彼女を花火大会に誘うのも失敗したことだし、大人しく家に帰ろうと思い昇降口まで降りると、俺が今一番見たくない人間の背中が見えた。

「……板倉」

相変わらず、冴えない顔立ちのフツー少年が、俺の方を振り返った。
こいつの顔を見ると、余計に彼女の切なげな瞳が脳裏をよぎり、頭を押さえたくなった。
「宮沢、なんだよ」
去年のランキング事件以降、彼は俺と極端に距離を置いていた。まあそれもそのはず。あれだけ言い合いになったのだから仕方のないことだ。
今思えば、お前が彼女と付き合いだしたのはあの一件が原因だったのだろう。それまで全然付き合うなんて素振りのなかった二人が、安藤の見舞いに行って帰ってくればこのとおり。二人がお互いを意識しているということが、目に見えて分かった。
本当は、今すぐにでも彼を詰ってやりたい。
俺が手に入れたかった女をあっさりと手に入れた彼を。
でも、俺にその権利はないのだろう。試合に負けたのだ。正々堂々戦うこともなく、彼女を想い、気がつけば失っていた。

俺たち二人の横を通り過ぎてゆく生徒が、昇降口の扉を開く。もわっとした熱い空気が二人の間に押し寄せた。
思わず、うっと眉を潜める。まったく不快だった。今のこの状況も、真夏の蒸し暑さも何もかも。

「お前に言いたいことがある」

「なんだ、また文句?」

「また」のところを強調する板倉は、よほど俺のことを嫌っているのだろう。鬱陶しそうな態度を見ても明らかだった。
「そうだ。お前、岡田のことどう思ってんの」

「へ……」

まさか俺が彼女の話を持ち出すとは全く予想していなかったらしく、気の抜けた声が漏れ出た。

「どうって。そりゃ、彼女なんだから、好きに決まってるじゃん」

今度は“彼女”のところをサラッと口にする彼に、嫉妬が渦巻く。いかんいかん、ここは冷静にならなくては……。

「本当にそうなのかよ。本当に、彼女のこと本気で考えてんのか」

色恋沙汰に、こんなにも本気になったのは初めてだ。この気持ちが、今の板倉と同じだなんて、俺には到底思えない。
理由なら簡単だ。
彼が今、おそらく京子と本気で向き合えていない理由。
高校3年生。板倉みたいな生真面目なやつは、普通に大学受験を考えているのだろう。他の生徒の大多数がそうしているように。そして、彼と京子は交際を始めて約1年。さすがに、付き合い出した当初ほど気持ちは昂っていないはずだ。少なくとも、板倉の方は。
だって、さっきの岡田京子の目。
彼女の目が、寂しげに揺れる瞳の奥が、板倉を心の底から求めていた。
それに対し、こいつの態度はどうだ。
彼女が名前を呼んでも、振り返りもしなかった。あれが、本気で好きだと思っている恋人にとる態度なのか? もしそうなら、京子が不便でならない。お前に対し、本気の気持ちを抱き続ける彼女が。

「宮沢。お前なんなんだよ。京子と僕の関係に口を挟むの? そんな権利があるの」

どうやら彼は、俺の果し状を受け取ったらしい。あまり凄みのない目で精一杯俺を睨み付ける。いつかの事件の日と同じように。

「権利? んなもん知らねーよ。俺はただ、俺がそうしたいから今お前と話してるだけだ。岡田は、お前のこと本気で好きだ。そんな目をしていたから分かる。それなのに、お前はどうだ。岡田と同じ気持ちでいるのか? もし、情だけで一緒にいるなら、そんな関係早いとこ切っちまった方がいい。お前も彼女も、無駄に傷つくだけだ」

最初は、敵意を剥き出しにしていた板倉が、俺の話を聞くうちにだんだんと拍子抜けしたとでも言わんばかりに不思議そうな顔になった。それもそうだ。これまで宿敵だったやつから、急に本心を言い当てられたのだから。おそらく、板倉自身さえも気づかなかった気持ちを。

「僕は彼女と、情で一緒にいるんだろうか……」

板倉は、俺に質問しているわけではなかった。自分自身への問いかけ。たぶん、彼の中にも、腑に落ちない思いがあったのだろう。彼らはおそらく、大喧嘩をしたわけでも相手の嫌な部分を見たわけでもない。ただ一緒にいただけ。それでも、薄れゆく感情だってある。板倉の中で、京子の存在が輝かしいものではなくなっているということ。
彼はそのことに今気づいたのだ。

「ああ。だから、もし本当に彼女のことを思うなら、早くその気持ちと向き合え。それか、今でも本気で好きならそれを伝えに行けよ。もうこれ以上、彼女を苦しめんな」

言ってやった。
俺は俺を苦しめているのかもしれない。
板倉の目に、驚きと戸惑いの色が見えた。だが、それと同時に拳を握りしめる。ようや決心がついたらしい。これで俺もお役御免か。
彼は、「……分かった」と小さく呟くと、踵を返して靴を履き替え昇降口から出て行った。
陽炎の中に消えてゆく彼の背中を、俺はただ立ち尽くして見つめることしかできなかった。