夏の終わりを、私に教えて。


「……へえ、こんな場所があったんだね」

 紗季先輩は、感心したようにそう言うと、目の前に広がる景色をじっと見つめていた。

 そして、しばらくの間そうしていると、ふいにこんなことを囁く。

「……こうしてみると、この町は小さいね」

 紗季先輩に言われて、もう一度、ここから見える町を眺める。

 確かに、中学生の頃に見ていた景色より、町全体が小さく見えているような気がした。

 だけど、それは俺がこの町を出て、都会での生活に慣れてしまったせいかもしれない。

「……先輩は、昔はもっと広い町に住んでいたんですか?」

 なんとなく、先輩にそう質問すると、彼女は首を横に振った。

「いや、それほど変わらなかったと思うよ。ただ、こんな小さい町に、私は暮らしていたんだなって、そう思っただけさ」

 耳に掛かった黒髪を手で払いながら、紗季先輩は俺にそう告げた。

 いつもの、ミステリアスでどこか掴みどころのない紗季先輩の雰囲気が、今はどうしようもなく不安を駆り立てる要因になってしまっているのは、俺の気のせいだろうか?

 しかし、その理由が明確にできないまま、紗季先輩は新たな疑問を俺に投げかけてきた。

慎太郎(しんたろう)くん。さっき、きみはここに来るのが久しぶりだと言ったよね? それは、どうしてなのかな?」

「どうして……ですか?」

 なぜ、紗季先輩がそんなことを知りたいのか、正直俺には、わからなかった。

 だが、先輩の質問には、今の俺でもはっきりと答えることができた。

「それは、もう俺がここに来る理由がなくなったからです」

「理由?」

 俺の返答を聞いて首を傾げる先輩に、俺ははっきりと告げた。

「ここは、俺が一人になりたいときに来ていた場所だったからです。いや……ちょっと違いますね。誰とも会いたくないときに来ていたんです。そういうことって、先輩にはありませんか?」

「……そうだね。人間、誰でも一人になりたいときはあるものだよ」

 俺は、先輩が自分の意見を肯定してくれたことに安堵しつつ、きっと、先輩自身もそうなのだろうと思った。

「でも、そういう場所は、必要なくなりました……。俺にも、居場所が出来たんです」


 ――きみは本が好きなのかい? それとも、人間が嫌いなのかい?


 紗季先輩から告げられたその言葉は、当時の俺にとっては、自分の本質を見抜かれてしまったようで、正直怖かった。

 誤解がないように言えば、俺は本当に本が好きだし、今でもその気持ちは変わらない。

 だが、それは表面上の真実であって、もしかしたら俺の無意識の中には、もっと別の何かが蠢いていたことも、また事実だった。

 俺は、生きていく内に『他人』という存在と馴染むという行為が、いつの間にか自然とできない自分に気付いてしまった。

 誰かに合わせるように会話をし、誰かの態度を確認しながら言葉を並べていく。

 そういう、普通の人なら簡単にできてしまうことが、俺にはできなかった。

 だから自然と、周りにいた友達は俺から離れていったし、誰も俺のことなど相手にしなくなった。

 ずっと傍にいたのは(みどり)くらいだけど、それはあいつが少し変わり者だから、俺なんかが相手でも、幼なじみとして、何も変わらず接してくれただけだ。

 それなのに、身勝手な俺は『孤独』を感じて、本の世界へと足を踏み入れた。

 だけど、紗季先輩に初めて声を掛けられたとき、ようやく気付いたのだ。


 俺は、人間が嫌いになってしまったから、本が好きになってしまったんじゃないかと。


 それは、俺にとっては衝撃の事実であり、大好きだった本に対する裏切りのように、そう思ってしまったのだった。

「俺は、人と話すのも、人と関わることも嫌いでした。だけど、紗季先輩だけは違いました」

 紗季先輩は俺を『孤独』から救ってくれた。

 俺と同じ目をした少女もまた、『孤独』を背負っているように見えたから。

 共依存、という言葉を思い出す。

 あまり肯定的な言葉としては使われることはないけれど、多分、俺と紗季先輩の関係を表すにはぴったりな言葉だ。

「俺にとって、先輩と過ごすあの図書室での時間が、この場所と一緒なんです」

 今でも俺が抱いているこの感情の正体が、自分でもよくわかっていない。

 それでも、もう伝えることができないと思っていたこの気持ちを、先輩に伝えることができたような気がした。

「……そうか」

 先輩の顔が夕日の光のせいで、上手く直視することができない。

「それは、私にとっては、少し誇らしいことなのかもしれないね」

 ――そして、夕焼けが少しずつ落ちていく中、

「慎太郎くん……」

 ――紗季先輩は、俺にこんなことを告げた。


「明日は、私とデートをしてみる気はないかい?」


 俺が、その言葉の意味を飲み込むまで、紗季先輩はずっと楽しそうに笑みを浮かべていたのだった。


 八月二日。

 日曜日の昼間の時間帯ということもあって、繁華街の駅周辺は人の出入りが激しい。

 今の俺は大学生活を経験しているので、この人混みにもなんとか耐性はついているのだが、高校生だった当時なら間違いなく体力を奪われていることだろう。

 ただ、たとえそうだったとしても、今の俺はなんとか気力を保ち続けなければならない。

 何故なら……。

「平気かい、慎太郎(しんたろう)くん?」

 隣に、俺のことを気遣ってくれる女性がいるからだ。

 艶のある黒髪を揺らし、甘い香りが漂う少女。

 そして、浮かべる笑みには蠱惑的な魅力があった。

 もちろん、その人物とは、図書委員会の先輩である黒崎(くろさき)紗季(さき)先輩だ。

 俺は本日、紗季先輩に誘われて都会の街を訪問していた。

 昨日、急遽決まった予定であり、一体図書委員としての仕事はどうするのかと思ったのだが、そこは紗季先輩が図書委員会の責任者である青野先生に連絡を取って今日はお休みにすることにしたらしい。

 まあ、図書室を解放していたのは、殆どボランティアどころか俺たちの都合で開放していたようなものなので、日曜日に閉まっていたとしても困ることはないだろう。

 結局、俺たちが図書室にいる間に訪れた生徒の数なんて、両手の指どころか片手の指ですら数えられるくらいの人数だったし。
 しかし、残念ながら今の俺は、他人の心配をするような心の余裕なんてどこにも存在していない。


 ――明日は私と、デートをしてみる気はないかい?


 その言葉通り、俺は現在、紗季先輩と絶賛デート中なのである。

 俺が知っているデートと同じなら、確かに今の状況を客観的にみれば、その性質は充分に満たしているのだろうが、俺の心情としては極めて複雑なものだった。

 紗季先輩のことだ。どうせ俺をからかって、その様子を見て面白がっているに決まっている。

 だから、いつもより脈拍が早くなっているように感じるのも気のせいだ。

 だいたい、先輩だって今日はただの気晴らしのようなことがしたくて、俺を誘ったに違いない。

 そうだ。きっとそうに決まっている。

 まさか、本気で俺とデートをしたかったわけじゃないだろう。

「ところで、慎太郎くん。私はまだきみから肝心なことを言って貰っていなかったね?」

 せっかく意識をそらそうとしたのに、先輩は軽い足取りで少し離れてから、俺にこう尋ねる。

「どうだい? 初めて見た私の私服姿は?」

 にこっ、と大人っぽい表情で笑みを作る先輩。

 先輩の言う通り、今日は学校指定の制服ではなく、お互いに私服姿だった。

 紗季先輩は、黒いレースのついたワンピースに、涼し気なサンダルを履いていた。

 装飾品といえば、首から何かネックレスのようなものを掛けているようだが、服の中に入っていて、見えるのは金色のチェーンの部分だけだった。

 先輩らしいシンプルなコーディネートだとは思いつつも、その透明感ある姿を直視できないのもまた事実である。

 だが、なかなか口を開かない俺に対しても、先輩はただ黙って笑顔を浮かべながら俺の言葉を待っている。

 ああ、こういうこと、確か(みどり)のときもあったな、なんて思いつつ、根負けしてしまった俺は、先輩に聞こえるか聞こえないかの声で、そっと呟いた。

「に……似合ってると、思います」

「それだけ?」

「……凄く……大人っぽいです……」

「なるほど……うん、及第点にしてあげよう」

 表情を見る限り、俺の言葉を聞いて先輩は上機嫌になっていた。

 なので、俺はこのタイミングで、ずっと頭の中にあった疑問を口にする。

「あの、先輩。今日ってなんの為に、ここに来たんですか?」

 実は、俺は今の今まで今日の目的というものを全く聞いていなかった。

 いや、それを確認せずに黙って付いてきた俺も俺なのだが、なんとなく、先輩が隠しているように感じたので、今の今まで聞き出せなかったのだ。

 実際、紗季先輩もずっと何も言わなかったし、行きの電車でも、この駅まで行くとだけ告げられただけだ。

「ああ。そういえば言ってなかったけど……」

 しかし、紗季先輩は俺が指摘するまで、そのことに全く気付いていなかったとでも言いたげな態度を見せて、こう告げた。

「全く予定なんてないよ」

「……はい?」

「ただ、慎太郎くんと一日一緒に過ごしてみたかったんだ」

「いや……それならいつものように図書室でも……」

「まぁ、先輩の受験勉強の息抜きに付き合わされていると思ってくれたまえ。ただ、エスコートはきみに任せるよ」

 そういって、先輩は俺との距離を一気に詰めてきた。

 そして、そっと俺の手に一瞬だけ触れた瞬間、そのまま腕を絡みつけるような動作をする。

 だが、俺の身体がその瞬間に震えてしまったせいだろう。

「ああ……こういうのは、さすがにやりすぎかな?」

 先輩はちょっとだけ笑みを崩しながらも、腕を組まずにそのまま俺の隣に立った。

 安心したような、残念なことをしてしまったというような、複雑な心境を抱く。

 とりあえず、この炎天下の中、先輩を歩き回らせるのは紳士的ではないと思った俺は、近くの大型ショッピングモールを目指して歩き始めたのだった。


「ふむ、ベタベタだね」

 大型ショッピングモールの自動ゲートを通り、俺が指定した目的地に到着した紗季(さき)先輩が発した第一声が、そんな言葉だった。

 もちろん、この「ベタベタ」というのは、猛暑によって汗をかいてしまったという表現ではなく(むしろ、いつも通り先輩は汗一つかいていない)、別の意味の「ベタベタ」だった。

 しかし、そんな直接的に言われてしまっては俺としても恥ずかしいので、あたかも先輩の批評は聞こえなかったことにして、会話を広げる。

「先輩って、映画とかあまり好きじゃなかったですか?」

「いや、好きだよ。慎太郎くんも好きなのかい?」

「好き……っていうほどじゃないですけど、時間ができたりすると観るって感じですかね。まあ、最近はほとんど配信で観てますから、映画館に来るのは久しぶりですけど」

 俺みたいな大学生活を送っていると、学校とバイト以外は殆ど家にいることが多いので、動画配信サイトにはかなりお世話になっている。

 映画は大体二時間くらいのものが多いし、休日の空いた時間などを埋めるにはうってつけなのだ。

 それに、そういう時間に費やしていた読書からも、ずっと離れていたのも要因だ。

「そうだったのか。なんだか意外だね」

 俺の話を聞いて、紗季先輩はそんな感想を漏らした。

 どうやら紗季先輩にとって、俺は映画を嗜む人間には見えていなかったらしい。

「いや、そうではなくて、慎太郎(しんたろう)くんが動画配信サイトを使っているというのが、ちょっと意外に思ってしまってね。そういう新しいサービスは避けそうな気がしたから」

 何気ない会話だったのだが、この先輩の発言を聞いて、俺は自分の失言に気が付くことになる。

 何度も言うが、今は俺がいた時代から五年前の時代なのだ。

 うろ覚えだが、俺が本来いる時代こそ動画配信サービスなど別段珍しくもないコンテンツだったが、五年前となると、動画配信サービスはまだ日本にはやっと普及し始めた程度だったような気がする。

 ましてや、高校生で何かの動画配信サービスに加入をしているというのは、かなり珍しい部類だったかもしれない。

 全く……この五年間でもサブカルチャーの形は大きく変化していることを実感させられる。色々と発言には気を付けなくては。

「それで、慎太郎くんは何か観たい映画でもあったのかい?」

「あっ、いえ……。すみません、あまり考えてませんでした」

 正直、紗季先輩の趣味といえば読書くらいしか思いつかず、どこかゆっくりできる場所で誰でも楽しめる場所といえば映画館だろうという考えで来たのだが、その肝心の映画を何にするのかは全く考えていなかった。

「だったら、映画は私が選んでもいいかい?」

 先輩は、カウンターの上に設置されたモニターに表示されている作品と上映時間を確認し始める。

「そうだね。あれなんてどうだい?」

 そして、先輩が選んだ映画は、意外にもアニメ映画だった。

 ただ、その作品は有名な監督が担当していることもあり、幅広い年齢層から支持されている作品で、当時は話題作としてCMもよくテレビで目にしていた。

 俺は特に異論はなかったので、先輩の提案をそのまま採用する形となった。

 本当は既に観たことがある映画だったけれど、それは先輩には黙っておくことにした。

 面白い映画は何度観たって面白いし、新しい発見があったりして違う楽しみ方だってできる。

 あと、単純に俺の記憶能力が乏しいので、忘れている場面があったりするかもしれないし。

 そんなことを考えながらチケットを購入して館内へと入っていくと、夏休みということもあって、小さな子供も結構いるみたいで、元気よく走り回っていた。

「こら、駄目よハナ。他の人に迷惑かけちゃうでしょ!?」

 それを母親らしい人物が注意しても、子供は聞いているのかいないのか、今度はキャラクターが印刷されたパネルの前に立ち止まった。

「おかーさん! プリモア! ハナ、プリモアと一緒に写真撮りたい!」

 目を輝かせながら、一緒に写真を撮ってもらうように母親にせがんでいた。

 母親も、困った顔をしつつも、顔を綻ばせて娘の要望に応えるため鞄からスマートフォンを取り出して写真を撮る準備をする。

 俺はそんな風景をなんとなく眺めていたのだが、ふと隣の先輩を見ると、俺と同じように子供と母親の様子を見ていて、その眼差しがいつもの先輩とは違っていた。

「……先輩?」

「……えっ? ああ、すまない……」

 気になって声を掛けてみると、はっ、と気が付いたように身体を震わせた。

 だが、俺が声をかけたあとも、先輩は親子の様子を気にしているようだった。