数日後の夜のことだ。床についていた嘉音は、妙な物音で目を醒ました。
 ざらざらとこすれるような音が聞こえたのだ。最初は砂利を踏む時の音を連想したが、それにしては長い。じゃりじゃりと何かが流れるような、寄せては引くような、そんな音だ。

(何の音かしら)

 身を起こしてあたりを確かめるが部屋に嘉音以外の人物は見当たらなかった。

(もしかして外から聞こえている?)

 庭を眺めるも音の出処は掴めない。

 そのうちに、じゃりじゃりざらざらと響いていた音は遠のいていく。移動しているのかもしれない。
 こうなれば気になってしまい、再び眠りにつくのは難しそうだった。宮女を呼んで確かめようかと嘉音が動いた時である。

「きゃああああ、誰か、誰かきて」

 白李宮に悲鳴が響き渡った。悲鳴をあげたのは女人の声であるから、おそらく宮女だろう。慈佳ではない。
 嘉音は慌てて部屋を出た。どうやら悲鳴は(くりや)の方からあがったらしい。聞きつけた他の宮女らが駆けていく。嘉音も厨へと向かう。
 厨では、既に駆けつけていたらしい慈佳が、座りこんで泣く宮女をなだめていた。嘉音がやってきたことに気づき、みなが揖礼する。

「薛昭容。夜に騒ぎ立ててしまい申し訳ありません」
「気にしないで。それよりも何かあったの?」

 嘉音が問う。泣いていた宮女は顔をあげ、外の方を指で示した。

「あ、あの……変な音が聞こえて、外を見たら……人の顔が……」
「人の顔?」
「幼子でした。男児の……きっと第四皇子の幽鬼に違いありません」

 厨に集まっていた宮女たちがざわついた。みな、幽鬼の話を知っているのだろう。恐怖で青ざめる者もいた。

「恐ろしくてたまりません……次は白李宮ですよ。ここは呪われているのです」
「大丈夫よ。落ち着きましょう」

 慈佳は泣き竦む宮女の背を撫で、優しくなだめていた。嘉音も身を屈め、宮女に問う。

「厨に他の者はいた? 他にもその幼子の顔を見た人はいる?」
「いえ……私だけでした」
「変な音とは、じゃりじゃりと流れるような音?」

 宮女が頷く。他にも慈佳や、集まった宮女らもひそひそと話していたことから、みなが異音を耳にしていたようだ。

(本当に幽鬼がでたというの?)

 にわかには信じがたい。しかし不思議な音を聞いているため、幽鬼を否定することもできなかった。
 外から人の声がする。話を聞き、駆けつけた衛士が見回っているらしい。彼らは外で何かを話している。そしてまもなく、別の宮女が息を切らして駆けてきた。

「薛昭容。大変でございます」

 外は、衛士が持つ手燭の明かりが灯されている。それがちらちらと、庭で揺れている。その明かりは庭にある池近くに集っていた。衛士らがそこに集まっているのだろう。

「池の魚がすべて死んでおります」

 宮女がそう伝えると、慈佳や他の者らが息を呑んだ。
 異音。人の顔。そして魚の死――呆然と立ち尽くす嘉音の耳に、宮女たちのざわめきが届く。

「ああ……今度は薛昭容が狙われる」
「第四皇子の幽鬼は薛昭容を襲いにきたのね」

 緑涼会、桃蓮宮と立て続けに起こっていたため、容易に想像がついたのだろう。怯えた宮女たちの様子が、より不安を掻き立てる。



 朝を迎えても白李宮は慌ただしかった。次々と起こった事を調べるために宦官や衛士が次々とやってくる。
 その物々しい雰囲気は瞬く間に知れ渡り、後宮にいる者は誰もが噂するようになっていた。
 第四皇子の幽鬼が次に狙うは白李宮――薛昭容、だと。

 銀鐘(午後)になって、嘉音は星辰苑に向かった。白李宮は陰鬱とした気が満ち、宮女も落ち着かない様子だったので、気分転換にと慈佳が提案したのである。

「……あら。見て、薛昭容よ」

 星辰苑の先客たちは、薛昭容が現れるなり眉をひそめた。

「幽鬼に狙われているのでしょう? 幽鬼をみた者がいるとか」
「大家の寵愛を得たから狙われているのでしょうね」

 彼女たちの話し声が聞こえてくる。中にはあえて嘉音に聞かせるべく大きな声で話す者もいた。幽鬼を恐れているだけではなく、寵妃の嘉音に嫉妬し、それが狙われたことを喜んでいるようでもあった。
 嘉音が来たことで、みなが去っていく。その中に呉才人と劉充儀の姿もあった。

「……薛昭容」

 呉才人と劉充儀はこちらに近づき、何を言いたげにしていた。だが呉才人付きの女官が慌てて声をかける。

「呉才人、参りましょう。見つかればどうなるか」
「……ええ」

 小さく息を吐き、諦念の面持ちで呉才人が背を向ける。
 こちらに向けていたまなざしに同情を感じたことから、彼女が嘉音を無視するのは本意ではないようだ。

「ごめんなさい。薛昭容」

 通り過ぎていく劉充儀が、小声で言った。呉才人と同じく、劉充儀も嘉音の孤立を快く思っていないのだろう。

(二人とも……ありがとう)

 嘉音は答えなかった。声をかければ二人の立ち位置が危うくなることも考えられるためだ。だが表には出せない二人の気持ちに触れ、心が温かくなる。

(諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから――そう母は言っていたけれど、私は諦めたくない)

 第四皇子についても、幽鬼がいるのだと諦めてはならない。嘉音は前を向いた。そして慈佳に告げる。

「兒楽宮に行きたいの」
「じ……兒楽宮に? どうしてまた」
「考えたいことがあるから」

 どうしても知りたいことがあった。渋々といった様子の慈佳を説得し、兒楽宮に向かう。

 兒楽宮は相変わらず荒んだ場所だった。陰の気が漂っている。慈佳は険しい顔をし、気乗りはしていないようだった。
 庭に立ち入り、兒楽宮を見上げる。隣に立つ慈佳に聞いた。

「彼はどんな名だったのかしら。聞いたことがある?」
「ええ。確か、(じょ)髙慧(こうけい)と」

 彼の名を胸中で唱える。死してなお彷徨う幼子が哀れに思えた。

「慈佳は、幽鬼を目撃したことがあるの?」
「私はございません。どれも噂を聞いただけですから」
「では誰が見たのかしら」
「さあ……白李宮では目撃した宮女がいますが、それ以外の目撃情報は誰が見たのか、私にもわかりません」

 そこで、引っかかった。

(目撃情報はたくさんあると凌貴妃は語っていたのに、見た者が少ない?)

 そして今回目撃した宮女だ。あの者は若く、第四皇子が死した頃に後宮勤めをしていたとは思いがたい。

「今回の宮女は人の顔を見たのでしょう。なぜ第四皇子とわかったのかしら」

 疑問を口にする。慈佳にぶつけたわけではなかったが、彼女は首を傾げていた。

「そう言われてみると……私も第四皇子がどのような顔をしているかわかりません。第四皇子の容姿について語られることは少ないので。生前の皇子に会ったことのある者は限られていますからね」

 こうなると幽鬼とやらが怪しくなる。宮女は本当に幽鬼を見たのか。生じた疑念を鎮める情報はなく、疑念の炎は続々と燃えるのみだ。

「第四皇子は……いつ、亡くなったの」
「確か七、八歳の頃だと聞いています。死因となった流行病に罹ってはならないからと隔離され、そのまま亡くなったのだとか」
「彼の死体を確かめた人は?」
「先帝や妃でさえ立ち会えなかったと聞いているので、当時の兒楽宮付きの者が弔ったのだと思いますが……」

 つまり、第四皇子の死を見ているのは限られたものだけ。後宮には幽鬼だと広まっているが、誰もその死を目撃せず、生前の第四皇子に会った者もわずかなのだ。

(その年齢の頃、私はどうだったかしら)

 嘉音は自分が七歳だった頃を思い返していた。そして、確証はないもの、ある推測が浮かんだ。

「……慈佳。白李宮に戻りましょう」

 声をかけると、慈佳は戸惑っていた。ここに来たばかりでどうして戻るのかと疑問に思っているのだろう。

「戻り次第、大家に文を出して」
「は、はい。その内容は?」
「今晩白李宮にお渡りを頂きたいとお願いしたいの」

 拱手する慈佳を横目に、嘉音は歩き出す。

(急ぎ白李宮に戻らないと。大家がくる前に、()()を確かめなければ)



 来訪はいつもより早く、陽が暮れてきた頃に輿がついた。暑い盛りの季で陽が顔を出す時間は長く、庭に差し込む夕日もいつもより朱色が濃く見える。
 輿がついてしばらくの後、天雷がやってきた。いつものように人払いをし、部屋に二人きりとなる。

「嘉音様。文を確認しましたが、何かありましたか?」

 開口一番に彼はそう聞いた。榻に腰掛けていた嘉音は顔をあげ、天雷を見上げる。

「突然文を送ってしまってごめんなさい」
「いえ、幽鬼騒ぎがあったと聞いて心配していたので、ちょうどよかったです」

 穏やかに微笑み、天雷が隣に腰掛ける。白李宮の幽鬼騒ぎは髙祥殿まで話が伝わっていたらしい。

「もっと動じているかと思いましたが、落ち着いていらっしゃいますね」
「大丈夫よ。私は、幽鬼など信じていないから。推測ではあるけれど、どれも人の手によるものだとわかったから」
「どういうことですか?」
「きっとね、幽鬼はいないのよ」

 驚きに目を見開く天雷に、嘉音が語る。

「幽鬼を見たと騒いでいるけれど、第四皇子の姿を知る者は少ない。だから本当に第四皇子都は限らない」
「ですが白李宮の者が目撃したと聞きましたよ」
「ええ。でも一人だけ。その子が見たと騙れば真実になる。さらに幽鬼の仕業と思わせるものを仕掛けておけば、信憑性が増す」

 これに気づいたのは、池の魚が死んでいたという話だ。緑涼会で黄金鯉が死に、それを凌貴妃が第四皇子によるものと叫んだ。その印象は強く残り、桃蓮宮や白李宮で同様の事が起きれば第四皇子を連想してしまう。

「天雷が来る前に池の水を確かめたの。公喩殿に聞いた通り、うっすらと紫色に変わっていた。緑涼会と同じように誰かが毒を投げ入れたのでしょう」
「毒……星辰苑にある紫毒葉ですか」

 嘉音は頷く。これは葛公喩から聞いていなければわからないことだった。
 兒楽宮から慌てて戻り、池の水を確かめれば、確かに紫色に変わっている。さらに葉のようなものが浮いているのも見えた。紫毒葉に間違いないだろう。
 となれば、この毒葉を投げ入れた者がいる――それは生者だ。池を確かめた時から、嘉音は幽鬼への疑いを捨てた。

「池は誰かが毒を入れたとしても、異音があったと聞きましたよ」
「ええ、私も聞いたわ。砂利を踏みならすような音で、引きずるように長い音。けれどこの異音も誰かが起こしたもの。厨を調べれば(ざる)が無くなっていた。そこに石や硬豆を入れて転がせば音の再現ができるでしょう」

 異音も魚の死も、人が起こしたもの。そうなれば幽鬼の仕業と思いがたく、人の顔を見たと叫ぶ宮女も疑わしくなる。

「つまり一連の事は、幽鬼が犯人ではないと?」
「ええ。幽鬼が犯人ではない。幽鬼はいないかもしれないわ。もしかしたら、第四皇子だって生きているのかもしれない」

 重い声音に天雷の顔が強ばった。ぴたりと動きを止め、嘉音を見つめている。嘉音がこれから続けるだろう言葉を恐れているのだ。

「私は、天雷のことをよく知っていると自負していたの。でもきっと、私が一番あなたのことを知らなかったのね。近くにいるようで何も知らなかった」
「嘉音様は何を話して――」
「私たちが出会った時、私は七歳で天雷は八歳だった。その後は一緒にいたけれど、出会う前のことは知らない」

 もしかしたら、と考えたのだ。

 嘉音と天雷が出会った時は、第四皇子が死んだと思われる年齢と一致している。姉と名乗る女性が連れてきたが、その姉と天雷は似ていない姉弟だったことを覚えている。そして身分の知れぬ奴婢を厭うだろう(せつ)大建(だいけん)が、天雷たちの住み込みを許した。

(それだけではない。天雷が行方不明になった後も)

 天雷がいなくなった後の大建はひどく狼狽えていた。ただの下男がいなくなったとは思えないほどの取り乱しだ。そして偶然やってきた葛公喩。
 確信はない。けれど結び繋がっている気がしたのだ。

「私は何があったとしても、あなたを嫌いにならない。私が好きなのはあなただけだから」
「……嘉音様」
「あなたが第四皇子の徐髙慧。そうでしょう、天雷」

 天雷は諦めたように息を吐く。静かに、それを認めた。

「伏せておこうと思っていましたが、嘉音様は鋭いですね――そうです。俺が徐髙慧です。大家つまりこの体である徐祥雲は、俺の異母兄にあたります」

 そうなればこの宮城に第四皇子の幽鬼はいないと判明する。そもそもの皇子が死んでいないのだから、幽鬼が存在するわけはない。

「天雷は、死んだことにして、薛家の屋敷にきたのね?」
「はい。幼い頃は宮城にいて、祥雲や公喩、それから凌貴妃とも顔を合わせていました。年齢的にも帝位に就くのは祥雲と考えていましたが、俺が存在していれば帝位を奪われるかもしれないと考えた者がいたようです。毒を盛られ生死の境を彷徨ったことがあり、それを案じた俺の母が、死の偽装を企てました」

 流行り病だと伝え隔離。死んだことにして、天雷を宮城から逃がしたのだろう。彼を連れてきた女性は姉ではなく、兒楽宮付きの女官や宮女かもしれない。

「薛将軍にもこの計画を伝えました。気乗りはしなかったようですが、俺を下男として迎え入れ、保護を約束してくださいました」

 薛家で唯一、彼が第四皇子であることを知っていたのが薛大建だ。だからこそ、天雷が失踪した時に彼が狼狽えたのだと納得する。

「では公喩殿が屋敷にきたのもそれね?」
「はい――彼も俺が死んだものと思っていたようですが、あるときに真実を突き止めたそうです。そうして屋敷に来てみれば俺が出て行った後だったと」

 そうなると気になるのが、生きながらえるため宮城を出た彼が、再び宮城に戻ったことだ。天雷は嘉音のために宦官になっている。つまり、嘉音がいなければ、彼はつらい記憶があるだろう宮城に戻ることもなかった。

「……宮城に戻ったのは、わたしのせいね」
「いえ。嘉音様が気に病むことではありません。遅かれ早かれ、見つかっていました。俺が出て行ってすぐに公喩が迎えにきていましたからね」

 不安げに表情を曇らせる嘉音を見やり、天雷が微笑んだ。優しく頭を撫でてなだめる。

「俺が戻ったことで祥雲は驚いていました。死を認めず探してはいたそうですが、まさか宦官になって戻ってくると思わなかったのでしょう。俺のことをよく可愛がってくれた兄だったので厚遇を頂きました。公喩も混ぜて、三人でよく話したものです」

 徐祥雲と天雷が兄弟である。そうなれば、いつぞや公喩に聞いた風来伝承『魂箱互換』の話も納得がいく。二人の魂と体が入れ替わるといった奇跡は二人が兄弟であったから、起きたのだ。

「だから嘉音様が推測した通り、第四皇子の幽鬼など存在しません」
「やっぱり、そうなのね。幽鬼はいないのだと思うと安心できる」
「ええ。ですが、嘉音様にもこのことを隠していてすみません」

 これに嘉音は頷いた。うつむいた天雷の顔を覗きこむ。

「本当よ。早く教えてくれればよかったのに」
「このような出自と知られたら、嘉音様に嫌われたり、遠ざけられると思っていたんです。俺としては嘉音様の近くにいたいだけなので」
「嫌うなんてありえないわ」

 そう言って、天雷の頬をつまむ。柔らかな頬をつまんで伸ばす。天雷は困ったような顔をしていた。

「何をなさっているんです」
「罰よ。天雷が、私のことを信じてくれなかったから」
「随分と優しい罰ですね」

 くすぐったそうにしながらも、天雷はされるがままであった。
 数度ほど頬に触れて柔らかさを楽しんだ後、嘉音は榻に座り直す。幽鬼がいないとわかったが、気になるものはまだ残っていた。

「凌貴妃はどうして、幽鬼の仕業だと言ったのかしら」
「……それは」
「この騒ぎを人が起こしたものなら、凌貴妃は何かを知っているはず。彼女がこのようなことをした理由を知りたいの」

 そしてこれを辿れば、天雷の体が見つかる気がしていた。
 捜索してもいまだに見つからないとなれば、隠れているのかもしれない。最後に立ち寄ったのが桃蓮宮だと証言は得ている。そこで何かが起きたはずだ。

「これからどうされます? 白李宮の警備を増やしましょうか」
「ううん。警備はいらないの」

 おそらく。嘉音が幽鬼の事実を知らないと考えて襲いかかろうとするだろう。いまならば何が起きても幽鬼の仕業だと主張できるためだ。
 そして宮女も凌貴妃の息がかかっているのだろう。凌貴妃の協力者かもしれない。池に落ちた日に珊瑚の耳飾りがなくなっていた。外に持ち出してないものが失せるとなれば宮にいる者と考えられる。その宮女が密かに奪い、凌貴妃に渡したのかもしれなかった。

「泳がせようと思うの」
「泳がせる、ですか」
「幽鬼の騒ぎはこれだけでは終わらない。数日中に私は襲われるでしょう。その時に――」

 うまくいけば、裏で操っているだろう凌貴妃にも会うことができる。

(凌貴妃が、なぜこのようなことを仕組んだのか知りたい)

 捕らえるのではなく、理由が知りたいのだ。諦めるなどせず、彼女の本意に触れたい。

 そして、数日後の嵐の日。事件が起きた。