そして、いつものように先輩と別れる時間がやってくる。
「それじゃあ、そろそろ閉めようか。慎太郎くん、明日はゆっくり自分の時間を過ごすといい」
そういって帰宅する準備をしていた先輩に向かって、俺は告げた。
「あの、先輩……。また、ここに来てくれるって約束してください」
たった一日だけだとしても、先輩に会えないことが、俺にはどうしようもなく不安で、ついついそんなことを口走ってしまった。
「ふふっ、なんだい、それは?」
しかし、先輩はくすくすと笑うだけで、俺の言葉を真剣に受け止めてくれていないようだった。
だけど、俺が欲しかった答えが先輩の口から発せられる。
「大丈夫だよ。私はちゃんと、またここに来るから」
そういった先輩の表情は、とても嘘をついているようには見えなかった。
「また会おうね、慎太郎くん」
その言葉だけで、俺の不安は、どこかへ消えてしまったのだった。
〇 〇 〇
だが、その日の帰宅後、俺は新たな不安を抱えることになる。
自分の部屋に着いて、スマホを確認すると一件のメールが入っていた。
「翠……?」
入っていたメールの差出人は、翠からだった。
そして、メールにはこう書かれてあった。
『あんたと話したいことがあるから、明日、予定あけておいて』
俺はその文面を見た瞬間、紗季先輩から言われた言葉を思い出した。
『きみにしかできないからだよ。だから、頑張りたまえ』
「……さて、何を頑張ればいいのやら」
俺は早速、紗季先輩から出された指令を遂行しなくてはいけないようだ。
七月二十六日、日曜日。
俺は、翠から指定された喫茶店へと入っていく。
商店街の一角にあるその喫茶店は、地元の町だというのに存在すら知らなかった場所だった。
そして、扉を開けると「カラン、カラン~」というアンティークなベルの音が店内に鳴り響き、カウンターの男性と目が合った。
年齢は五十代くらいで、身長はおそらく俺よりも高く、白髪の髪の毛に黒いエプロン姿という、まさに喫茶店のマスターという風格が出ているような人だった。
「どうぞ、お好きな席へ」
そして見た目に寄らず、物腰柔らかい口調で接してくれる。
一応、店内を見回すが、翠の姿はなく年配の男女が一組いるだけだった。
「あの、待ち合わせしてるんですが……」
そう伝えると、マスターの風格をした人は「では、テーブル席へ」と言ってくれたので、俺は頭を下げたのち、言われた通り奥のテーブル席を選ぶと、すぐに水とおしぼりを持ってきてくれた。
他に店員がいないところを見ると、一人で店を切り盛りしているようだ。
店内には焙煎したコーヒーの匂いが漂い、オレンジ色に光る店内の照明は自然と心を落ち着かせてくれた。
緩やかに流れるBGMも会話の邪魔にならない程度で、外の世界と切り離されているような時間の流れを感じてしまう。
正直、いつもの翠のイメージからは、全くかけ離れた店のチョイスだった。
そして、扉に掛けられたベルの音がまた店内に響き渡ると、そこに俺をここに呼び出した張本人が現れた。
ロゴの入った白いTシャツに膝より少し上まで露出させている短いジーンズ姿の翠は、俺の姿を確認すると、すぐにこっちへと近づいてくる。
「なんだ、先に来てたのね」
「遅いと怒るだろ、お前」
「別に、そんなことで怒んないわよ」
普通に会話ができているところを見ると、昨日までの不機嫌さは大分和らいでいるようで、翠が席につくと、さっきのマスターが俺のときと同じように水とおしぼりをテーブルに置いて、注文を承るための伝票を取り出した。
「慎太郎、あんたもまだ頼んでないの?」
「ああ、翠が来てからのほうがいいと思って」
「じゃあ、一緒に頼むからあんたも選んどいて。あっ、あたしはいつものクリームソーダでお願いします」
「いつもの」と言っているあたり、本当に翠はここの常連のようだ。
続けて俺はアイスコーヒーを頼むと、マスターはすぐにカウンターに戻っていった。
「お前、こんな場所知ってたんだな」
五年後の記憶でも、この喫茶店に連れてこられた記憶はないのでそう尋ねると、翠は頬杖をつきながら俺に言った。
「まあね。昔、お母さんと買い物に来たときによく連れて来てくれたの。それで、一人でも行くようになったんだけど、ほら、ここって静かだし、あまり友達と行くっていうのとは違う気がしてさ。ま、そんな感じ。わかる?」
翠は自分ではあまりうまく説明できていないと思っているのだろうが、俺は翠の気持ちがなんとなく理解できた。
きっと、この場所は翠にとって、俺が先輩と過ごす図書室のようなものなのだろう。
心が落ち着いて、時間を忘れてしまうくらいゆっくりと過ごせる場所。
あまりそういうセンシティブなことに無頓着だと思っていたけれど、翠だって、いつも明るくて活発な少女という訳じゃない。
当時の俺が、そんな翠の一面を知ることができていなかったというだけの話だ。
「だから、あんまり人に教えないでよ」
「わかってる。というか、俺にそんな相手がいないことはよく知ってるだろ?」
「ま、それもそうね」
俺の自虐にも全く悪びれることなく受け流すあたりは、さすがは幼なじみといったところだ。
そして、そんな何気ない会話を続けていると、マスターが俺たちの注文した品を持ってきてくれた。
俺のアイスコーヒーはグラスに入ったシンプルなものだったが、翠が頼んだクリームソーダは、グラスもパフェに使われるような凝ったデザインのものを使用し、メロンソーダの表面にはフロートが乗せられ、さらにその上にチェリーやオレンジなど色とりどりの果物を乗せた非常に豪華な仕様だった。
そして、翠が美味しそうにフロートを口に運んでいる様子をみてしまったら、邪魔をしてはいけない気がしたので、しばらくの間は翠がクリームソーダを堪能するのを待っておくことにした。
俺も、その間にアイスコーヒーを頂いたのだが、しつこくない苦みとコクが口の中に広がる美味しさで、できることならこのまま本を取り出して読書に耽りたいくらいだったのだが、さすがにそんな態度を取ってしまうと翠に怒られそうな気がしたので自重する。
そして、ある程度二人でマスターがつくってくれた飲み物を堪能したところで、俺は話を切り出した。
「それで、翠。俺に話したいことってなんだよ?」
翠が、休みの日に呼び出してまで話したかったことだ。
間違いなく、重要なことに違いない。
すると、俺の予想が正解だったと証明するように、翠はさっきまでの楽しそうな顔から一変して、じっと俺を吟味するような目線を送る。
そして、たっぷりと時間をとった後に、俺にこんな質問を投げかけてきた。
「あんた、黒崎先輩とはどういう関係なの?」
一瞬、俺と翠の間に沈黙の時間が流れる。
「どういう関係って……」
「いいから答えて。大事なことだから」
翠は真剣なのがありありと伝わってきたので、俺も冗談を交えることなく返答した。
「別に、図書委員の先輩後輩ってだけだよ。それ以上でも以下でもない」
すると、翠はしばらく俺の言葉を吟味するように考え込んで、口を開いた。
「そう……わかった。とりあえず、あんたを信じる」
信じるって、俺がここで嘘をつく理由なんてどこにもない気がするのだが……。
しかし、疑問を浮かべる俺に対して、翠はとんでもないを口走った。
「ねえ、慎太郎。あんた、もうあの人と関わらないほうがいいよ」
「…………は?」
思わず声が出てしまったが、そんなことを全く意にも返さない翠は話を続ける。
「絶対に、そのほうがいい。あんたの為なの」
「……おい、それってどういうことだよ?」
「それは……」
途端、翠は顔を逸らして言い淀む。
何か、俺に伝えようとしているようだが、まだそのことを躊躇っているようだ。
ただ、俺もずっと疑問に思っていることがあった。
「なあ、翠。お前、紗季先輩のことになったらやけに機嫌が悪くなるっていうか、普段の態度とは全然違う気がするんだけど、それって俺の気のせいじゃないよな?」
こうやって過去に戻ってきてわかったことだが、翠は明らかに紗季先輩のことを敵視しているように感じたのだ。
「もし、気のせいじゃないのなら、その原因を俺に話してくれようとしてるんじゃないか?」
「…………」
翠は俺の質問を誤魔化すように、目の前に置いてあったクリームソーダをスプーンでかき回した。
まだ少しだけ残っていたアイスが、淡い緑色をしたソーダ水に溶けていき、白く染まっていく。
だが、翠も覚悟を決めたのか、きつく結んでいた唇を解いて俺に告げた。
「……私、見ちゃったの。先輩が……違う街で歩いているところ……」
「……は?」
なんだ、その曖昧な表現は?
「いや……そりゃあ、先輩だって出かけたりすることあんだろ?」
確かに、あの深窓の令嬢という表現が似合う紗季先輩が、違う街に出かけるというのは想像しにくいかもしれないけれど、先輩だって人間なのでそれぐらいの移動はするだろう。
ここが田舎とはいえ、繁華街がある街には電車を乗り継げば一時間ほどで到着するし、俺だって買い物で出かけることが年に何回かある。
もしかしたら、紗季先輩はショッピングに興味があるのかもしれないし、なんなら大声でカラオケを歌うかもしれない。
「違うわよ、そうじゃなくて……」
翠はしばらく口ごもっていたのだが、俺がじっと待っていてると観念したかのように、息を吐き出した。
「その……男の人と、いかがわしいホテルに入っていくの……」
最初は、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
だが、それもすぐに思考が追い付く。
そして、翠がどうしてこんなに言い淀んでいたのかが理解できた。
それを証明するかのように、翠は話を付け加えた。
「ごめん……悪いことをしたと思ってる。でも、たまたま黒崎先輩を駅で見かけて……それで、気になって追いかけちゃって……」
俺だって、その内容の意味が分からないほど、子供じゃない。
「……そんなの、嘘だろ。先輩がそんなことするわけ……」
「でも、あたし、本当に見たんだもん……男の人と、ホテルに入っていくの……。しかも、相手はあたしたちなんかより、ずっと年上のサラリーマンっぽい人だった……それでさ、もしかしたらあの人、そういうことやってるんじゃないかって……」
「……お前の見間違いだろ」
「違う! 絶対にあれは……黒崎先輩で……」
「先輩が、そんなことするわけないだろっ!!」
バンッ! と、静かな店内に不穏な音が響き渡る。
気が付いたときには、俺は机を手で叩いて、目の前にいる翠を睨みつけていた。
翠は、怯えたような目で俺を見つめる。
だけど、その瞳の中には、本気で俺を心配してくれる感情が浮かび上がっていた。
それは、夏祭りのあの日、紗季先輩のことは忘れたほうがいいと言った翠と同じ目をしていた。
それがわかったから、俺はこれ以上翠のことを責めることはできなくなってしまった。
そして、俺に向けられている視線に気づき、そちらのほうを見ると、あんなに穏やかそうにしていたマスターの顔が鋭い眼光を放った険しい表情になっていた。
「……俺、もう帰るから」
そう言って、咄嗟に財布の中にあった千円札を二枚、机に置いて立ち去った。
「慎太郎っ!」
立ち去る寸前、翠は俺を呼び止めてくれたけれど、俺は逃げるように店内から飛び出し、そのまま走り去った。
外に出た瞬間、強烈な日差しと暑さにやられて、目が眩む。
まるで、俺に罰を与えようと、太陽が業火の炎を燃やしているようだった。
七月二十七日、月曜日。
翠から、紗季先輩にまつわる話を聞いた翌日。
俺はまた、学校まで続く坂道を自転車で漕いでいた。
昨日はほとんど眠れなかったため、重い瞼を擦りながらの登校になってしまう。
それでも、夏の暑さが容赦なく俺を襲ってきて、ペダルを踏むたびに身体から大量の汗が流れてきて気持ち悪い。
あれから、翠からは何も連絡がない。そのことに罪悪感を覚えると同時に、昨日翠から話されたことが頭の中で何度も繰り返されて、とても穏やかに眠れるような心情ではなかった。
俺の知らなかった、紗季先輩の一面。
そして、俺が知っている紗季先輩は、この夏、自ら命を絶つ。
まさか、昨日の翠の話と、何か関係しているのだろうか?
先輩が、知らない誰かとホテルで会っていたのだとしたら……。
「……あ」
しかし、そんな思考は、停止してしまう。
何故なら、目の前に、よく見知った背中を目撃したからだ。
学校から指定されたカッターシャツにスカート姿。
長く伸びる足は黒のニーハイソックスに隠れているものの、そのすらりとしたフォルムは鮮明と浮き出していた。
「……ん?」
そして、俺の自転車が近づいてくる音に気付いたのか、彼女も振り返る。
俺は、彼女のすぐそばで自転車を止めた。
「やあ、おはよう。慎太郎くん」
すると、紗季先輩は、いつものように微笑み、俺に挨拶をする。
こんなに暑いというのに、先輩は汗一つかいてなくて、涼しい顔をしていた。
「よかった。今日は遅くなってしまったから、きみを待たせてしまうことになるかと思ったよ」
自転車を押しながら、隣で歩く俺に対して、紗季先輩は本当にほっとしたような、そんな表情を見せる。
「……ん、どうしたんだい?」
「えっ? どうしたって、何がですか?」
すると、紗季先輩は少し困ったような顔をして、俺に言った。
「いや、少しいつもの慎太郎くんと違うような気がしてね。なんだか元気がないようにみえたんだけど、私の気のせいだろうか?」
そういって、先輩は一歩だけ俺に距離を詰めてくる。
手を伸ばせば、先輩の身体に触れることができるその距離に、自然と脈があがってしまう。
俺は、先輩が近づいてきた距離の半歩分だけ下がり、慌てて口を開く。
「いや……昨日、なかなか寝付けなくって……それで、寝不足というか……」
「ふむ、そうか。確かに昨日も夜は暑かったからね」
俺の言い訳に納得したのか、紗季先輩はまた、柔らかい笑みをつくる。
「それでは慎太郎くん、今日はあまり無理せず私に甘えてくれたまえ。私も、たまには先輩らしいところをみせようじゃないか」
先輩は、胸に手を当ててそう宣言した後、どこか上機嫌で俺の横に並ぶ。
「では、今日は一緒にゆっくり行こうか、慎太郎くん」
少しだけ風が吹き、先輩の黒髪が揺れると優しく心地よい香りが俺の鼻腔をくすぐった。
しかし、先輩はそんな俺を置いていき、先に歩き出す。
俺は、先輩から離れないように、同じ歩幅で歩きだした。
並んで歩く先輩の姿を、俺は横目で確認する。
俺より少し小さい先輩の姿に、どこか頼りなさを感じてしまう。
「慎太郎くん?」
だが、俺の視線に気づいたのか、先輩も横を向いて俺に問いかけてきた。
「なんだい? 今日の慎太郎くんは、やけに私のことが気になるみたいだね?」
ふふっ、顎に手を乗せて、どこか挑発的な微笑をする先輩に向かって、俺は尋ねる。
「いや、先輩は昨日、どうだったのかな……って思って」
本当は、もっと聞きたいことがあったはずなのに、俺は怖くて聞くことができなかった。
「昨日……。ああ、兄さんのことかい?」
しかし、先輩はどうやら俺がお兄さんのことを気にしていると受け取ったようで、話を続けた。
「そうだね。兄さんは私たち家族と会えて嬉しそうだったよ。二人の両親にとっては、兄さんは自慢の子供だからね」
俺は、また自然と「仲がいいんですね」と、口に出してしまいそうになって、慌てて止めた。
何故なら、一昨日、同じ言葉を言って、先輩が複雑な表情を浮かべたからだ。
「兄さんは、私とは違うからね……」
そう呟く先輩の声は、やはり悲しそうな顔をしていた。
だから、というわけじゃないが、俺は自然と紗季先輩に向けて、こう告げていた。
「先輩は、先輩ですよ」
思わず出てきた言葉を、俺はもう一度、はっきりと伝える。
「先輩は……俺の先輩です。だから、えっと……」
しかし、途中から自分が何を話したいのかわからなくなってしまい、困惑する。
ただ、伝えたい気持ちはあるはずなのに、それを言葉にできなかった。
「……慎太郎くん」
だが、先輩はそんな俺に対して、優しく、そして嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
そして、そのたった一言が、俺が先輩に伝えたい感情だと気づかされた。
今日もまた、何気ない一日が始まる。
そして、そんな一日が、俺がずっと守りたかった日々なのだと、痛感させられるのだ。
今週もまた、翌日、翌々日と、時間は流れていく。
それから、俺は自分の家と学校の図書室を往復するだけの生活を送ることになった。
図書室に行けば紗季先輩がいて、軽い会話を交わしたり、お互い勉学に励んだりと、そんな日常が続いていく。
もしかしたら、このまま先輩と過ごしていれば、彼女は自分から命を絶つようなことはせず、ずっと俺の傍にいてくれるんじゃないのかと、そう思うことが何度もあった。
実際、俺が経験した過去とは違う経験を俺自身がしているということは、先輩もそうだという証左になる。
ただ、未だに俺は自分が何故この時代に来れたのかわかっていないし、俺はもう二度と本来の時間軸に戻ることなく、またこの世界で自分の人生をやりなおすことになるかもしれない。
でも、それでもいいと思う。
あの、俺にとっては何もない世界に戻るよりは、こっちの……紗季先輩がいる世界のほうが、俺にとっては正しい世界なのだから。
そして、現在の日付は、七月三十一日。
夏も本格化していき、八月を迎える前に日本列島は連日のように猛暑日を記録していた。
俺はいつものようにクーラーの効いた図書室で、先輩の隣に座り本を読んでいた。
殆ど毎日課題をしてしまったせいで、夏休みの課題はあっという間に終わってしまった。昔は課題を片づけるのに苦労した記憶があったのだが、集中して取り組めばこんなに早く終わってしまうのかと、喜びよりも虚無感のほうが強く印象に残った。
紗季先輩も、三年生なので指定の課題はないようだが、毎日午前中は何かの参考書を開いて勉学に励んでいる。
ただ、昼食を摂ったあとの午後からは、読書の時間にあてているようだった。
今、先輩が読んでいるのは、坂口安吾の『白痴』という小説だった。
そして、紗季先輩は最後のページを捲ると、名残惜しそうに本を閉じて、自分の机の前に置いたのちに、紗季先輩は俺に問いかける。
「慎太郎くんは、この作品を読んだことはあるかい?」
「……すみません。正直、あまり詳しくは……」
素直に『読んだことがない』と言わなかったのは、図書委員としての見栄というよりは、紗季先輩の前であまり情けない所を見せたくないという気持ちのほうが強かった。
「まあ、簡単なあらすじになるんだけど、戦時下で映画の演出家見習いをしていた男と、隣家の女性との関係を描いた作品でね」
紗季先輩は、憂いを帯びた表情で俺にそう語ってくれた。
「戦時下という舞台設定もあって、人間が抱く『愛』について考えさせられる作品だよ。もしよかったら、時間があるときに目を通すことをお勧めするよ。それに、私も慎太郎くんがどう感じたのか、少し興味があるからね」
紗季先輩は、俺の目をじっと見ながらそう告げた。
いつもなら、俺は「わかりました」と言って、なんならそのまま先輩から借りていくくらいのことはするのだが、何故か今回だけは、そんな風には思えなかった。
違和感があったのだ。
何か、根本的な違い……先輩がいつものように本を薦めてくれているだけじゃないような気がしたのだ。
しかし、その答えがわからないまま、先輩が視線を逸らしてしまったので、この話はそのまま終わりとなってしまった。