緑涼会から数日後に事件が起きた。
その日は宮城が慌ただしかった。白李宮にいる薛嘉音にさえ、外を行き交う宦官と衛士の騒ぎが聞こえてくるほど。
「何かあったの?」
嘉音が聞いた。これに答えたのは白李宮付きの女官である慈佳だった。彼女は陽がのぼって早い頃に髙祥殿へ遣いに出ていた。この騒ぎのことも知っているらしい。
「桃蓮宮にある池の鯉がすべて死んでいたそうです。突然、お腹からぷかりと浮いてきたのだとか」
「……緑涼会でもそのようなことがあったわ」
緑凉会で、大家が飼っていた黄金鯉が突然死んでいる。そのことを慈佳も覚えていたらしく、彼女はすぐさま「ええ」と頷いた。
「昨日、桃蓮宮で不審な物音がしていたそうです。ざらざらと異質な音がし、朝になれば鯉がすべて死んでいた――これらのことから、第四皇子の幽鬼がでたと騒ぎになっているのですよ」
緑涼会でも第四皇子の幽鬼によるものだと凌貴妃が言っていた。今回もそのように騒いでいるのだろうと想像がつく。
「……幽鬼が、本当に妃嬪を襲うのかしら」
嘉音はどうも、この話を受け入れがたく思っていた。
幼くして亡くなった第四皇子によるものなら、なぜ妃嬪を狙うのか。現在帝位についている大家こと徐祥雲は第四皇子の兄にあたる。兄の妃らまで危害を与えずともよいだろう。恨むのならば大家だけを狙えばよい。
この凌貴妃については気になるところがある。
(緑涼会で、水に触れてはだめと叫んでいた。幽鬼の祟りだと言いながら、どうして水に触れてはいけないと知っていたのだろう)
だが直接聞いたところで凌貴妃は答えてくれないのだろう。嘉音は特に嫌われているらしい。
緑涼会でもそうであったように、妃嬪は薛昭容を遠ざけるようになった。それもおそらく、凌貴妃が根回しをしたと考える。無理に近づけば、相手の立場にも影響を与えるだろう。妃嬪らに問う選択肢も消えていた。
「嘉音様は幽鬼をどう思われますか?」
慈佳が聞いた。嘉音はしばらく悩み、答えを出す。
「……もちろん恐ろしいけれど、本当に幽鬼がいるのなら哀れだと思う。死してもなお恨まずにいられないなんて可哀想だわ」
「嘉音様はお優しいですね」
ふっと、慈佳が微笑んだ。
今日はこの騒がしさであるから、長々と外に出ることはできないだろう。かといって宮にいるのも飽いてしまう。
そこで思い出したのは兒楽宮だ。幽鬼として騒がれている第四皇子が最期の時を送った宮らしい。
「兒楽宮に行ったことはなかったわね」
「あの宮はよくない話があり、近づく者は少ないのです」
慈佳が答えた。表情は暗い。何度も白李宮を出たが、慈佳が兒楽宮に案内したことは一度もなかった。
「後宮は外れにございます。過去に罪を犯した妃嬪を幽閉していたこともあり、よくない気が流れているといわれていますから……」
「第四皇子は罪を犯したの?」
「いえ。第四皇子は何もしておりませんよ。第四皇子は先帝に可愛がられていましたので宝座に着くのではと一時噂されていました。ですが、彼は体が弱く、病がちでした。兒楽宮にうつったのは彼が患った流行病のため隔離されたのです」
なるほど、と嘉音が相づちをうつ。しかし慈佳はこういった話に詳しい。嘉音が疎いこともあるが、それにしては見てきたかのようにこの物事を話す。
「慈佳は詳しいのね」
「私も人づてに聞いただけですよ。この頃の話は知る者が多いのです。一部の妃嬪の方は、当時の皇子たちと会っていますよ」
「そうなの?」
「ええ。例えば凌貴妃もその一人ですね。凌家の当主が宮城に招かれたので、幼い凌貴妃を連れてやってきたそうです。年頃も近いため親しくなったのでしょう」
帝に招かれ宮城に向かう者といえば限られる。貴顕な家柄でなければ厳しいだろう。凌家当主は、先帝の姉にあたる公主を嫁にもらっているので、後宮入りに相応しい家柄と言える。
「凌貴妃は幼少から美しいと評判でしたからね。そこで大家が凌貴妃を見初めたそうですよ」
「大家と凌貴妃は幼馴染なのね」
「ええ。後に寵愛を受けるのも納得のこと。大家は帝位につけば必ず凌貴妃のために宮を建てるとまで誓ったそうですよ」
それが桃蓮宮なのだろう。大家の深い愛が示されている。
「それで、兒楽宮はどうされます? 私としてはあまり勧めたくないのですが……」
「行ってみたいの。遠くから見るだけでもいいわ」
嘉音が言うと、慈佳は困ったように息をついた。しかし断れないと考えたのか、拱手をし「かしこまりました」と頭を垂れた。
どうやら兒楽宮は宮女も近づきたくないらしく、供をする宮女はいつもより少ない。白李宮女官である慈佳も気乗りはしていないようだ。いつもより表情が硬い。
後宮の奥。北側に位置し日当たりも悪いその場所は、手入れが行き届いていないのか庭も雑草が生い茂っている。他の宮に比べてこじんまりとした薄汚れた宮が兒楽宮だった。
(みなのことも考えて、少し遠くから見るだけにしよう)
ここで第四皇子がどのような死を迎えたのか。幽鬼騒ぎが増えているいま、彼の最期の場所を見ておきたかった。
そうして近づいた時である。慈佳がぴたりと足を止め、嘉音に告げた。
「どなたかいますね」
「あれは、凌貴妃? どうしてここにいるのかしら」
そこには供をわずかに連れた凌貴妃がいた。雰囲気がいつもと異なり、声をかける気になれない。かといってここに残っていれば、凌貴妃に見つかってしまうだろう。
嘉音も足を止め、凌貴妃の様子を見守る。凌貴妃は、兒楽宮の庭に屈んで何かを見つめていた。
(大きな百合の花が持ってきているけれど、ここに咲いているものではない)
凌貴妃は宮女から百合の花を受け取ると、それを庭に置いた。深く瞳を閉じ、何かを呟いている。表情から察するに憎しみや恨みはない。伏せられた瞼は悲しげな色を秘めている。
兒楽宮で花を供える――その行動から思いついたのは第四皇子のことだった。
(凌貴妃が幼い頃の大家と会っているのなら、第四皇子のことだって知っているかもしれない。この花も第四皇子に供えているのかも)
思えば、第四皇子の幽鬼と言い出したのも凌貴妃である。噂として広まっていると聞いたが、噂は辿れば必ず出所がある。
それに。幽鬼の仕業といいながら、池の水に触れるなと叫んだのも彼女だ。
(……何かある。きっと)
凌貴妃の行動は謎にみちている。だがひとつだけ、嘉音にもわかることがあった。
(大家に抱く想いだけは偽りがない……そう思う)
凌貴妃は瞑想を終え、ゆるりと立ち上がった。宮女らに伝え兒楽宮を出て行く。運よく、彼女らは嘉音がいる場所とは別の方へ歩いて行ったので、見つかることはなかった。
凌貴妃が去ったところで嘉音は兒楽宮に近寄る。慈佳には伝え、宮女らは少し離れたところで待ってもらうことにした。嘉音も、兒楽宮の庭にしか立ち寄る気がない。その場所なら離れていても嘉音の姿が確認できるはずだと考えた。
まずは凌貴妃が手向けた百合の花を見る。その近くには墓碑もなく、好き勝手に伸びた雑草があるだけだ。
さらにあたりを見渡すが、目を引くようなものはない。あまり手入れのされていない印象しか抱かなかった。
「第四皇子は、ここにいたのね」
宮を見上げて呟く。幼くして亡くなった第四皇子は何を考えていたのだろう。
「……へえ。今日はお客さんが多い」
男の声がした。誰もいないと思いこんでいた嘉音は驚き、振り返った。
そこにいたのは葛公喩だった。彼はへらりと笑みを浮かべている。
「公喩殿もここに?」
「うん。僕は少し頼まれ事をね。大きな用事というわけでもない。花の回収をするだけだ」
そういって公喩は、凌貴妃が手向けた百合の花を拾った。それは第四皇子に捧げたものだと思いこんでいたので、それを彼が取ったことに驚く。
「いいのですか? それは凌貴妃が第四皇子に贈った花なのでは」
「そうだろうね。だけど、僕が回収するように頼まれているから」
凌貴妃が花を供えた理由については推測だったが、公喩の口ぶりからすると当たっているらしい。凌貴妃の目的を知っても、公喩は花を元に戻そうとしない。
(公喩殿はいつから華鏡国に来ていたのだろう)
彼が幼い頃から来ていたのならば、第四皇子とも会ったことがあるのだろうか。拾い上げた花を見つめる瞳に感情はこもっていない。嘉音はそれを公喩にしては珍しい表情だと感じた。
そうして眺めていることに公喩も気づいたのだろう。彼は嘉音の方へ視線を向けた。
「いつぞやはすまなかったね。君の手を強く掴んでしまった」
「気にしないでください。それよりも助けて頂いてありがとうございました」
「無事で何よりだよ。君があの水に触れていたら、その指が爛れていたかもしれないからね」
「あの水に……何かあるのでしょうか」
彼の物言いが引っかかり、嘉音は眉根を寄せた。
凌貴妃もそうだった。彼女も池の水に何かがあると知っているような口ぶりをしていた。いまの公喩もそうである。
「あるとも。そうでなければ、黄金鯉は死ななかった――君はそれが何かわかる?」
しばし嘉音は逡巡した。池の魚が急に死ぬ。誰も魚には触れていないのに、そのようなことが可能だろうか。嘉音が知る限り、魚に触れず魚を殺めるのは難しい。だが水が汚染されていたらどうだろう。答えが浮かぶ。おそるおそる、それを声に出していた。
「……例えば、毒、でしょうか」
だが毒だとするのならば、人の手によるもの。第四皇子の幽鬼の仕業とは考えられなくなる。それに気づき、嘉音の声が震えていた。
公喩はにたりと笑みを浮かべた。
「君は池の近くにいただろう。誰か怪しい動きをしていなかったかな」
「水音は聞こえました。鯉が跳ねたような、でも跳ねていなかった。あの時に誰かが毒を投げ入れたと?」
「そう考えるのが妥当だろうね。だから僕もあれは毒だと思う」
「公喩殿はその場で気づいたのでしょうか?」
「もちろん。池の水がわずかに変色していたからね。独特の紫色。水によく溶け、即効性を持つ毒――育てたことがあるからわかる。あれは紫毒葉から抽出した毒だ」
その名を聞いたことがある。風禮国から持ち運ばれた植物だと公喩が語っていた。それは星辰苑の隅で育てられているということも。
嘉音は毒に詳しくないため、あの池に毒が放り込まれていたなど判断できない。だが公喩の語る言は間違いないのだろうとの考えに至っていた。
(水が毒で汚染されていたのなら、凌貴妃が止めた理由もわかる)
公喩だけでなく凌貴妃も水が汚染されていると気づいていたのなら。緑涼会で嘉音がよろけた際、真っ先に声をあげたのは凌貴妃だ。彼女は『水に触れてはいけない』とはっきり叫んでいる。
「不思議だよねえ。凌貴妃はあれを幽鬼の仕業と主張していたのに」
「黄金鯉の死因が毒によるものならば、幽鬼の仕業ではない……」
「彼女は毒が原因だと知りながら幽鬼だと騙ったのかもしれないね――ここまで聞いて、君は凌貴妃をどう思う? さすがの君でも彼女を恨むだろう?」
嘉音はうつむいた。
毒であることを伏せ、死者である第四皇子が犯人だと叫んだのだ。それを許せるかといえば悩ましい。
(どうして幽鬼の仕業だと叫んだのかしら。それに私を嫌っているのなら、水に触れることを止めたりはしないはず)
凌貴妃が取った行動の理由がわからない。本当に嘉音を疎んじているのなら毒で汚染された水に突き落とせばよい話だ。だが実際は公喩より早く、嘉音の身を案じている。
「……恨むことはありません」
嘉音が告げた。
「何か理由があるのでしょう。その理由を知りたいです。それがわかれば許せるのかもしれないし、許せないのかもしれない。わからないまま判断したくはありません」
これに公喩は目を見開いていた。信じられないと対面したかのように動きが止まっている。しばしの間を置いて彼が動き出した時、その声音には苛立ちが混ざっていた。
「君はどうして、周りに優しくなれる。ここは宮城だ。優しさを振りまいたところで返ってくるとは限らない。現に君は、妃嬪らから声をかけられなかっただろう」
「私が孤立しているのは確かです。でも彼女らにも理由がある。この後宮で生きるために従わなければならなかったのかもしれません」
「……君はいつか、殺されるぞ」
公喩は苛立っている。固く握りしめた拳は怒りに震えている。だがその怒りは嘉音というよりも宮城に向けられている気がした。彼が抱く苛立ちに臆さず、嘉音が問う。
「公喩殿は、宮城がお嫌いなのですね」
「そうだよ」
あっさりと、公喩が認めた。
「華鏡国でも風禮国でも、宮城や後宮という場が嫌いだ。いつだって閉塞された園に集まった者たちは醜い争いをする。帝位の継承や家柄などとくだらないものを競い合い、人の命が危ぶまれたって厭わない。現に君だって嫌がらせを受けただろう。星辰苑の池に落ちた時だって僕がいなければ死んでいたかもしれない」
「それは……その通りです」
「本来ならば幸福な定めを与えられていただろう人が、くだらない矜持に左右され命を落とす。ここはそんな場所だよ」
じり、と公喩が一歩詰め寄る。飄々とした普段の態度からは信じられないほど、彼のまなざしは冷えていた。
「君のような人はここに向いていない。いつか殺される」
「……公喩殿は、そのような場面を見てきたのでしょうか」
「そうだよ。何度も、ね」
手元の百合に視線を落とす。嘉音にとってはただの百合にしか見えないが、公喩にはもっと違う、悲しいものが見えていたのかもしれない。細められた瞳は苛立ちと悲しみに揺れていた。
「僕は何度も殺されかけた。継承権を放棄して華鏡国に来たことで命を繋いだようなものだ。けれど華鏡国だって同じ。くだらないもので競い合い、子を殺そうとする者がいる」
ぐしゃり、と百合が潰れた。公喩が握りつぶしたのだ。それほど彼の怒りが込められている。
「優しいんだ。誰にでも優しくあろうとする子だった――なのに不幸に落とされた。生まれた順番や生んだ妃嬪に左右され、彼の苦労は報われることがない」
おそらく第四皇子のことだろう。だから彼は、花を回収しにきたのかもしれない。彼の中で第四皇子はまだ死んでいないのかもしれなかった。
「君は何も知らないだけだよ。その優しさを捨てなければ、最も身近な人に裏切られる」
「公喩殿は裏切りをわかっているような言い方をするのですね」
「そうとも。人はみな、隠し事がある。君が信じている人だって、君に明かせない秘密を持っているかもしれない。だから人に優しくしたところで無駄だ」
公喩が言い放つ。握りつぶされた百合の花がはらはらと地に落ちていく。荒れた庭に白の花びらは目立つ。風が吹けば花びらは庭中に広がるのかもしれない。
何をされても許すのではなく、瞳を開き、その理由を探る。許せる可能性を探らずに諦めるなどしたくない――それが嘉音の考える優しさだ。
「私は、それでも優しくありたいです」
「もし、君が信じている天雷に秘密があったとしたら、君は受け入れられる?」
「……天雷に?」
嘉音の動きがぴたりと止まった。天雷に秘密があるなど想像もしていなかったのだ。意表を突かれ、嘉音の思考が遅れる。その隙に公喩が言った。
「君はその優しさを持って、人の真意を見抜こうとする。追及とは優しさだ。たとえひどいことをされてもその理由を突き止めようとするのだろう――けれどそれを望んでいない者がいたとしたら? 君の優しさが、隠しておきたいことを曝いてしまうとしたら」
すぐには答えられなかった。天雷の顔が頭に浮かぶ。
(天雷にもそういう隠し事があるのかしら)
これまで天雷がそのような素振りを見せたことはなかった。嘉音はまったく気づかずにいたのだ。おそらく天雷も、それを知られたくないと考えている。
宮城にいるうちにそれに触れる日がくるのかもしれない。天雷の隠し事を受け入れられるのか――瞳を閉じ、考える。答えは出ていた。
「私は天雷を信じています。どんな隠し事があったとしても、私の好きな天雷に変わりはありません。それを彼が明かしても明かさなくても、私は受け入れます」
「……頑固だね。降参だよ」
公喩はため息をついた。表情から険が抜け、いつもの飄々としたものに戻る。
「僕は止めないよ、好きにすればいい。せいぜい殺されないように」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ僕は戻るよ。花の回収を頼まれていたのに、だめにしてしまったからね。謝らないと」
そう言って、公喩が歩き出す。嘉音の隣を通り過ぎていくとき、彼のひとり言がぽつりと落ちた。
「君みたいな人がいたら、風禮国も変わるのかもしれない……」
悔恨を混ぜた声音が耳につく。しかし問うことはできなかった。振り返って確かめた公喩の背が寂しげだったからだ。
去っていけば風が吹く。兒楽宮の庭を風が吹き抜け、一箇所に溜まっていた百合の花びらが風に舞う。荒れた庭はあちこちに散らばり、まるで白の花が咲いたかのように。
瞳を開いてそれを見やる。百合の花びらが点在するその庭を美しく感じた。
***
その日は宮城が慌ただしかった。白李宮にいる薛嘉音にさえ、外を行き交う宦官と衛士の騒ぎが聞こえてくるほど。
「何かあったの?」
嘉音が聞いた。これに答えたのは白李宮付きの女官である慈佳だった。彼女は陽がのぼって早い頃に髙祥殿へ遣いに出ていた。この騒ぎのことも知っているらしい。
「桃蓮宮にある池の鯉がすべて死んでいたそうです。突然、お腹からぷかりと浮いてきたのだとか」
「……緑涼会でもそのようなことがあったわ」
緑凉会で、大家が飼っていた黄金鯉が突然死んでいる。そのことを慈佳も覚えていたらしく、彼女はすぐさま「ええ」と頷いた。
「昨日、桃蓮宮で不審な物音がしていたそうです。ざらざらと異質な音がし、朝になれば鯉がすべて死んでいた――これらのことから、第四皇子の幽鬼がでたと騒ぎになっているのですよ」
緑涼会でも第四皇子の幽鬼によるものだと凌貴妃が言っていた。今回もそのように騒いでいるのだろうと想像がつく。
「……幽鬼が、本当に妃嬪を襲うのかしら」
嘉音はどうも、この話を受け入れがたく思っていた。
幼くして亡くなった第四皇子によるものなら、なぜ妃嬪を狙うのか。現在帝位についている大家こと徐祥雲は第四皇子の兄にあたる。兄の妃らまで危害を与えずともよいだろう。恨むのならば大家だけを狙えばよい。
この凌貴妃については気になるところがある。
(緑涼会で、水に触れてはだめと叫んでいた。幽鬼の祟りだと言いながら、どうして水に触れてはいけないと知っていたのだろう)
だが直接聞いたところで凌貴妃は答えてくれないのだろう。嘉音は特に嫌われているらしい。
緑涼会でもそうであったように、妃嬪は薛昭容を遠ざけるようになった。それもおそらく、凌貴妃が根回しをしたと考える。無理に近づけば、相手の立場にも影響を与えるだろう。妃嬪らに問う選択肢も消えていた。
「嘉音様は幽鬼をどう思われますか?」
慈佳が聞いた。嘉音はしばらく悩み、答えを出す。
「……もちろん恐ろしいけれど、本当に幽鬼がいるのなら哀れだと思う。死してもなお恨まずにいられないなんて可哀想だわ」
「嘉音様はお優しいですね」
ふっと、慈佳が微笑んだ。
今日はこの騒がしさであるから、長々と外に出ることはできないだろう。かといって宮にいるのも飽いてしまう。
そこで思い出したのは兒楽宮だ。幽鬼として騒がれている第四皇子が最期の時を送った宮らしい。
「兒楽宮に行ったことはなかったわね」
「あの宮はよくない話があり、近づく者は少ないのです」
慈佳が答えた。表情は暗い。何度も白李宮を出たが、慈佳が兒楽宮に案内したことは一度もなかった。
「後宮は外れにございます。過去に罪を犯した妃嬪を幽閉していたこともあり、よくない気が流れているといわれていますから……」
「第四皇子は罪を犯したの?」
「いえ。第四皇子は何もしておりませんよ。第四皇子は先帝に可愛がられていましたので宝座に着くのではと一時噂されていました。ですが、彼は体が弱く、病がちでした。兒楽宮にうつったのは彼が患った流行病のため隔離されたのです」
なるほど、と嘉音が相づちをうつ。しかし慈佳はこういった話に詳しい。嘉音が疎いこともあるが、それにしては見てきたかのようにこの物事を話す。
「慈佳は詳しいのね」
「私も人づてに聞いただけですよ。この頃の話は知る者が多いのです。一部の妃嬪の方は、当時の皇子たちと会っていますよ」
「そうなの?」
「ええ。例えば凌貴妃もその一人ですね。凌家の当主が宮城に招かれたので、幼い凌貴妃を連れてやってきたそうです。年頃も近いため親しくなったのでしょう」
帝に招かれ宮城に向かう者といえば限られる。貴顕な家柄でなければ厳しいだろう。凌家当主は、先帝の姉にあたる公主を嫁にもらっているので、後宮入りに相応しい家柄と言える。
「凌貴妃は幼少から美しいと評判でしたからね。そこで大家が凌貴妃を見初めたそうですよ」
「大家と凌貴妃は幼馴染なのね」
「ええ。後に寵愛を受けるのも納得のこと。大家は帝位につけば必ず凌貴妃のために宮を建てるとまで誓ったそうですよ」
それが桃蓮宮なのだろう。大家の深い愛が示されている。
「それで、兒楽宮はどうされます? 私としてはあまり勧めたくないのですが……」
「行ってみたいの。遠くから見るだけでもいいわ」
嘉音が言うと、慈佳は困ったように息をついた。しかし断れないと考えたのか、拱手をし「かしこまりました」と頭を垂れた。
どうやら兒楽宮は宮女も近づきたくないらしく、供をする宮女はいつもより少ない。白李宮女官である慈佳も気乗りはしていないようだ。いつもより表情が硬い。
後宮の奥。北側に位置し日当たりも悪いその場所は、手入れが行き届いていないのか庭も雑草が生い茂っている。他の宮に比べてこじんまりとした薄汚れた宮が兒楽宮だった。
(みなのことも考えて、少し遠くから見るだけにしよう)
ここで第四皇子がどのような死を迎えたのか。幽鬼騒ぎが増えているいま、彼の最期の場所を見ておきたかった。
そうして近づいた時である。慈佳がぴたりと足を止め、嘉音に告げた。
「どなたかいますね」
「あれは、凌貴妃? どうしてここにいるのかしら」
そこには供をわずかに連れた凌貴妃がいた。雰囲気がいつもと異なり、声をかける気になれない。かといってここに残っていれば、凌貴妃に見つかってしまうだろう。
嘉音も足を止め、凌貴妃の様子を見守る。凌貴妃は、兒楽宮の庭に屈んで何かを見つめていた。
(大きな百合の花が持ってきているけれど、ここに咲いているものではない)
凌貴妃は宮女から百合の花を受け取ると、それを庭に置いた。深く瞳を閉じ、何かを呟いている。表情から察するに憎しみや恨みはない。伏せられた瞼は悲しげな色を秘めている。
兒楽宮で花を供える――その行動から思いついたのは第四皇子のことだった。
(凌貴妃が幼い頃の大家と会っているのなら、第四皇子のことだって知っているかもしれない。この花も第四皇子に供えているのかも)
思えば、第四皇子の幽鬼と言い出したのも凌貴妃である。噂として広まっていると聞いたが、噂は辿れば必ず出所がある。
それに。幽鬼の仕業といいながら、池の水に触れるなと叫んだのも彼女だ。
(……何かある。きっと)
凌貴妃の行動は謎にみちている。だがひとつだけ、嘉音にもわかることがあった。
(大家に抱く想いだけは偽りがない……そう思う)
凌貴妃は瞑想を終え、ゆるりと立ち上がった。宮女らに伝え兒楽宮を出て行く。運よく、彼女らは嘉音がいる場所とは別の方へ歩いて行ったので、見つかることはなかった。
凌貴妃が去ったところで嘉音は兒楽宮に近寄る。慈佳には伝え、宮女らは少し離れたところで待ってもらうことにした。嘉音も、兒楽宮の庭にしか立ち寄る気がない。その場所なら離れていても嘉音の姿が確認できるはずだと考えた。
まずは凌貴妃が手向けた百合の花を見る。その近くには墓碑もなく、好き勝手に伸びた雑草があるだけだ。
さらにあたりを見渡すが、目を引くようなものはない。あまり手入れのされていない印象しか抱かなかった。
「第四皇子は、ここにいたのね」
宮を見上げて呟く。幼くして亡くなった第四皇子は何を考えていたのだろう。
「……へえ。今日はお客さんが多い」
男の声がした。誰もいないと思いこんでいた嘉音は驚き、振り返った。
そこにいたのは葛公喩だった。彼はへらりと笑みを浮かべている。
「公喩殿もここに?」
「うん。僕は少し頼まれ事をね。大きな用事というわけでもない。花の回収をするだけだ」
そういって公喩は、凌貴妃が手向けた百合の花を拾った。それは第四皇子に捧げたものだと思いこんでいたので、それを彼が取ったことに驚く。
「いいのですか? それは凌貴妃が第四皇子に贈った花なのでは」
「そうだろうね。だけど、僕が回収するように頼まれているから」
凌貴妃が花を供えた理由については推測だったが、公喩の口ぶりからすると当たっているらしい。凌貴妃の目的を知っても、公喩は花を元に戻そうとしない。
(公喩殿はいつから華鏡国に来ていたのだろう)
彼が幼い頃から来ていたのならば、第四皇子とも会ったことがあるのだろうか。拾い上げた花を見つめる瞳に感情はこもっていない。嘉音はそれを公喩にしては珍しい表情だと感じた。
そうして眺めていることに公喩も気づいたのだろう。彼は嘉音の方へ視線を向けた。
「いつぞやはすまなかったね。君の手を強く掴んでしまった」
「気にしないでください。それよりも助けて頂いてありがとうございました」
「無事で何よりだよ。君があの水に触れていたら、その指が爛れていたかもしれないからね」
「あの水に……何かあるのでしょうか」
彼の物言いが引っかかり、嘉音は眉根を寄せた。
凌貴妃もそうだった。彼女も池の水に何かがあると知っているような口ぶりをしていた。いまの公喩もそうである。
「あるとも。そうでなければ、黄金鯉は死ななかった――君はそれが何かわかる?」
しばし嘉音は逡巡した。池の魚が急に死ぬ。誰も魚には触れていないのに、そのようなことが可能だろうか。嘉音が知る限り、魚に触れず魚を殺めるのは難しい。だが水が汚染されていたらどうだろう。答えが浮かぶ。おそるおそる、それを声に出していた。
「……例えば、毒、でしょうか」
だが毒だとするのならば、人の手によるもの。第四皇子の幽鬼の仕業とは考えられなくなる。それに気づき、嘉音の声が震えていた。
公喩はにたりと笑みを浮かべた。
「君は池の近くにいただろう。誰か怪しい動きをしていなかったかな」
「水音は聞こえました。鯉が跳ねたような、でも跳ねていなかった。あの時に誰かが毒を投げ入れたと?」
「そう考えるのが妥当だろうね。だから僕もあれは毒だと思う」
「公喩殿はその場で気づいたのでしょうか?」
「もちろん。池の水がわずかに変色していたからね。独特の紫色。水によく溶け、即効性を持つ毒――育てたことがあるからわかる。あれは紫毒葉から抽出した毒だ」
その名を聞いたことがある。風禮国から持ち運ばれた植物だと公喩が語っていた。それは星辰苑の隅で育てられているということも。
嘉音は毒に詳しくないため、あの池に毒が放り込まれていたなど判断できない。だが公喩の語る言は間違いないのだろうとの考えに至っていた。
(水が毒で汚染されていたのなら、凌貴妃が止めた理由もわかる)
公喩だけでなく凌貴妃も水が汚染されていると気づいていたのなら。緑涼会で嘉音がよろけた際、真っ先に声をあげたのは凌貴妃だ。彼女は『水に触れてはいけない』とはっきり叫んでいる。
「不思議だよねえ。凌貴妃はあれを幽鬼の仕業と主張していたのに」
「黄金鯉の死因が毒によるものならば、幽鬼の仕業ではない……」
「彼女は毒が原因だと知りながら幽鬼だと騙ったのかもしれないね――ここまで聞いて、君は凌貴妃をどう思う? さすがの君でも彼女を恨むだろう?」
嘉音はうつむいた。
毒であることを伏せ、死者である第四皇子が犯人だと叫んだのだ。それを許せるかといえば悩ましい。
(どうして幽鬼の仕業だと叫んだのかしら。それに私を嫌っているのなら、水に触れることを止めたりはしないはず)
凌貴妃が取った行動の理由がわからない。本当に嘉音を疎んじているのなら毒で汚染された水に突き落とせばよい話だ。だが実際は公喩より早く、嘉音の身を案じている。
「……恨むことはありません」
嘉音が告げた。
「何か理由があるのでしょう。その理由を知りたいです。それがわかれば許せるのかもしれないし、許せないのかもしれない。わからないまま判断したくはありません」
これに公喩は目を見開いていた。信じられないと対面したかのように動きが止まっている。しばしの間を置いて彼が動き出した時、その声音には苛立ちが混ざっていた。
「君はどうして、周りに優しくなれる。ここは宮城だ。優しさを振りまいたところで返ってくるとは限らない。現に君は、妃嬪らから声をかけられなかっただろう」
「私が孤立しているのは確かです。でも彼女らにも理由がある。この後宮で生きるために従わなければならなかったのかもしれません」
「……君はいつか、殺されるぞ」
公喩は苛立っている。固く握りしめた拳は怒りに震えている。だがその怒りは嘉音というよりも宮城に向けられている気がした。彼が抱く苛立ちに臆さず、嘉音が問う。
「公喩殿は、宮城がお嫌いなのですね」
「そうだよ」
あっさりと、公喩が認めた。
「華鏡国でも風禮国でも、宮城や後宮という場が嫌いだ。いつだって閉塞された園に集まった者たちは醜い争いをする。帝位の継承や家柄などとくだらないものを競い合い、人の命が危ぶまれたって厭わない。現に君だって嫌がらせを受けただろう。星辰苑の池に落ちた時だって僕がいなければ死んでいたかもしれない」
「それは……その通りです」
「本来ならば幸福な定めを与えられていただろう人が、くだらない矜持に左右され命を落とす。ここはそんな場所だよ」
じり、と公喩が一歩詰め寄る。飄々とした普段の態度からは信じられないほど、彼のまなざしは冷えていた。
「君のような人はここに向いていない。いつか殺される」
「……公喩殿は、そのような場面を見てきたのでしょうか」
「そうだよ。何度も、ね」
手元の百合に視線を落とす。嘉音にとってはただの百合にしか見えないが、公喩にはもっと違う、悲しいものが見えていたのかもしれない。細められた瞳は苛立ちと悲しみに揺れていた。
「僕は何度も殺されかけた。継承権を放棄して華鏡国に来たことで命を繋いだようなものだ。けれど華鏡国だって同じ。くだらないもので競い合い、子を殺そうとする者がいる」
ぐしゃり、と百合が潰れた。公喩が握りつぶしたのだ。それほど彼の怒りが込められている。
「優しいんだ。誰にでも優しくあろうとする子だった――なのに不幸に落とされた。生まれた順番や生んだ妃嬪に左右され、彼の苦労は報われることがない」
おそらく第四皇子のことだろう。だから彼は、花を回収しにきたのかもしれない。彼の中で第四皇子はまだ死んでいないのかもしれなかった。
「君は何も知らないだけだよ。その優しさを捨てなければ、最も身近な人に裏切られる」
「公喩殿は裏切りをわかっているような言い方をするのですね」
「そうとも。人はみな、隠し事がある。君が信じている人だって、君に明かせない秘密を持っているかもしれない。だから人に優しくしたところで無駄だ」
公喩が言い放つ。握りつぶされた百合の花がはらはらと地に落ちていく。荒れた庭に白の花びらは目立つ。風が吹けば花びらは庭中に広がるのかもしれない。
何をされても許すのではなく、瞳を開き、その理由を探る。許せる可能性を探らずに諦めるなどしたくない――それが嘉音の考える優しさだ。
「私は、それでも優しくありたいです」
「もし、君が信じている天雷に秘密があったとしたら、君は受け入れられる?」
「……天雷に?」
嘉音の動きがぴたりと止まった。天雷に秘密があるなど想像もしていなかったのだ。意表を突かれ、嘉音の思考が遅れる。その隙に公喩が言った。
「君はその優しさを持って、人の真意を見抜こうとする。追及とは優しさだ。たとえひどいことをされてもその理由を突き止めようとするのだろう――けれどそれを望んでいない者がいたとしたら? 君の優しさが、隠しておきたいことを曝いてしまうとしたら」
すぐには答えられなかった。天雷の顔が頭に浮かぶ。
(天雷にもそういう隠し事があるのかしら)
これまで天雷がそのような素振りを見せたことはなかった。嘉音はまったく気づかずにいたのだ。おそらく天雷も、それを知られたくないと考えている。
宮城にいるうちにそれに触れる日がくるのかもしれない。天雷の隠し事を受け入れられるのか――瞳を閉じ、考える。答えは出ていた。
「私は天雷を信じています。どんな隠し事があったとしても、私の好きな天雷に変わりはありません。それを彼が明かしても明かさなくても、私は受け入れます」
「……頑固だね。降参だよ」
公喩はため息をついた。表情から険が抜け、いつもの飄々としたものに戻る。
「僕は止めないよ、好きにすればいい。せいぜい殺されないように」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ僕は戻るよ。花の回収を頼まれていたのに、だめにしてしまったからね。謝らないと」
そう言って、公喩が歩き出す。嘉音の隣を通り過ぎていくとき、彼のひとり言がぽつりと落ちた。
「君みたいな人がいたら、風禮国も変わるのかもしれない……」
悔恨を混ぜた声音が耳につく。しかし問うことはできなかった。振り返って確かめた公喩の背が寂しげだったからだ。
去っていけば風が吹く。兒楽宮の庭を風が吹き抜け、一箇所に溜まっていた百合の花びらが風に舞う。荒れた庭はあちこちに散らばり、まるで白の花が咲いたかのように。
瞳を開いてそれを見やる。百合の花びらが点在するその庭を美しく感じた。
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