嘉音の姿は後宮北部にある星辰(せいしん)(えん)にあった。あれ以来天雷がこないことで塞ぎがちな嘉音を見かねて、慈佳が提案したのである。

 花が咲き誇る季とあって星辰苑の自然は賑やかだ。庭では植えられていない高木があり、暑い頃は涼みによさそうな池もある。

「風が心地よいですね」

 慈佳が言う。嘉音のことを気遣っているのだ。その心遣いはありがたいが、どうにも天雷のことが気になってしまう。
 そしてもう一つの気がかりは大家だ。突然白李宮に現われて以来、大家に関する情報は入ってこない。慈佳曰く、あの日のことを知るのは一部の者らしく、妃嬪も知らない者が多いそうで、白李宮の宮女には箝口令が敷かれていた。

「今日は天気もよいので、他の方々もきているようですね」

 それを聞いて嘉音が見渡す。あちこちに妃嬪や供をする女官、宮女らの姿がある。

(あずまや)()才人(さいじん)(りゅう)充儀(じゅうぎ)がいらっしゃいますね」
「では挨拶に行かないといけないわね」
「ええ。そういたしましょう」

 嘉音は亭に向かう。呉才人と劉充儀は入宮の時期が近かったため言葉を交わしたことがある。彼女らも近寄ってくる嘉音に気づいたようだ。

 しかし嘉音が着くよりも早く、別の妃嬪が亭に着いた。呉才人や劉充儀と異なり、華美に着飾った妃嬪だ。その姿を捉えるなり、慈佳が足を止めた。

「……嘉音様。あの方が凌貴妃ですよ」

 顔を強ばらせ、小声で囁く。

(あれが……帝の寵妃、凌芳香)

 噂には聞いていたが、実物は想像を超えるほど美しい。たとえ豪奢な被帛(ひはく)襦裙(じゅくん)を着ても、彼女が持つ美しさに霞んでしまう。大家が他に見向きもせず寵愛を送るのも納得だ。舞が得意だと聞いたが、あの美しい人がひとたび舞えば、すべての視線を集めるのだろう。

 凌貴妃は亭に入り、二人に話しかけていた。その場に嘉音も向かう。

「貴妃様にご挨拶申し上げます」

 後宮にいる妃嬪で、最も高い位が『貴妃』である。嘉音は揖礼した。

 しかし凌貴妃はどうにも機嫌がよくないようであった。じろりと嘉音を一瞥した後、呉才人を睨みつける。嘉音に興味がないとばかりの仕草である。

「……あなた、呉家の娘よね」

 凌貴妃が呉才人に詰め寄る。体が竦み上がるような冷えた声だった。呉才人と劉充儀も冷や汗を浮かべている。彼女ら付きの女官も顔を強ばらせていた。

「あ、あの……私の家が、何か」
「都の中通りに呉家の商店があるでしょう? 風禮(ふうらい)(こく)の品を取り扱っていると聞いたけれど」

 風禮国とは現在友好関係にある。しかし貿易を許されているのは国から認可が下りた商家のみ。呉家もそのひとつで、宮城に貿易した品を卸している。特に風禮国で採れる珊瑚(さんご)は美しく、それを加工して作る装飾品は妃嬪らに流行っていた。

 呉家が風禮国との取引をしていることは周知の事実だ。呉才人は、凌貴妃が厳しい態度を取っている理由に心当たりがないようで、首を傾げている。

 凌貴妃は開いていた扇を勢いよく閉じた。ぱん、と割れるような音が亭に響く。

歩揺(ほよう)の珊瑚玉に傷があったのよ」
「え……」
「あれはまがい物の珊瑚でしょう? 呉家で扱うものはどれも傷がついていたわ。後宮で流行っているのをいいことに偽物を売りつけているのでしょうね」

 呉才人の顔は凍り付いていた。隣にいる劉充儀も困惑した面持ちでいる。

(珊瑚の装飾品は確かに流行っているけれど)

 嘉音も、いくつも装飾品を持っている。入宮の折に記念として賜ったのも珊瑚の(かんざし)や耳飾りであった。しかし凌貴妃が語るような傷は見当たらなかったと思う。嘉音はそこまで装飾品に詳しくないため自信はない。

 これに乗じたのが、凌貴妃と共にやってきていた(たん)昭儀(しょうぎ)だ。

「さすが貴妃様です。珊瑚に詳しいのですね」
「そんなことないわよ。気になったから調べただけ。こういったことがあるから、私は珊瑚のものを身につけないようにしたの」
「ええ、ええ。さすがです」

 持ち上げられて凌貴妃は気を良くしたらしい。

「最初は私が大家に賜ったのよ。いつのまにか皆も取り入れて、仲間が増えたようで嬉しかったけれど――こういったことがあるから気をつけないといけないわね」
「貴妃様の仰るとおりです。私も気をつけるようにいたします。貴妃様がお気づきになられたとあれば、この流行りもすぐに消えることでしょう」

 呉才人は身を震わせながら頭を下げていた。口を真一文字に引き結び、嵐が過ぎ去るのをじっと待つようでもあった。

 満足した凌貴妃は、挨拶をした嘉音や劉充儀に目もくれず、去っていった。その後ろ姿を湛昭儀が追いかけていく。

 息詰まるような場面だった。凌貴妃らの姿が遠くに消えてから、ゆるゆると劉充儀が動き出す。動けずにいる呉才人の肩にそっと触れた。

「大丈夫?」

 その言に呉才人が顔をあげた。その瞳は涙を浮かべて濡れている。

「ひどいわ……父様は偽物なんて扱っていないのに……」

 嘉音も呉才人に駆け寄り、声をかける。

「難癖をつけているのよ。あのようなこと、ここで呉才人に言ったところでどうしようもないのに」
「二人とも、ありがとう。はじめて貴妃様にお会いしたのだけれど、あのような性質をお持ちなんて知らなかったわ……お二人は貴妃様にお会いしたことがあったの?」
「私は今日が初めてよ」

 嘉音が答えた。呉才人と同じく、噂は聞けど対面したのは今日が初めてである。

 しかし劉充儀は違ったようだ。

「以前に星辰苑でご一緒したけれど、穏やかな方という印象を持っていたわ。あのような一面があるのだと驚いたぐらい」
「でも私、貴妃様を怒らせるようなことをした覚えがないわ。珊瑚のことだって、私は知らないもの」

 途中から駆けつけたが、一方的なやりとりであったように思える。何がそこまで凌貴妃を怒らせたのだろう。考えていると、劉充儀が言った。

「虫の居所が悪かったのだと思うわ。呉才人に怒っているのではなく、あてつけられる良い位置に呉才人がいただけよ。珊瑚のことだって、後宮で流行り、皆が付けていることが気に入らなかったのでしょう」
「劉充儀の仰るとおりかもしれませんね。最初に珊瑚を身につけたのは凌貴妃で、それも大家に賜ったのだと言っていましたもの」
「珊瑚を身につけて良いのは自分だけと言いたかったのよ。大家の寵愛を得ているのは凌貴妃だから、それを示したかったのかもしれないわ」

 二人の話を聞きながら、嘉音は今日つけている耳飾りが珊瑚であることを思いだした。珊瑚を好む妃嬪が多いからと慈佳が進めてくれたのだ。今日の騒ぎが広まれば、妃嬪らは身につけなくなるだろう。宮付きの女官は情報が早いので、珊瑚の装飾品を避けるよう助言するに違いない。

「目をつけられないよう、気をつけないと。寵愛を得ている凌貴妃がこの後宮を支配しているも同然なのだから」

 劉充儀の言に呉才人が頷いた。嘉音もそれを頭の中で反芻する。

(後宮にいるのならば凌貴妃に気をつけないと)

 不興を買ってしまえばどのように扱われるかわからない。ここで泣いている呉才人が、明日には嘉音に変わる時だってあるのだ。

 話が落ち着いた頃に嘉音は亭を出た。苑を散策する気にはなれず、慈佳に話して白李宮に戻ることにする。

「凌貴妃はこのところ苛立っていますからね」

 慈佳も亭でのやりとりを目撃している。慈佳は嘉音が巻き込まれないようにと案じているのだろう。

「私にはわからないわ……寵愛を得て後宮の頂点にいるのだから、苛立つようなこともないと思うのに、どうして呉才人にあてつけをしたのかしら」
「どうでしょう。凌貴妃なりの事情があるのかもしれません。自分だけが愛されていると周囲に示したかったのかも知れませんよ」
「そのようなことをしなくても、大家は凌貴妃しか見ていないわ」
「それは私たちが遠くから見ているからですよ。当事者となれば別の視点になります。大家と凌貴妃の間には、私たちの想像できないようなものがあるのかもしれません」

 短く相づちを打ち、考える。寵妃には寵妃なりの悩みがあるのだろうか。嘉音は寵愛など受けていないのでわからない。この先も大家が来ることはないのだろう。

 そう考えていた時、前方から宮女が駆けてきた。白李宮の宮女だ。彼女は嘉音と慈佳を見つけるなり、息を切らしてこちらにやってくる。

「急ぎお耳に入れたいことがございます」
「そんなに慌ててどうしたの」

 まさか天雷がきたのだろうか。平静を装いながらも、吉報を期待してしまう。
 しかしそれは、すぐに打ち砕かれた。

「今宵、大家が白李宮にお越しになるとのことです。急ぎ宮に戻り、準備を致しましょう」

 嘉音はぴたりと足を止め、そこから動けなくなった。

(どうして大家が私の元に……夜にくるということはつまり……)

 大家は一度も、凌貴妃以外に触れていない。夜に凌貴妃以外の宮を尋ねたことはなかったのだ。それがどうして嘉音の元に。

(ああ。天雷……どうしよう……)

 何よりも嘉音を不安にさせたのは夜伽のことだ。妃嬪とはつまり帝の妻であり、その任は切り離せない。しかし凌貴妃を寵愛していたことから、嘉音が選ばれることはないと思っていたのである。嘉音はそれを幸運に感じていた。大家がこの様子であれば純潔を守り抜くことができる。たとえ好いた者と添い遂げることができなくとも、清らかな身でありたいと願っていた。

 けれど今夜、大家が来る。天雷以外の男がこの身に触れるのだ。想像しただけで寒気がする。いますぐにこの場所から逃げ出したいほど嫌でたまらなかった。

 慈佳、そして宮女がこちらを向く。二人は微笑み、告げた。

「薛昭容。おめでとうございます」

 祝いの言葉のはずが棘を持っているように感じる。嘉音は答えることができず、表情を凍り付かせていた。

(天雷……せめてあなたに会いたかった……)

 その願いは空に溶け、消えていく。



 大家の渡りが決まれば、宮は忙しくなる。何時間もかけ妃嬪は磨き上げられる。湯は香油を垂らし、袖を通すは上等な襦裙。突然の報せだったこともあり支度は随分と時間がかかった。

(逃げる隙など、なかった)

 気づけば陽は落ち、白李宮の吊り灯籠に火が灯っている。
 大家を迎えるために用意された部屋で、嘉音はひとり待っていた。

(こんな私を見たら天雷は何て言うのだろう)

 あれからずっと天雷のことばかり考えている。会えぬ間に帝の渡りがあったと知れば、天雷は悲しむのだろうか。それとも慈佳らと同じく祝いの言葉を述べるのか。

 そのどちらとも、嘉音は受け入れられなかった。彼を悲しませることも、彼に祝われることも悲しくてたまらない。寵愛など得られぬと思っていたのだ。後宮に入ったとしても、身は清らかなまま天雷に会いたかった。

 こうも磨き上げられ、しかし他の男に触れられるのだ。滑稽だ。汚れていくようだと思う。しかし妃嬪として後宮にいるのだ、嫌だと泣いたところで逃げられない。

「大家がお越しになりました」

 扉越しに慈佳が言った。嘉音は表情を強ばらせる。
 倒れている時に会ったといえ、帝と言葉を交わすのは初めてだ。おそろしくてたまらない。身を震わせながら待っていると、ついに扉が開いた。

 現われたのは、あの日階のところで倒れていた男と同じ顔をしている。背丈は高く、腕も長い。その姿を確かめた後、嘉音は長揖した。

「お越し頂きありがとございます。薛昭容でございます」

 しかし彼は何も言わなかった。ふたつの瞳で嘉音の姿を捉え、こちらに寄ってくる。その急な接近に嘉音は慌てた。

「大家……その……」

 夜伽は初めてだが、ある程度は慈佳から聞いている。それでも急に迫られるものと想像していなかったので困惑し、たじろぐ。それでも帝はこちらに詰め寄ってきた。
 彼の手が伸びる。燭台の火によって生じた影はこちらに向かい、ついに嘉音の肩に触れた。

「――っ、」

 ぴくり、と身を震わせる。咄嗟に目を閉じてしまった。ごつごつとした指先が肩に触れ、温かい。
 しかし大家はそれ以上、嘉音に触れようとはしなかった。肩を掴んだまま、である。

(ど、どういうことだろう)

 動揺しつつも薄ら目を開ける。視界には大家がいる――のだが、その表情は予想と異なっていた。
 彼は柔らかに微笑んで、嘉音を見つめている。そのまなざしが秘める熱を知っている気がした。

(天雷に……似ている?)

 優しく肩に触れる動きも、天雷が取っていたものだ。彼の雰囲気は天雷によく似ていた。

 けれどその(かんばせ)は違う。鼻や輪郭は似ていても、涼やかな目元は違う。微笑んでも頬がくぼまない。右目尻にある黒子(ほくろ)は天雷にはなかったものである。

(似ているだけ。天雷じゃない。なのにどうして)

 嘉音の困惑は伝わっていることだろう。それでも彼は穏やかに微笑んだまま。

「嘉音様」

 その唇が動き、嘉音の名を口にした。驚いて目を丸くする嘉音に、彼はもう一度微笑む。

「俺ですよ。天雷です」
「え……」
「この姿ではわかりませんよね……大家の体ではありますが、これは俺です」

 その喋り方、呼び方。どれも記憶にある天雷のものと一致する。しかしそれを語る顔や声が異なるため、にわかには信じられなかった。

 嘉音が疑っていることを彼も気づいているようだった。ぱっと手を離して、顎に手を添える。「どうしよう」と呟いて何かを考えこんだ後、彼は言った。

「昔は嘉音様に書を借りていましたね。一度読めば覚えてしまうと話せば、あなたが楽しそうにするから、俺も誇らしい気持ちになりました」
「……っ、どうして、それを」
「でも奥様や大建様は下男と親しくすることを禁じていたでしょう。書を貸すなど知られてしまえばあなたが怒られてしまうのではないかと心配していました。そういえば奥様に見つかりそうになって庭の木に登って隠れたこともありましたね」

 彼が語るものは、嘉音と天雷が薛家の屋敷で過ごしてきた日々だ。
 庭の木に隠れたのは小さな頃だった。薛夫人は下男と親しくするなと命じていたが、嘉音は無視して天雷と過ごしていた。ある時には嘉音を探しにやってきた薛夫人から逃げようと木に登った。案外見付からないもので、木の上からあたりを見渡す薛夫人を見下ろし、天雷と笑っていたものだ。

「嘉音様とお母様は庭で空をよく見上げていましたね。俺が屋敷を出たのは庭の黄櫨(こうろ)が赤く色づいた頃でした」
「それは私と天雷しか知らないはずの――」
「そうですね。だけど、俺が天雷なんです」

 彼は切なそうに眉根をよせ、己の手を見つめる。天雷と違い、まめや傷のない綺麗な手だ。

「上手く説明できないけれど、目が覚めたらこうなっていました。俺なのに、大家の体をしている」

 理解が難しい。口調や雰囲気、語る内容は天雷だ。しかし目の前にいる人間は天雷ではない。これについては彼自身も理解ができていないようで、困惑の色が窺えた。

「信じがたいでしょう。俺だってこの状況をうまく理解できていません。ですが――」

 縋るように嘉音へ手を伸ばそうとしていたが、彼は諦め、寂しそうに瞳を伏せた。

(確かに信じられない)

 天雷が白李宮に来た時の姿と、いまの姿は大きく異なる。外だけを見るのならば全く別人だ。

 けれど、嘉音は彼の手を掴んでいた。
 姿は違えど、ここにいるのが天雷だと思った。天雷が好きだからこそ、彼のことよく見てきた。華鏡国で一番、天雷を見てきた人だと自負している。

「私は、信じる」

 その言に彼が吃驚した。

「ほ、本当ですか」
「だって私、天雷のことをよく見てきたのよ。それに私たちしか知らないことをあなたが語った。姿が変わったとしても、天雷だと信じるわ」

 すると天雷はがくりとその場に座りこんだ。具合が悪くなったのかと心配し、嘉音が慌てて覗きこむ。

「大丈夫?」
「す、すみません……安心したら、力が抜けちゃって……」
「そこに腰掛けて」

 天雷は「ありがとうございます」と小さく呟き、寝台に腰掛けて息を吐いた。

「俺もどうしてこうなったのかよくわからないんですが、目が覚めたらこうなっていて……誰に話しても信じてもらえなかったのですが、嘉音様に信じて頂けて安堵しました」
「突然違う人の体になっていたら、誰だって驚くわ。心細かったでしょうね」
「はい……この先どうしたらいいかわからなかったのですが、まずは嘉音様にお話しようと考えました」

 大家の渡御を報された時は驚いたが、中身が天雷だったと知れば納得だ。

 しかし、彼が天雷であることは認めたとしても、なぜ天雷が大家の体になっているのかがわからない。目の前にいるので実際に起きていることは間違いないのだが、嘉音が持つ常識と外れたこの状態は首を傾げてしまう。

「現状を整理したいのだけど……大家の体だけど、中身は天雷なのよね?」

 天雷が頷く。

「いつからその状態になったの?」
「数日前ですね」
「数日前……もしかして天雷が白李宮に来た日かしら。あの夜、突然大家がやってきて、そこの階で倒れていたことがあったの」
「そう……ですね……」

 あの日は突然大家がやってきたから驚いた。報せはなく、それも大家が倒れているのだ。箝口令が敷かれているため後宮にいるほとんどの者は知らないだろう。

「嘉音様の元に行くと約束していましたよね。覗えず申し訳ありませんでした」
「それはいいの。でもあの日、何があったの? それがわかれば元の体に戻る方法だって探せるかもしれないわ」

 そこで天雷は俯いた。険しい顔をし、何か悩んでいる様子だった。

「教えてくれないの?」
「俺からは……すみません」

 嘉音としてはその日に何があったのか知りたいところだ。わからなければこの不可思議な状況を打破するきっかけが掴めない。しかし天雷は頑なに、語ろうとしていなかった。

「でも、その日に体が変わったのだと思います」
「ということは銀二鐘(十四時)に白李宮へきた後よね。あの時は天雷の姿だったもの」
「はい。夜にはもう変わっていたのかと」

 そう言って、天雷が額を押さえた。体調が悪くなったのかと案じたが、すぐに語り出したので嘉音はそのまま座り、彼の言を聞いた。

「体が引きちぎられそうなほど痛み、頭も割れてしまったのかと思うほど痛かったです。でも嘉音様と約束していましたから、あなたのところに行こうとばかり考えていました。うろ覚えですが、嘉音様がいました。俺も嘉音様に手を伸ばそうとして――その後は覚えていません。気づいたら髙祥殿にいましたから」
「そうなると、大家が白李宮にきた夜には、中身が天雷になっていたのね」
「おそらく、ですが」

 つまり、その日に天雷が大家の体になってしまうような不可思議なことが起きている。
 そう考えて、嘉音は気づいた。

「では大家はどこに行ってしまったの? 髙祥殿はあなたを大家だと思いこんでいるの?」
「俺も聞いてみましたが、同じ姿をした者は見当たりません。それに華鏡剣を佩いている。これに用いた碧玉はこの世にひとつ。となれば、大家がどこかに行ったのではなく、俺が大家になってしまったと考えるのが妥当かと」

 華鏡剣とは華鏡国の帝位についた者に受け継がれる宝剣だ。ここに埋め込まれている碧玉は、中に蓮の模様がある。これは天然の模様で、奇跡のように美しい蓮の模様であったことから献上された。これを人の手で作り上げるのは難しい。
 唯一無二である華鏡剣を持っていたことから、天雷の体は大家で間違いないのだろう。

「天雷の意識が大家の体に入っている。そう考えるのがいいのかしら」
「こうして口にすると信じがたいですが……嘉音様の推測通りでよいと思います」

 何とか元に戻る方法はないだろうか。頭を巡らせているも何も浮かばない。
 思案に耽る嘉音をみかねて、天雷が言った。

「このことについては、詳しそうな者がいるので尋ねてみます」
「詳しい人がいるの?」
「ええ――厄介な男なので、あまり頼りたくはないのですが」
「その時は私も呼んでね。どうなるのか気になるもの」
「わかりました。嘉音様にも声をかけます」

 これ以上議論していても答えが出せない。ひとまずは、その詳しい者に話を聞いてからだ。

 しかし今後はどうなるのだろう。嘉音は天雷の方へ視線をやる。

「今後はどうするの?」
「しばらく大家のふりをします。周囲に話して混乱させてはいけませんから。最近は大家と共に動くことが多かったので振る舞いなどは大丈夫だと思います」

 天雷が大家の体になってから数日が経っている。その間、大家が後宮に来ることはなかったが、それ以外は通常通りに動いていた。もしもうまく大家のふりをできていなければ、いまごろ騒ぎになっていただろう。

(それでも不安だ。天雷は大丈夫かしら)

 彼の姿は別人になってしまった。語れば語るほどに天雷であるから、明日のことが不安になる。天雷はうまくやっていけるのだろうか。
 矯めつ眇めつ眺めていると、彼と目が合った。視線を合わせるなり、天雷は柔らかに微笑む。

「嘉音様は、美しくなりましたね」
「と、突然どうしたの」
「二年ぶりでしょう。ゆっくり話せる時にお伝えしようと思っていました。薛家にいた頃は可愛らしかったのが、たった二年でより美しく成られた」

 天雷に優しく頭を撫でられる。その動作は薛家にいた時と変わらない。

「後宮での暮らしは不安が多いと思いますが、俺が支えます。嘉音様がつらい目にあわないようお守りします」
「それは嬉しいけれど……天雷は、いまは大家なのよ?」

 嘉音が言うと、天雷は「あ」と小さく声をあげた。どうやら自分が大家の体になっていることを、この時は忘れていたらしい。

「この状態だと難しい時もありそうですね」
「でも二人で会いやすくなる。帝と妃なら、だれも疑わないわ」

 そこで嘉音は思い出した。大家が夜に妃嬪の宮を尋ねるのには意味がある。嘉音もこれから夜伽をするのだと考えていた。
 しかしここにいるのは大家ではなく天雷だ。改めて彼の顔を見上げる。

(私は天雷と……)

 想像すればするほど、頭に血がのぼっていく。無意識で隣に座っていたが、その距離の近さが恥ずかしいもののように感じてしまった。

(何を今さら。頭を撫でられるのも、肩に触れられるのも、いままでによくあることだったじゃない。それに大家に触れられるより天雷がいいと思っていたじゃない)

 こみ上げる羞恥心を押さえようとするもうまくいかない。そのうちに彼のことを直視できなくなり、嘉音は顔を背けた。

「嘉音様、何を考えていらっしゃいます?」

 そこで天雷に聞かれた。ぎくりと身を震わせるも、嘉音はまだ天雷の方を見られそうになかった。

「べ、別に……」
「正直に仰ってください。ほら、こちらを向いて」

 頬に手を添えられ、天雷の方を向いてしまう。正面から顔を覗きこまれても、最後の意地として視線を外した。

(平常心でいなきゃ……)

 別のことを考えるよう仕向ける。今日食べたもの、明日のこと。しかしどれもすぐに消えて天雷のことばかり考えてしまう。心臓が早鐘を打ち、いまにも飛び出してしまいそうだ。

「……嘉音様、何を考えています?」

 くすぐるように甘い囁きをし、天雷が耳元に顔を寄せた。頬に触れた彼の指や耳にかかる吐息が熱く感じる。距離の近さを感じ取り、嘉音は咄嗟に目を瞑った。

「顔が赤くなっていますよ」
「っ……て、天雷!」

 ついに羞恥心が爆発し、叫んでしまった。隣に座っていたが先ほどよりもじゅうぶんに距離を取って逃げる。
 これに天雷は楽しそうに、くすくすと笑っていた。

「か、からかわないで!」
「ふふ、すみません。嘉音様が顔を赤くして可愛らしかったので、つい」

 しばらく笑った後、天雷は咳払いをひとつした。

「とにかく、嘉音様が考えていたようなことはしないつもりです」
「私は何も考えてません!」
「ではそういうことにしておきましょう。俺は嘉音様はもちろん、他の妃嬪にも手を出すつもりはありませんよ」

 そう宣言されると嬉しいような、しかし心のどこかが残念がっているようでもある。もやもやとした霧に包まれていくようだ。その霧を晴らせば、至近距離で天雷を眺めることができなくなりそうで見ないふりをする。

 先ほどの妙な空気は消えたといえ、嘉音の心臓はまだ急いていた。姿が別人になったといえ、天雷がここにいることで幸福感に包まれている。

 そうして夜が更けた頃、天雷は髙祥殿に戻っていった。