あたしたちが『乱反射』に戻り、そのドアを押し開くと突然、ピアノの音が聞こえてきた。
 思わず顔を見合わせたあたしたちは、誰が弾いているのかと薄暗い店の奥をそっと覗き込む。
 あのグランドピアノの前に誰かが座っているシルエットが見えた。
「珠城さん?」
 店の奥へとそろそろと進みながらそう呼びかけると、はたとピアノの音が止んだ。そしてピアノの前に座っていた人物が立ち上がる。
 店内のぼんやりした照明に浮かびあがった姿は、珠城さんではなかった。
 それは……あたし、だった。いや、正確に言うと幼い頃のあたしだ。小学校の高学年くらいのあたしは、驚いている現在のあたしをただ無表情にみつめている。
 これは、何?
 あたしは助けを求めて英里を振り返る。しかし、すぐ後ろにいたはずの彼女の姿は消えていた。
 どうして? どういうこと?
 混乱するあたしを置き去りにして、少女のあたしは何事もなかったようにまたピアノに向き直った。そこでようやく気が付く。きっと、少女のあたしには今のあたしの姿は見えないのだ。
 不意に少女は後ろを振り返った。それは誰かに呼ばれたような、自然な動きだった。やがて向こうの闇からもう一人の少女が現れた。それが誰かはすぐに判った。あたしの姉だ。姉は少女のあたしを責めるような目で見ると言った。
「どうしてちゃんと弾かないのよ」
 姉の尖った言葉に少女のあたしはぷいとそっぽを向く。話を聞く気のないその態度に姉の口調はますますきつくなる。
「あんたが『別れの曲』を上手に弾けること、あたしは知っているのよ。なのにお母さんの前ではわざと下手に弾いて」
「だって、お母さん、言ったんだもの」
「何を?」
「あたしかお姉ちゃんのどちらかをピアニストにしたいって」
「それはお母さんの夢だから。知っているでしょ。昔、お母さんはピアニストを目指していたけど、家の都合で音楽の勉強が続けられなくて諦めたんだって。あたしかあんたか、ピアノが上手な方がお母さんの夢を叶えてあげればいいのよ。今のところあんたの方が才能あるみたいだけど」
「あたし、嫌だ」
 突然、少女のあたしは大声で言った。
「どうしてあたしがお母さんの夢を叶えなくてはいけないの? あたしはあたしの夢を見たらだめなの?」
「ゆりこ、そんなこと言っちゃだめ。お母さんが悲しむでしょ。それとも、あんた、ピアノ嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。でも、もっと他にやりたいことあるし、友達とも遊びたい。お母さんはいつも言うじゃない。遊んでいる暇があるならピアノの練習しなさいって。あたし、そんなの嫌だ。ピアノばっかりなんて嫌だ」
「……ゆりこ、それ、わがままよ」
 姉は怖い顔で少女のあたしの腕を掴んだ。
「確かにあんたの言うことも判るよ。でもね、あんたの方があたしよりピアノ上手いんだから……」
「嫌だ!」
 少女のあたしは姉の手を振り払った。
 小学生の時には気付かなかったけれど、今のあたしには判ってしまった。姉はその時、とても辛そうな目をしていたのだ。悲しみと怒り、悔しさと嫉妬。それらがごちゃ混ぜになった暗い光がそこにはあった。
 姉はあたしと違ってピアニストになることを切望していた。しかし、自分より妹に才能があることを認めざるを得なかったその辛い気持ちが今、胸に沁みる。
 あたしの知っている姉は心からピアノを愛していた。
 片時もピアノのことを忘れなかっただろうし、生あるものに対するようにピアノのことを思っていた。だけど、あたしはそれほどじゃなかった。ピアノは好きだった。でもその気持ちを上回るほどの母の期待が重くて苦痛だった。こんな思いをしてまでピアノを弾きたくない、ピアニストになんかなりたくない。ずっとそう思っていた。そしてあたしは姉に、母の期待という重圧を押し付けた。残酷な言葉と共に。
「だったらお姉ちゃんがお母さんの夢を叶えてあげたらいいじゃない! ピアニストになれば? あたしの半分も才能があればだけどね!」
 姉は黙ってあたしを見ていたが、やがてゆっくりとあたしから離れた。そしてそれ以来、二度と姉はあたしの元に戻ってきてはくれなかった。

 姉は翌日もいつもの姉だった。
 家族の一員として、姉妹として、一つ屋根の下で普通に過ごした。けれど、あれから姉は必要以上にあたしと話さなくなった。優しいけれど、よそよそしい姉の態度に、子供だったあたしにも姉の心が離れていくのが判った。
 姉はギャラリーのいるところでだけ『仲の良い姉妹』を演じ、『しっかり者の姉とだめな妹』というキャスティングを見事に作り上げた。そして、それと同時にピアニストへの道も着実に進んでいった。
 彼女は驚くほどのスピードで上達していったのだ。それはすべてを犠牲にした練習量の賜物だったということをあたし以外、誰も知らない。両親ですら『才能が開花した、やはりこの子は天才』と能天気に喜んでいたくらいだ。
 あたしはただ、姉を傍観していた。そして、確実にあたしの『才能』を過去の遺物にしていく姉の冷淡さを恨み、姉の文字通り、血を吐くような努力で築き上げた『才能』に嫉妬した。
 姉のピアノが上達するに比例して、あたしはピアノから離れた。あたしの『才能』なんかとうの昔に錆びついて終わってしまっているのだ。ピアノなんかもう二度と弾かない。あたしはそう心に誓った。
 深い溜息をついてから、あたしが顔を上げるとそこは一変していた。
 さっきまで薄暗いバーの店内だったここが、いつの間にかあたしの家……あたしの部屋に変わっていたのだ。
 ……何故?
 呆然としていたあたしは気配を感じて慌てて振り返る。
 そこにはクローゼットがあった。
 あたしがぎょっとしたのはその扉だ。それはゆっくりと少しづつ少しづつ開いていく。
 あたしは声も出ない。ただその扉を見ていることしかできなかった。
 やがて扉の隙間から姉の指が現れた。ピアノを弾きこんだ、しっかりとしたあの指だ。指はゆっくりと動き、あたしを指差した。
『何をやっているの。早く出て行きなさい』
 暗闇から浮かび上がったのは水に長く浸かっていたせいで、醜く膨れ上がった無残な水死体の姿。黒ずんだ紫に変色した唇から紡ぎだされるその声は奇妙に優しくて、その分、悲劇的だった。
 姉の自慢だったサラサラのストレートヘアーはぐっしょりと濡れてひどく絡み合っている。そこからぽたぽた落ちるしずくは不規則に床を打つ。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……
 水滴をぼんやり数えながら、あたしはいつも思うことをここでも思った。姉はやはり死んでしまったのだ、と。
「どこへ?」
 あたしは顔を上げ、初めて姉の幽霊に話しかけた。
「出て行けって、あたしはここを出てどこに行けばいいのよ」
 あたしの問いに、微かに姉は笑ったようだった。そして優しく言う。
『……どこにも行かなくていいわ』
「だって今、出て行けって」
『あんたはあたしの部屋にいる必要はないということよ。自分の部屋で自分の好きなことをしなさい』
「あたしの部屋? そんなものこの家には存在しないわ」
 そうだ、ここは姉の部屋。姉は死んでも尚ここに存在し、あたしを、そして両親を支配し続けている。
『あんたがそう思っているだけよ』
 切り込むように姉が言った。ぎくりとするあたしに姉は哀しそうに言う。
「もうあたしはいないのよ」
「だけど、ここはまだ姉さんの部屋で、あたしは……」
『ねえ、ゆりこ。あたしはずっと、あんたのこと恨んでいたわ』
「え?」
『あたしはどんなに努力してもあんたの弾く「別れの曲」以上のものが弾けなかった。あんなに透明で、それでいて豊かな音はあたしには出せない。……ねえ、ゆりこ。あんたはここを出て行かなくてはいけないわ。あんたはあたしの部屋に囚われているのよ。あたしの部屋を出て自分の部屋で好きなピアノを弾きなさい』
「好きなピアノって……別にあたしは」
『意地はもう張らなくていいのよ』
 姉は笑った。優しく優しく、笑う。
『あたしはあんたの弾く「別れの曲」が大好きだった。……言いたかったのはそれだけよ』
 その言葉はあたしの体と心に長くこびりついていた呪いを解いた。
 気が付くと、あたしは駆け出していた。そして、姉の手を、ピアニストを一途に目指していたその麗しい手を握った。その手はとても冷たくて、悲しかったけれどあたしはしっかりと握りしめた。ようやく姉はあたしの元に戻ってきてくれた。こんなに嬉しいことはない。
「姉さん、あたし」
 謝ろうとして顔を上げると、そこに姉はいなかった。代わりに優しい目であたしをみつめる珠城さんがいた。彼は深い深い海の色の瞳でゆったりと微笑む。
「……何故、珠城さんがいるの? 姉さんは?」
 その問いに、彼は優しくあたしの手を握り返すと、とても静かな声で言った。
「お姉さんの伝言、確かにあなたに伝えましたよ」
 あたしはただ彼の顔をみつめることしか出来なかった。


 それからあたしはピアノの勉強を始めた。
 部屋の押し入れから彼女の遺していった沢山の音楽教本や楽譜を引っ張り出し、それこそ基本から勉強し直した。
 姉の軌跡を辿るその作業は心の痛みを伴ったけれど、それは確実に透明人間だったあたしを生身の人間に戻してくれた。
 最初はいい顔をしなかった両親も、あたしが本気だと判ると何も言わなくなった。それどころか、今はあたしの弾くピアノにそっと耳をそばだてているようだ。
 そして、あたしは姉の遺品整理もした。
 不要と思われるもの……置いていても悲しいだけのものは処分した。部屋の中のほとんどの場所を今ではあたしの物が占めている。こうして姉の部屋はあたしの部屋となり、残った姉の物はダンボール箱ひとつ分と指先から血がにじむまで弾き続けたピアノだけになった。
 そう、あのピアノは、あのピアノだけはこれから先もずっと姉の物だ。

 そしてあたしと英里は相変わらず親友だ。
 後にあの時のことを英里に尋ねると、どうやら彼女には幼い頃のあたしや姉の幽霊は見えていなかったらしい。
 彼女が見ていたのは、ピアノを弾いている珠城さんを驚いてみつめて何かわけの判らないことを口走り、揚句、彼の手を握りしめるというあたしの奇妙な行動だけだった。だけど、珠城さんのことをよく知っている英里はこれは何か意味のあることだと思い、一部始終をおとなしく傍観していたのだそうだ。

 それからあたしたちは珠城さんという不思議な人の話を特にしなくなった。ただ、時々「別れの曲」を弾くあたしの傍らで、英里が優しいため息をつきながら、
「珠城さんにもいつかこの曲、聴いてもらえたらいいね」
 とつぶやくことはあったけど。
 そしてあたしはその言葉に頷きながらも、もう二度とあの人に会うことはないだろうと思っていた。


(ゆりこの部屋 おわり)