仕方ないよ。気にしないで」
私の脳のことは琴美しか知らない。私自身ですらたまに忘れてしまいそうになるくらい、普段の生活に支障はなかった。
「でも、もしかしたら人工脳が衝撃で壊れちゃったんじゃないかって、このまま雪穂がまた目を覚まさないんじゃないかって、想像したら……怖くて」
琴美の声が震えている。この間、公園で話した時も琴美は思い出しただけで泣きそうになっていた。それほど心配してもらえたことが嬉しくもあり、申し訳なくもある。複雑な気持ちが入り混じって、何だか軽はずみに大丈夫、なんて言えない気がした。
私が言葉を飲み込んで黙っていると、琴美は続けた。
「……どうしても心配で、さっき雪穂のお母さんに電話したの。そしたらすぐ迎えに行くって。たぶん、もうすぐ来てくれると思う。病院にも連絡してくれたみたいで、すぐ診てくれるって言ってた」
「ごめんね、ありがとう」
琴美への気持ちでいっぱいになっていたけど、私も次第に不安になってきた。この人工脳になって以来、頭に衝撃や負担がかからないようには注意してきたつもりだ。でも今日みたいな不意の事故にはなすすべもない。自分では特に何も変化ないように感じるけど、もし何か不具合が起こっていたら――また目が覚めなくなるのは、嫌だな。
「ねぇ、雪穂。私もついていっていい?」
琴美が私の手を握りながら、懇願するように言う。
「そういえば、球技大会どうなったの?」
ふと気になって私は聞き返す。突然の話の切り替わりに琴美が一瞬戸惑ったような顔をした。
「雪穂が倒れてからずっとここにいるからわかんないけど、たぶん負けたと思う。みんなざわついてたし、さすがに集中できないっていうか」
「そっか」
間接的に私のせいで負けたみたいだなと、残念に思う。そうならないように、必死でボールを追いかけたんだけどな。
「ねぇ、それより」
琴美がさっきの答えを促した。私は少しでも琴美の不安を取り除きたくて、意識的に笑顔を向ける。
「ありがと。でも、お母さんも一緒だし、琴美もいなくなっちゃうと大騒ぎになっちゃうかもしれないし。琴美はクラスの方に戻ってあげて。まだ試合やってるチームいたら、応援してあげてよ」
琴美は他のみんなとも仲がいいし、クラスでも目立つ方だから、いなくなるとみんなも心配する。それに、琴美の応援はきっと力になる。せっかく琴美もみんなも楽しみにしてた球技大会だ。私のことは心配しないで、楽しんでほしい。
「でも……」
「検査終わったら、すぐ連絡する」
食い下がる琴美を納得させようと、私は大きくうなずいて見せた。琴美の表情はまだ晴れなかったけど、そっと私から身体を離す。