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 八年前、千秋の葬式に俺は怖くて行けなかったんだ……。
 雅人は当時のことを思い出しながら、野間千秋の実家の前に立っていた。腕時計を見ると九時を過ぎている。いくらなんでも非常識だよな……。そう思いながらも、雅人は立ち去りがたく、その場に佇んでいた。今夜でなければならない気がしていた。きっと、明日になれば、また臆病風が吹くに決まっている。
 雅人は懐かしい友の家を見上げた。
 野間千秋の家は煉瓦造りの一戸建てだ。日本家屋の古い家で生まれ育った雅人の目には、その洋風の家は新鮮に映ったものだった。子供の頃は毎日、この家に来ていた。千秋の送り迎えをしていたあの頃が、一番輝いていたように思う。まっすぐに、自分の中の正義を信じて、ただ友達を守っていたあの頃。
 千秋の葬式は、確か、雨が降っていたな。
 雅人は遠い目をして暗い映像を思い出す。
 俺は千秋の母親と顔を合わせるのが怖くて、こっそりと離れたところから葬式の様子を見ていた。ごめんな、ごめんなと何度も心でつぶやきながら……。
 雅人は顔を伏せる。胸にこみ上げてくるものはあったが、涙は出てこなかった。
 雅人はひとつ溜息をつくと、帰るべく歩き出した。
 やっぱりだめだ。会わせる顔がない。だが三歩もいかないうちに名前を呼ばれてぎくりと立ち止まる。その声には聞き覚えがあった。昔と同じ柔らかな優しい声だった。
「おばさん……?」
「ああ、やっぱり、雅人くんね。まあまあ、随分立派になって。久しぶりねえ」
 中年女性が家の門から顔を出し朗らかに笑っていた。何の屈託のない笑顔だった。
「あ、あの」
「門が開けっ放しのような気がしたから、戸締りしようと出てきたら雅人くんがいたなんて! 虫が知らせたのかしら。良かったわ。……うちに来てくれたんでしょ? 千秋に会いに来てくれたんじゃないの?」
「あ、いえ。あの……近くまできたので……でも、もう帰ろうかと」
「あら、急ぐの?」
 本当に悲しそうに彼女は言った。
「少しでいいから、寄って行ってよ。ね?」
 門から出てきた小柄な千秋の母親に、雅人はぐいぐいと手を引かれ、家の中に引っ張り込まれてしまった。
 リビングに入った雅人は、途端にぎょっとして立ち止まる。いきなり目の前に仏壇とそこに飾られている明るく笑う千秋の写真が目に入ったのだ。
 千秋……。
「どうしたの? どうぞ、座ってちょうだい」
 一旦、台所に消えた母親が、ジュースとクッキーの入った皿を盆に載せて現れた。立ち尽くしている雅人の視線の先をちらりと見たが、特に何も言わなかった。
「こんなものしかなくて、ごめんなさい」
「あ、いいえ。すぐに……おいとましますので。すみません、こんな時間に」
 雅人はおずおずとソファーに座りながら言う。本来ならすぐ友達の遺影に手を合わせるのが礼儀なのだろうが、体が硬直して動かない。そこに座ることだけで精一杯だった。
「いいの、いいの。……雅人くん、いくつになったの?」
 母親も向かい合わせにソファーに座りながら、唐突に尋ねてきた。雅人は少し怯えながら答える。
「二十五、です」
「ああ、そうか。そうよね。千秋と同い年だもの」
「……あの、俺……」
「雅人くん、うちの千秋があなたに何をしたの?」
「え……」
 それは優しい物言いだったが、雅人には心臓を鷲摑みにされたような衝撃が走った。責められることは覚悟していたが、やはり辛い。黙り込んでいると、尚も母親は言葉を続けた。
「小学生や中学生の頃は良かったわ。あなたと会ってから千秋は明るくなったもの。いつも千秋を助けてくれて。本当に感謝していたのよ……」
「あの、おばさん、俺は……」
「千秋はいい子だったでしょ? 生まれつき足が悪くて、そのことでよくいじめられていたけど、家族に心配かけないよう、いつも笑顔だったわ。ああ、そうそう。あなたが来たらぜひ見て貰おうと思っていたものがあるの……」
 母親はそう言うと立ち上がり、仏壇の引き出しの中から一冊のノートを取り出した。
「これ、あの子の日記なの」
「日記?」
 雅人は母親が差し出すそのノートをまじまじと眺めた。千秋が日記を付けていたなんて初耳だった。
「千秋が、ですか?」
「そうなのよ。でもね、あの子、文章を書くの、苦手だったから、一行だけしか書いていなかったり、二、三日、書いてなかったりで、そんなにちゃんとした日記でもないんだけど、それでも、最後まで続けていたのよ。ほら、見てちょうだい。雅人くんのことばかり書いているんだから」
 強引に渡されて雅人は仕方なく、ページに目を落とす。
 確かに懐かしい千秋の、癖のある文字が一日に二、三行のペースで日々の感想を綴っていた。それは母親が言うように、雅人のことでほとんど占められている。雅人にこんなことをして貰って嬉しかった、だの、雅人にこう言って貰って助かった、だの、そんなことばかりだ。
 震える指でページを進めていくと、日記は突然に終わっていた。その最後の日付は千秋が亡くなる前日だった。濃い鉛筆の文字で一言、『雅人くん、ごめん』と書かれていた。
「……なんで、謝っているんだ」
 低く雅人は呟いた。思えば千秋は雅人と何かあるたびに、それが別に千秋のせいでなくても、いつも雅人に謝っていた。必死で雅人の顔色を伺って、嫌わないでね、と健気なくらいに。
「雅人くんだけだったから」
 母親が静かに言った。
「あの子の友達は雅人くんだけだったから、嫌われたくなくていつも、いつも、謝っていたのよ。雅人くんのこと、本当に好きで、尊敬していたと思うわ。勉強も運動も出来て、先生にも信頼されている雅人くんと友達でいられることが、あの子の唯一の自慢だったし、希望の光だったのよ……」
「俺、尊敬されるような人間じゃないです。そんな人間じゃないです」
「少なくとも、千秋にはあなたはそういう人間だったのよ」
「……迷惑です」
 言ってしまった後で、雅人は後悔した。
 そんなことを言うつもりはなかったのに。どぎまぎしている雅人を、母親は優しく包むように言った。
「そうよね。うん。私もそう思うよ。あの子、思い込んだら命がけって感じがあったし……純粋なんでしょうけど……。雅人くん、そういうとこ、嫌だったんじゃない?」
「別に……そんなことは」
「いいの。本音で話しましょうよ。実は私ね、あの子が死んでしまってしばらくの間は、雅人くんのこと、恨んでいたのよね。だって、あんなに仲良くしていたのに葬式にも来てくれない。他の生徒さんが千秋の葬式に来てくれなくったって何とも思わないけど、雅人くんが来てくれなかったのは、正直、こたえたわ。
 それに、高校に上がってから、喧嘩でもしたのか、毎日登下校にうちに来てくれていた雅人くんが来なくなったのも、すごく不安だったの。千秋はなんでもないって言うから、高校生にもなった子供の喧嘩に親が出て行くわけにも行かなくて、私は傍観していたのだけど」
 母親はここで一度、言葉を切ると、まっすぐに雅人を見た。
「そして、あの夏祭りの夜。あの日に何があったの?
 千秋はその日は雅人くんたちと出掛けるんだと言ってとても楽しそうにしていたの。なのに、帰ってきた千秋は真っ赤な顔をして熱があった。ぐったりとしてお風呂にも入らず、ご飯も食べずにすぐに寝てしまった。
 私は、てっきり雅人くんとは仲直りして、久しぶりにはしゃいで遊んだせいで熱を出したのかと思ったわ。だから、そう気にしなかった。でも、翌日になっても熱は引かず、具合はどんどん悪くなり、結局、入院することになってしまったの。そして、あの子は回復することなく……死んでしまったわ」
「……千秋くんは……俺が殺してしまったのかもしれません」
「雅人くん?」
「俺たち、いや、俺は、千秋の純粋な気持ちを踏みにじったんですよ。俺は、さっきも言いましたけど、尊敬されるような人間じゃないんです。
 千秋のこと、守ってきたような顔をしてたけど、でも実際は自分がいい格好したかっただけなんです。
 最初のうちは、確かに純粋な正義感でした。でも、だんだん変わってきたんです。俺は千秋を道具に使って優等生を演じ始めていたんです。足の悪い同級生を助ける優等生を気取って、いい気になっていたんです。
 千秋を傍に置いておくだけで、他の生徒も先生も、近所の大人たちも俺が偉いって言うんです。さすが、学級委員だなって褒めてくれました。
 俺は……そうして……千秋に優越感をいだいていたんです。自分より弱いもの、力のないものを傍に置いて。そうして千秋に劣等感を植え付けて、自分は優越感に浸っていました。千秋がいつも卑屈になって俺に謝っていたのは、俺が千秋にそうするよう仕向けていただけなんです。俺と千秋は友達という同等の立場にはいませんでした。千秋は、俺の、俺をよく見せるための道具だったんです。だから……」
「だから?」
 言葉に詰まる雅人に母親が励ますように先を促した。雅人は搾り出すように続きを話した。
「それに気付いてしまったら、自分がすごく醜く思えて嫌だった。だから、千秋を遠ざけたんです。やり方が間違っているのは判っていました。でも、怖かった。もし本心を言えば、道具でいいよって、それでもいいから傍にいさせてくれって、千秋なら言うかも知れない。それが怖い。あいつの身も心もっていうあの健気さが、とにかく怖かった」
 そして、日に日に綺麗になっていく千秋に、心から惹かれていく自分も怖かった……。
「そうね。そうよね」
 一瞬の沈黙の後、驚くくらい明るい調子で母親が言った。
「うちの子、そういうとこ、あったから。判るよ、雅人くんの気持ち。ごめんね……。あら、嫌だ。親子で雅人くんに謝っちゃったね」
「おばさん……」
「そんな暗い顔しないで。雅人くん、真面目だから……。
 あのね、夏祭りの日に千秋が雅人くんのことでからかわれたって話は他の生徒さんたちから聞いてはいたの。いじめがあったのかもしれないって。でも、それだけであの子の具合があんなに悪くなるものかしら。他に何かあったんじゃないか、何かされたんじゃないかと疑っていたんだけど……でも、もうよしましょうね、こんな話」
 悲しげに微笑む母親の顔を、雅人は直視できなかった。逡巡した後で、雅人は顔を上げると口を開いた。
「おばさん、そう言ってくれるのはうれしいけど、でも俺、話さなきゃならないことがあるんです。あの日、祭りの夜に起こったことをちゃんと話したいんです」
 ふっと、母親の顔から笑みが消えた。少し怯えたような目になるが、彼女は優しい声で言った。
「いいわ。話してちょうだい」
 一呼吸置いて、雅人は祭りの夜に霊泉で起きた一部始終をゆっくりと話した。その間、母親は一切、言葉を発することなく聞いていた。
「……そう、霊泉の水を。そんなことがあったのね」
 話を聞き終わるとそう言って、しばらく、母親は俯いて目を閉じていたが、顔を上げた時には微笑んでいた。
「ありがとう、雅人くん。すっきりしたわ」
「……え?」
 雅人は文字通り、きょとんとして母親の顔を見返した。どんな罵倒の言葉が返ってくるかと思っていただけに雅人は拍子抜けしてしまった。
「何でお礼を言うんですか? 俺は、千秋にひどいことをしたのに」
「かもね」
 あっさりと母親は肯定して言葉をつないだ。
「でも、ちゃんと告白しに来てくれた。それがありがたいと思ったのよ。……ねえ、雅人くん、あなたもずっと苦しんできたのでしょう? どう、あなただって、すっきりしたんじゃない?」
 言われて、雅人も気が付いた。
 抱え込んでいた罪を告白したことでその罪が消えるわけじゃない。それでも、確かに胸につかえていた硬く冷たいものはいつの間にか消えていた。
「あの子は幼い頃からいじめられていたから、だから、千秋の死因もいじめが関係あるんじゃないかって、ずっと考えていたの。でも、そうか、霊泉の水を飲んだだけだったのね」
「飲んだだけって……」
「バチが当たったとか思っているの?」
「というか、その飲めない水を飲んだせいで具合が悪くなったのかもしれないって」
「あれはただの湧き水じゃないの」
 からりと笑われて、雅人は二の句が継げない。母親はそんな雅人の表情をしばらく眺めた後、少し、声を落として言った。
「どちらにせよ、もう判らないことよ。千秋は死んでしまった。そして、私や雅人くんは生きている。それだけよ」
「おばさん……でも、俺は」
「あの子のことで暗い顔したり悩んだりはもうおしまいにしましょう。だから、雅人くん。また、いつか、ここに遊びに来てやって。千秋にとってそれが一番の供養だと思うから……」
 死んだ人間はもう帰っては来ないのよ。
 小さな声で途切れがちに母親がつぶやく声が雅人の耳と心を打った。
 固く目を閉じる。じわりと熱いものが目じりに膨らんで頬を伝って落ちていく。無意識に指でそれを拭った。
「あ。涙」
 思わず、雅人は声を上げた。母親が驚いて雅人の顔をまじまじと見る。
「俺、まだ、泣けるんだ」
 普通に聞けば奇妙なその言葉に、母親は柔らかく微笑んで頷いた。
「……俺、これでおいとまします」
 立ち上がった雅人に母親も立ち上がりながら言った。
「そう。気を付けて帰ってね。真直ぐ帰るのよ、いいわね?」
「やだな、おばさん。俺、もう高校生じゃないんですよ」
「それでもよ。夜遊びはだめ。真直ぐ帰りなさい」
「はい。あ、でも、ひとつだけ寄りたい店があるんです。そこに行かないと」
「あら、飲み屋さん? 可愛い子でもいるのかしら」
 面白そうに尋ねる母親に雅人はにこりとして言った。
「いえ、ちょっと怖いくらいの人です。あの人にはツケがあって……ビール代を払いに行かないといけないんです。と言っても、もう一度、あの店にたどり着けるかどうか自信はないんですけど」
「場所を覚えていないくらい飲んでいたの? よほど酔っていたのね」
「はい。酔っていたんです」
 雅人はふと、仏壇に飾られている千秋の遺影を見た。
「でも、もう酔いは覚めました。だからこれからは真直ぐに歩いて行こうと思います……」

 千秋、ごめんな。
 俺は行くよ。

 遺影に向かって頭を下げたその時、耳元で、千秋の声が聞こえた気がした。慌てて顔を上げるが、そこには優しく微笑む母親がいるだけで、千秋の姿は見当たらない。
「……雅人くん、どうかした?」
「あ、今、千秋の」
 言いかけて雅人は口を閉ざす。軽く首を横に振ると、改めて辞意を告げて外に出た。門の所まで出てきた母親はいつまでも名残惜しそうに雅人を見送ってくれた。

 ひとりで暗い夜の道を歩きながら、雅人は知らず知らずに耳を撫でる。千秋の声がまだそこに残っていた。

 ありがとう。さようなら。

 千秋はそう言った。少なくとも、そう言ったように雅人には聞こえた。
 千秋の奴、ごめん、以外の言葉もちゃんと言えるじゃないか……。
 笑いかけて、雅人は真顔に戻る。
 いや、千秋のその声は俺の願望がもたらした幻聴なのかもしれない。
 八年前の夏祭りの夜のことを、千秋の母親に告白できたことで、雅人の心は少し軽くはなった。しかし、それはそれだけのことだ。自分のしたことが消えるわけではない。千秋のことは一生忘れられないだろう。
 雅人は目を凝らす。濃度の高い闇の向こうに、街灯だろうか、ぽつりと灯る光があった。
 黄泉の国でイザナミに追いかけられたイザナキが、息も絶え絶えに仰ぎ見た現世に続く入り口もこんな小さな光だったのかもしれない。

 雅人は少し、足を速める。
 あのバーのマスターに無性に会いたくなっていた。


(祭りの夜に おわり)

(都市奇談 了)