昨日、姉さんが死んだ。
 いや、実際は今日だったのかもしれない。とにかく、姉は死んだのだ。もうこの家には戻ってこない。
 生きたままでは。

 彼女は三日ほど前、大学の卒業旅行と称して男子を含む六人グループで海辺の街に出かけた。
 姉は優等生だったから両親も間違いなど起こさないだろうと安心して彼女を送り出した。
 その日、夜遅くまでホテルの部屋で宴会をしていた彼らはしたたか酔っていた。その勢いで真夜中のドライブに行こうということになり、昼間、借りておいたレンタカーに全員で乗り込んだ。そして海沿いのカーブの多い狭い道を彼らは走り抜けていった。その車が海の波間に消えたのは三つ目の急なカーブでだった。
 その時、車が暗い海に飛び込んだその瞬間、時計の針が二十四時を回っていたのかどうか、あたしは知らない。

 姉の遺体がみつかったのは事故の第一報が入って一週間ほど経ってからだった。
 生存は絶望的と前もって伝えられてはいたものの、遺体発見の連絡に両親は半狂乱になった。
 姉は病院の霊安室に静かに横たわっていた。
 あたしはこの時、生まれて初めて死体というものを見た。それも状態の良くない死体。泣きじゃくる両親をよそに、あたしはひどく客観的に彼女の無残な死を見ていた。

 事故当時の姉の様子を、生存者の女の子はこう語った。
 ドライブに行こうと盛り上がる彼らを、姉は危ないからと唯一止めていたのだという。彼女はただひとり、酒を飲んでいなかった。最終的に姉がドライブに同行したのは彼らを心配してのことだったからだ。
 それを聞いた両親は一層激しく泣いた。ああ、やっぱりあの子は何も悪くないのだわ。
 涙を誘うその光景は、しかし、あたしにはどこか滑稽に映った。
 泣きながらも両親はどこか安心していたから。姉が優等生のまま、イメージを崩さず死んでくれたことに。
 あたしは密やかに微笑んだ。


 そうして姉の葬儀すべてが終わってしまうと、あっけないくらい平常な世界があたしの前に広がった。
 朝起きて、学校に行き、夜になったら眠る。
 簡単なことだった。
 姉がいようといまいと日々は続いていく。何事もなかったように。
 そして、その平凡な日々の中、あたしは不意に不安になる。
 時々、こう、自分の手の平を空にかざしてみる。その手はいつか頼りなくぼやけ始め、ついには透けてしまうのではないかと本気で思うのだ。自分は本当にここに存在するのだろうか、と。

「ゆりこ、どうしたの?」
 大学の食堂で向い合せに座っていた英里(えり)が不思議そうにあたしの顔を覗き込む。あたしは慌てて首を振り、笑顔を作った。
「なんでもないよ」
「そんな顔じゃないな」
 少し意地悪く、英里は言った。
「この世の不幸を一身に引き受けていますってな顔をしてるよ」
「そお?」
 あたしたちは目を合わすと少し笑った。
 英里。小島英里とあたしは高校からの友人だ。帰国子女の彼女は高校二年の途中から転校してきた。外国育ちのせいか、屈託のないまっすぐな意見を言う女の子で、少し変わってもいた。
 不意に奇妙な話しを始めるのだ。彼女は熱心に魚の話しをした。実はあたしも魚なのよ、と真剣な顔で言うのだ。
 最近はそんな話もしなくなったが、あの時の英里の真剣なまなざしをあたしは忘れることができないでいる。
 今、あたしたちは私立の芸術大学に通っている。
 あたしは文芸部で文学を学び、英里は舞台芸術部で演技の勉強をしている。英里は外国で暮らしていた頃は地元の演劇サークルに入り、幼いころから舞台に立っていたらしい。
 彼女が魚の話をしたのも、その辺に理由があったのかもしれない。舞台上の架空の世界と現実の世界の境目があいまいになってしまった、というような……。
 高校二年の時、担任だった若い女の先生は露骨に英里を気味悪がった。そのマイナスの感情はやがてクラス中に伝染していった。英里にとって高校時代は最も辛い時期であったのではないだろうか。
 英里の気性はまっすぐで、まっすぐすぎて痛いぐらいだ。
 あたしは英里のその気性を、変わっている部分を含めてすべてを愛している。きっとそれはあたし自身にはないものだから。
 英里はいつもつんと顎を上げ、自信に満ちた声で言ったものだ。
『あたしは役者になるのよ。俳優じゃなくて役者、よ。判る?』
 あたしは苦笑して頷くしかない。

「何かあったの? 話なら聞くよ」
 彼女の声であたしは現実に引き戻された。はっとするあたしの心を覗くように英里が目を細める。
 その視線から逃れるためにあたしは慌てて言った。
「あ、あのさ、英里は……幽霊って見たことある?」
「って、もしかしてお姉さんが亡くなったことと関係があるわけ? お姉さんの幽霊が出る、とか?」
 怪訝そうな顔で彼女はあたしを見る。
 ああ、やっぱりそんな顔をするんだ。
 少なからず落胆して、目の前のミルクティーに視線を落とす。
 考え過ぎよ、お姉さんのことがショックだから変な夢を見るのよ……英里の次の言葉をそんな風に想像しながら、あたしは意味もなくミルクティーをかきまわした。
「話してよ」
 不意に英里が言った。
 あたしが驚いて顔を上げると彼女はいたずらっぽく笑う。
「話を聞くと言ったでしょ」
「でも……適当に話を合わされてもうれしくないし」
「あら、疑うの?」
 鋭いくらいの視線で英里はあたしを見る。この目に弱い。あたしはまた、視線を落とす。
「聞いて欲しいんでしょう?」
 厳しい口調で彼女は言う。
「話しなさいよ。あたしはゆりこの言うことを信じる。適当に話を合わすなんてことはしない。あたしの気持ちを疑うことは許さないわ」
 あたしがたじたじとして頷くと、英里は満足そうに微笑む。あたしはそれでも躊躇したが、結局、諦めて話し始めることにした。
「あたしの部屋……そう、元々は姉の部屋ね、そこに出るのよ」
 あたしは一呼吸おいて言った。
「姉さんの幽霊が」
 そして、英里の反応を待ってみる。
 が、しかし、彼女は真剣なまなざしであたしをみつめるだけで何も言ってくれない。二人の間の空気が妙に重たくなった気がしてあたしはそれを振り払うために話を続けた。
「前に話したことがあったと思うけど、あたしと姉は中学まで十畳の部屋を二人で使っていたの。でも、姉の高校受験が近づくとあたしはその部屋を追い出された。
 姉は名門音大の付属高校を受験するせいでひどく神経質になっていたの。両親は何でも姉が一番だったから彼女があたしの存在が邪魔だと言えば、今まで物置として使っていた四畳半の部屋に簡単にあたしを放り込んだ。
 姉の受験が滞りなく終わっても、あたしは相変わらず、四畳半の部屋に押し込められたままだったわ。姉が一人部屋で快適に過ごしているのを見てこのままでいいと思ったみたいね」
 ふふと自虐的に笑ってしまう。
「あたしはずっと家族の中で疎外されてきたから、今更驚かないけど。でも、やっぱり複雑な気持ちだったな。あたしの存在は何だろうって。姉は優秀、妹は馬鹿。それがうちの家族の法則。
 その法則は絶対で変わることはない。姉がいなくなった今でもそれは続いているの。
 でもね、あたしは知っているの。姉の優等生然とした振る舞いはすべて作り物だって。確かにあの人はイイコではあった。でもそれは自分のためよ。人の目をいつも気にして、こう言えば人は自分を良く思うだろうって常に計算していた。イイコを演出していたってわけ。だから、優しいふりをしていただけで、本当は計算高い嫌な人だったのよ」
 あたしは一旦、そこで話を止めた。
 なんだか虚しくなってきたのだ。姉に関わる話をするといつも自分の中の悪意をまざまざと思い知る。必ず必要以上に姉を悪く言ってしまうのだ。
 もうこんな話をするのはやめよう。死んでしまった姉のことを今更、言ったところで意味はない。
 ましてや姉の幽霊なんて……やっぱり馬鹿みたいだ。
 あたしが心を決めて顔を上げると、英里はいつもの真剣なまなざしであたしを見ていた。何ものも見逃すまいとするちょっと怖いくらいのまなざしだった。
「それで?」
「え?」
「話の続き。肝心なお姉さん幽霊がまだ登場してないけど?」
「う、うん」
 あたしってなんて脆弱なんだろう。話をやめようと思ったばかりなのに英里の催促に負けて、また話を続けていた。
「……ピアニスト志望だった姉は、家族の希望の星だった。そんな姉が亡くなってしまうと家の中はしんとして暗くなってしまったわ。両親は、特に母は姉の部屋に異常に執着したの。触らせないの、誰にも。だから彼女が生きていた時のまま、部屋は保存されている。
 それがね、ある日、母があたしに言ったの。姉の部屋をお前が使いなさいって。
 あたし、この時、母親がどうかしちゃったんじゃないかって思ったわ。あまりの悲しみに耐えられなくなったのかって。
 ……でも、そうじゃなかった。すぐに母の企みが判ったの。母はね、怖かっただけなのよ。姉の死を認めたくなかっただけなの」
「どういうこと?」
「つまり、姉のあの部屋が風化していくのが怖かっただけ。使われてない部屋ってすぐに傷んで、空気もよどんでくるじゃない。
 姉の大切にしていたピアノにも、読みかけのまま伏せてある本にも、時間という名の埃が降り積もる。過去のものになっていく。母はそれが怖かった。もう、二度と姉は帰ってこない、あの部屋は死人のものなのだ……それを認めるのが嫌だっただけ。だからあたしをあの部屋を劣化させないための管理人として放り込んだのよ。
 いつもあの部屋には人の気配があって、明かりがついていて掃除する誰かがいて、姉の好きだったショパンが流れている……それが母を安心させるの。そこにあたしの気持ちはない」
「お母さんもお姉さんのことばかり考えているわけじゃないんじゃない?」
 英里の言葉にあたしは頑として首を振る。
「その証拠に、あたし、母に言われたの。この部屋のものを勝手に動かすなって。だから、相変わらず、あの部屋には姉のものがあふれている。あたしの荷物は四畳半の部屋に置いてあるのよ。馬鹿みたいよね。あたしがあの部屋にいるのは一重に母を安心させるため。あれはあたしの部屋じゃない。まだ、姉の部屋なのよ」
 黙り込むと、英里はあたしが話し出すのをじっと黙って待ってくれた。英里のこういうところをいつもありがたいと思っている。
 一息ついてから、あたしは続けた。
「その部屋に出るの。姉の幽霊が。……ねえ、言ったかな。姉の遺体がみつかったのは事故が起こってから一週間くらい経ってからなの。
 どうしてかな。同じ事故に遭った友達の遺体は二、三日中にみつかったのに姉だけはなかなかみつからなかった。かなり遠くに流されていて、みつかった時はひどい状態だったのよ。
 腐敗が始まっていてガスでぱんぱんに膨らんでいたわ。あのほっそりとした姉の、優しい面影はどこにもなかった。その悲惨な姿のまま、姉はあたしの前に現れる……。
 ねえ、知っている? 幽霊ってね、現れる時、音がするのよ。じりじりじりって奇妙な雑音から始まるの。それはどこから聞こえてくるのか判らない。
 いいえ、それは音じゃないのかも。あたしの心に直接訴えかけてくる思念のような、呪いのような、祈りのような、そんなものなのかもしれないわ。
 首の後ろに何かが這ってくるような嫌な感覚があって、それは振りほどこうとしても振りほどけない。何かねっとりとしたものよ。
 ああ、来るんだって思う。姉さんがやってくる。あの恐い姿で彼女はあたしに真実を突き付けにやってくる。
 姉はクローゼットから現れる。ねえ、定石通りだと思わない? 幽霊って何故、押入れとかカーテンの隙間とかそんなところから現れるのかしらね? 
 クローゼットからどんな風に姉が現れるか想像できる? まず、手が出てくるの。ピアニストらしいしっかりとしたそれでいて繊細な指。それがゆっくりと扉を押し開き、姉の恐い顔がこちらを見るの。
 そして姉はあたしに言う。『早くここから出ていきなさい』と。
 姉の深夜の訪問は毎夜続くのよ。あたしは何も言えない、どこにも行けない。ただ姉が現れて去っていくのを見ているだけ。気が付くと朝になっている。その繰り返し」
 あたしが口を閉じると、あたりはいよいよ沈黙に沈んだ。
 今、ここにはあたしたちと離れた席で本を読んでいる女の子がひとりいるきりだ。
 静かなのは当然のことだけど、今のあたしにこの静けさは苦痛だった。
 あたしはすがる思いで目の前にいる英里をみつめた。
「……全部話したよ。何か言って」
 沈黙していた英里は少し何かを考えていたようだった。不意に微笑むと彼女は言った。
「ゆりこ、今夜、暇かな?」
「は? 何言ってんの?」
「暇かって聞いてるのよ。どうなの?」
「暇だけど?」
「よし。じゃあ、飲みに行こう。いいお店知っているのよ。あんたも気に入るわよ」
「ちょっと、飲みに行くって……あたしの話、聞いてた?」
「聞いてたよ。しっかりと。だから、誘っているのよ」
 あたしは唖然として英里を見る。お酒を飲んで忘れろとでも言いたいのだろうか。
「あの、英里。あたしはお酒でごまかすなんて嫌だよ?」
「……会わせたい人がいるのよ」
 穏やかな口調で英里が言った。あたしはきょとんとする。
「誰のことを言っているの?」
「多分、あんたが今、一番、会いたい人、よ」
「え?」
「飲みに行こうね。久しぶりだね」
 彼女は何事もなかったようにそう言うと笑った。それ以上は何を聞いても答えてくれなかった。

 一旦、別れた後、日が落ちてからあたしたちは駅前で待ち合わせをした。
 どこへ行くのかと尋ねると、繁華街の裏手にあるバーだという。あたしはにわかに緊張した。この時間に女の子だけでその界隈を歩くのは初めてだったからだ。
「ねえ、大丈夫なの?」
 怯えながら英里に聞くと、彼女はあっけらかんと答える。
「平気よ。変な店じゃないから安心して」
「会わせたい人って誰なの?」
「……あたしのイイヒト」
「え?」
 あたしはどぎまぎした。
 英里にそんな人がいたなんてこと、長い付き合いであるのに全然、知らなかった。しかも、人が悩んでいる時に自分の恋人に会わせようだなんて、一体どういうつもりなのだろう。
 あたしは足を止めた。
「帰る」
「あら、どうして?」
 屈託なく英里は言う。無邪気なその様子にあたしは余計、腹が立った。
「冗談じゃないわよ」
 ついつい語尾がきつい角度に跳ね上がる。
「何でこんな時にあたしがあんたの恋人に会わなきゃいけないわけ? 優越感に浸りたいならよそでやってよ」
 回れ右しかけたあたしの腕を英里はいきなり掴んだ。そのまま、英里はあたしを引っ張って歩き出す。
 その強引さに文句を言おうと彼女の顔を見た途端、あたしは、はっと息を呑んだ。
 英里の表情は哀れな友人に自分の恋人を見せつけて優越感に浸ろうとする女の顔ではなかったからだ。
「どうしたの?」
 毒気を抜かれてあたしは聞いた。英里はその言葉にようやく、あたしの腕を放した。
「嘘よ」
 抑揚のない声で英里は小さく言う。
「彼はあたしの恋人じゃない。そうなればどんなにいいかと思うけど、すごく彼が欲しいけど……あの人は誰かひとりのものになれる人ではないのよ」
 あたしは黙っていた。いつも強気の英里にこんな弱音を吐かせてしまう男が憎らしかった。そして、その反面、会ってみたいと強く思った。
 それから店に着くまでの間、あたしたちは一言も言葉を交わさなかった。

 そのバーの名前を『乱反射(らんはんしゃ)』といった。
 コーヒー色の看板をしばらく眺めた後、あたしたちは揃って店に入った。
「いらっしゃいませ」
 洗い物をしていた青年がカウンター越しにこちらに笑顔を向ける。
 ああ、きれいな人だな、とその瞬間にあたしは思った。取り立てて美青年というのではない。あたしが思うのは容姿のことではなく、彼の持つ雰囲気のことだ。彼には透明感がある。どうしようと決して濁ることのない何かが感じられた。
「久しぶり」
 あたしの思考を英里の陽気な声が破った。はっとして視線を英里に向けると、彼女は訳知り顔でにやりと笑い、さっさとカウンターの席に着く。
 彼女は愛想よく青年に言った。
「友達つれてきたよ」
「お久しぶりです、英里さん」
 青年も柔らかく微笑むと、ドアの前でぼうっと立っているあたしを見た。
「お客さまもどうぞこちらに」
 青年は優雅な仕草で英里の隣の席を進めてくれた。
 あたしはおとなしくそれに従う。その間にも青年と英里は親しげに言葉を交わしていた。話の内容から二人はずいぶん前からの知り合いらしいことが判る。
 好奇心がうずくけれど、あたしはなかなか顔を上げることができなかった。英里を悲しませる男の顔をじっくり見てやろうと思っていたのに、彼と目が合ったらどうしようと戸惑っている自分が情けなかった。
 あたしは何を意識しているんだろう。
「ゆりこ、この人よ。あんたに会わせたかったのは」
 唐突に英里が切り出した。
 彼はにっこり笑って、改めてあたしを見る。
「初めまして。珠城(たまき)と申します」
「あ、はじめまして。斉藤ゆりこです」
 あたしは思わず、頭を下げた。
 なんだかこの人には店に入った時から圧倒されっぱなしだ。だけど、その反面、珠城さんという存在は人の心をなごませる何かがあることも認めないわけにはいかなかった。
 何だろう。この人。
 あたしは勇気を出して彼に視線を向けた。斜めの角度から見る珠城さんの顔に特別なものは何も見い出せないのだけど。
「ご注文は?」
「うん、そうねえ、あたしはマルガリータ。ゆりこは?」
 急に振られてあたしは慌てた。
「え? あ、一緒でいいよ。よく判らないから」
「そう。じゃあ、マルガリータふたつ」
「かしこまりました」
 そしてまた、微笑む。
 職業上の営業スマイルと判っていても、この人の笑顔はいいと思ってしまう。つられてこっちまで口元がほころんでしまう。
 悔しいくらい笑顔の似合う人だ。
 しばらくして、マルガリータと称する乳白色の液体がカクテルグラスに注がれて登場した。英里は早速それに口をつけたがあたしは戸惑った。飲みに行くといえば大抵、居酒屋でわいわいやるのが常だったあたしはこういう高級そうなカクテルなどという代物には不慣れだったのだ。
「どうしたの?」
 不思議そうに英里はあたしを見た。あたしは真剣にグラスをみつめながら言った。
「このグラス、ふちに塩がついてる……」
 一瞬の沈黙の後、英里は吹き出した。
「いいのよ、付いてても。そのまま飲むのよ」
「う、うん、それは判っているんだけど」
「抵抗がありますか?」
 穏やかに珠城さんが言った。
「お取替えしましょうか」
「あ、いいえ。気に入らないわけじゃないんです。ちょっと慣れていなくて。ごめんなさい」
「謝らないでください」
 珠城さんは優しくあたしをみつめる。
 あたしは目をそらしながら、思わず頬に手を当てた。
 赤い顔をしているに違いない。それを英里に見せたくなかった。彼女は珠城さんを想っているのだ。その身を焦がすほどに。これ以上、英里の感情をややこしくさせたくなかった。
 あたしは急いでグラスに口を付けた。顔の赤みを酒のせいにしたかったのだ。
「お味の方はどう?」
 隣で興味津々に英里が訪ねてくる。
 あたしは曖昧に笑って、甘いけど強いお酒って感じだね、とだけ言った。英里はひとつ頷いて、得意げに話し始める。
「それ、ウォッカだからね。こういう小さなグラスに入っているお酒はジュースで割ってあったりするけど、大抵、ストレートに近いのよ。だから強くて当然なの」
「へえ、詳しいのね」
「実は珠城さんの受け売りです」
 英里は快活に笑った。ついさっき、彼が欲しいと感情を殺した声でつぶやいた人とは思えない。
「さて」
 英里は突然、改まった声を出してあたしを見た。
「本題に入りましょうか」
「え?」
 あたしは本当に英里の言っていることが判らなかった。首を傾げていると、次に英里は珠城さんの方を向く。
「今日は彼女のことで来たの。彼女がいなかったら、あたし、ここには来られなかったわね、きっと」
 明るく言うその声には、ほんの少し皮肉の色があった。あたしはそれに気が付かないふりをして珠城さんの反応を待つ。
「どのようなことでしょう?」
 珠城さんがあたしを見る。漆黒の瞳だった。だけどあたしには、それが透明度の高い海の色に見えた。
「……英里?」
「話しなさいよ。お姉さんのこと」
「でも」
 戸惑うあたしに英里は言う。
「大丈夫。ここにはあたしたちしかいないんだから、何でも話していいんだよ」
 言われてあたしは初めて店内を見回した。
 本当だ。あたしたち以外、誰もいない。視線を元に戻そうとしたその時、何かがひっかかった。それはとてもあたしの心を惹きつけ、そして同時に不安にさせるもの。
 ぼうっとしているあたしに気が付いて、珠城さんと英里もあたしの視線の先を追う。
「ああ、あれですか」
 珠城さんが優しく言った。
「弾いてみますか?」
 あたしはどう反応していいのか判らなくて黙っていた。その癖、視線は未練たらしくいつまでもそれに絡みついている。
 あたしの心を惹き寄せたのは、店の奥にある美しく黒光りするグランドピアノだった。
 珠城さんはあたしの返事を待たずにカウンターの外に出てきた。慌てて止めようとするあたしを、英里の一言が黙らせた。
「あんた、昔はピアニスト、目指していたんでしょ? 一時はお姉さんを凌ぐ腕前だったって」
 あたしは無言で英里を見る。そんな話を確かに以前、彼女にした覚えがあった。あたしはなんて未練がましいのだろう。二度と弾かないと誓ったピアノなのに……。
 もじもじしていると、珠城さんがすぐ傍まで来てあたしの手を取った。
「どうぞ」
 彼はそう言っただけだった。
 それなのに、あたしは千の言葉で説得されるよりもたやすく席を立っていた。あんなに躊躇していたのが嘘のように。
 彼の瞳の色のせいだ。
 何の脈略もなくそう思った。
 あたしは意識的に英里の顔を見ないように、また、自分の顔を英里に見られないようにしながら、珠城さんのエスコートのもと、その美しいグランドピアノに近づいた。
「きれい……」
 あたしは心から言った。
 そのピアノは、傷は勿論、埃ひとつない健康的なボディを保っていたのだ。あたしは震える手でそっとそれに触れてみた。
 ほんの少し、指先だけ。とてももったいない気がした。あたしなんかが触れていいのだろうか? 触れたが最後、穢れてしまうのではないか。
 あたしは少し困って、珠城さんを見上げた。彼はあたしより、頭一つ分ほど背が高かった。
「何を弾いていただけますか?」
 彼はあたしの困惑をさらりと流して、穏やかに言う。
「楽譜は少しですが、ここにあります」
「あ、いえ。一曲だけ、完全に暗譜している曲があるので」
「何という曲でしょう?」
 あたしは少し、口ごもったが、それでも思い切って曲名を口にした。
「別れの曲」
 彼は頷くと、あたしの後ろに回ってピアノの蓋を開けた。あたしのために弾けるように用意してくれている彼の姿を見ながら、あたしは複雑な思いに囚われていた。
 どうしてピアノを弾く羽目になってしまったのだろう?
 あたしはふと、ひとりカウンターの席にいる英里を振り返った。彼女はこちらを見てはいなかった。ただ物憂げにグラスを傾けている。無表情なその横顔に、あたしはなんだか虚しさを覚えた。
『あたしは昔、魚だったの。今? うん、今でも魚よ。人魚なのよ』
 高校生の英里が語った言葉が不意にあたしの頭によみがえった。
 人魚。人魚姫。
 あたしは唇を噛む。人魚姫は悲恋の末に海の泡となって消えていく……。
 「さあ、いいですよ。どうぞ」
 顔を上げると珠城さんは椅子を引いてあたしを待っていた。
 あたしはおずおずとそこに座る。目の前にはモノトーンの完全なる『音』の世界があった。
 誰かが言っていた。ピアノほど完璧な楽器はないと。
 『ド』の位置の鍵盤を叩けば、調律が正しい限り、誰が叩いても完全な『ド』の音が出る。ギターやバイオリンではそうはいかない。音階がきちんと順番に並んでいて、どの鍵盤がどの音か目で確認することができる。そんな当たり前のことが、実はすごい奇跡なのだ。
 あたしはそっと、自分の指を鍵盤に乗せた。我ながらその不器用なさまに、初めてオンナに触れる少年の指のようだと場違いなことを思って密かに笑った。
 ひとつ、息を吐く。気持ちを整えて、もう一度、ピアノと向き合った。
 これからピアノを弾くのだと思うと新鮮な感動が心に沁みこんでくる。
 ……さあ、最初の一音。
 心をふるわせるはずのその瞬間に、あたしの指は突然、動きを止めた。指はあたしの気持ちを裏切ってかたくなに演奏を拒んでいたのだ。
 どうして? どうして弾けないの? 
 あたしはピアノが弾けるのに……弾きたいはずなのに……!
 戸惑って顔を上げると、珠城さんは驚くほど近くに立っていた。彼は何も言わず、ただ、あたしの顔をみつめている。
「あたし、弾けません」
 泣きそうになりながら、やっとそれだけ言った。


「僕はあなたが透明になってしまうのではないかと心配なのです」
 すごすごとカウンターの席の戻ったあたしに、やはりカウンターの奥に戻った珠城さんがやや唐突にそう言った。
「透けて見えそうです」
 冗談とも本気ともつかない口調と表情の彼に、あたしは心底、困惑した。どう返事をしていいのか判らない。
 あたしは、ついつい俯いて膝の上の自分の手をみつめる。
 透明。
 そうかもしれない。
 あたしはいつか、透明に溶けて消えてしまうのかもしれない。
 あたしのこの指はなんて頼りないのだろう。夜な夜な現れる姉の幽霊の、あのしっかりとした指の存在感に比べたら……。
 幽霊よりも影の薄いあたしは消えてしまって当然かもしれない。
「何故、弾けないの? その原因もまた、お姉さん?」
 そう尋ねたのは英里だった。あたしは力なく首を横に振る。何も言いたくなかった。
「あたし、あんたの言うお姉さんの幽霊って、あんたの心の問題なんじゃないかと思うわ」
「それって、やっぱり、信じてないってこと?」
「そうじゃない」
 今度は英里が首を横に振った。
「あんたは本当に見ているんだとは思う。でも」
「もういい」
 あたしは席を立った。
「なんだかわけが判らない。一体、何なの? 姉の話なんかしたくない。ピアノだって弾く必要ないわ。だいたい、どうしてあたしをここに連れて来たの? 珠城さんって一体、何者よ? 何も説明がないじゃない」
 あたしは珠城さんを睨んだ。それはほとんど八つ当たりだったが、彼は冷静に不条理なあたしの感情を受け止めた。
「ゆりこさん、話したくないことは話さなくてもいいのですよ。僕は何者でもないのですから。ただのこの店のマスターです」
 珠城さんは優しく言う。
 あたしはその優しさがたまらなくなって、次の瞬間には店を飛び出していた。それは珠城さんのせいじゃない。自分自身が恥ずかしくなっただけだった。


「ゆりこ、待って!」
 後ろから追いついてきた英里があたしの腕を掴んだ。
「待ってよ、話の途中で……」
「一体、何のつもりなのよ!」
 あたしは歩みを止めて、腕を振り払うと友人と向き合った。
 道の真ん中で立ち止まり、対峙するあたしたちに通行人の何人かがぶつかった。迷惑そうな視線を投げつけられても、あたしは動かない。それは英里も同じだ。彼女は特有の鋭いまなざしであたしに応戦してくる。
「あんたこそ、何のつもりよ」
 心に響く声で英里は言った。
「どのくらい逃げたら気が済むの? どういうつもりかこっちが聞きたいわね」
「逃げてなんかいないわよ」
「逃げてるわ。最初からあんたは逃げてる。向き合わなきゃいけない時にあんたは逃げているのよ」
 頭から決めつけられて、あたしはむっとした。どうしてそんな言われ方をされなくてはいけないのだ。
 あたしは英里を睨んだ。
「そういうあんたはどうなのよ。あたしが逃げているんだったら、あんただって逃げているじゃないの、あの珠城さんから」
 彼の名前を出した途端、英里の顔色が変わった。あたしは構わず、続ける。
「告白はしたの? 彼はあんたの気持ち、知っているの? 片思いの人魚姫でも演じようって?」
「……珠城さんは」
 口にするのも辛そうに、英里はその名を呼んだ。
「彼は、違うのよ」
「何が違うのよ?」
「住む世界」
 さらりと言われて、あたしは二の句が継げない。
 思いもよらない返事が返ってきて心から戸惑う。
 住む世界が違うって……実は彼はすごい資産家の御曹司であるとか、あのにこやかな顔からは想像もつかない、何か裏で怖い仕事でもしている人、だとか……?
 あたしが怒りを忘れてあれこれ考えていると、英里がそれに気づいてくすくす笑い出した。
「あのね、ハートヒーラーって知っている?」
「え? し、知らない。何、それ?」
「ヒーラーっていうのは治療する人とか、癒す人って意味なんだけど」
「お医者さん?」
「そうだね。だけど、珠城さんは心の治療師なの。彼は人の心の闇を見ることができる人なの。一部では有名なんだけどね」
「ハートヒーラー? 心の治療師?」
 あたしは聞きなれない言葉に顔をしかめた。セラピストのようなものだろうか?
「百聞は一見にしかず。そう思っていきなり会わせたんだけどね。彼は不思議で、ムズカシイ存在なのよ」
 英里は肩を竦めると、ゆっくりとした足取りで歩きだした。あたしもそれに従う。英里は、さっきとは打って変わって、物静かな口調で話し始めた。
「あたし、以前、彼に助けられたことがあったの。高校二年の夏ね。そう、帰国してすぐの頃。まだ、あんたと仲良くなる前のことよ」
 あたしはまじまじと英里の横顔を見た。
 そして、高校の頃の彼女を思う。
 帰国子女の彼女は最初、クラスの注目の的だった。その注目に値する美貌と知性を英里は持っていたから。だけど、彼女に対するあこがれの視線は、いつしか意味の違うものへと変わっていった。
 英里はいい子だ。が、欠点もある。それは素直すぎる、というところだ。彼女は思ったことを何でも口にし、自分のしたいことだけをした。クラスの女の子たちは『あの子には協調性がない。勝手だ』と仲間外れにした。
 男の子たちの中には彼女に惹かれ、告白する子もいたが手ひどい失恋を味合わされるばかりで、結果的に英里を敬遠した。
 変わり者のレッテルを貼られた英里はクラスでの孤立を深めていった。後に親しくなったあたしでさえ、当初は英里を気味悪く思ったものだった。
「人間の中に入れないあたしは、やっぱり人間じゃないんだって思っちゃったわけ」
「人魚姫って?」
「そうなりたかったのね。人魚姫ははかなく美しく清らかだわ。あたしの憧れ」
 英里はふふと小さく笑う。
「そんなことを本気で思うあたしは、やっぱりただの変わり者ね」
「英里はいい子だよ」
 あたしは心から言った。
 夢見がちな少女が数年ぶりに母国に帰ってみれば、人の中に入れず孤立してしまう。居場所がなくて、自分が何者であるのか不安になって迷う気持ちは判る。きっと、とてもとても寂しかったに違いない。
「ゆりこは優しいよね。……あたしはさ、ただ、自分の考えで行動し、自分の言葉に忠実に生きていきたいだけなのよ。あたしにとってはアタリマエのことを、それをここでするのは難しいみたいね。……あんたという友達ができて、あたしは救われたけど、でもその前に救ってくれたのが」
「珠城さん?」
「そう。だから、彼に会って欲しかったのよ」
「あの人は、あたしを救ってくれるの?」
「きっとね」
 英里は何かを吹っ切るようにひとつ息を吐くと明るく言った。
「ね、『乱反射』に戻らない?」
 あたしは頷いていた。