七月二十六日、日曜日。

 俺は、(みどり)から指定された喫茶店へと入っていく。

 商店街の一角にあるその喫茶店は、地元の町だというのに存在すら知らなかった場所だった。

 そして、扉を開けると「カラン、カラン~」というアンティークなベルの音が店内に鳴り響き、カウンターの男性と目が合った。

 年齢は五十代くらいで、身長はおそらく俺よりも高く、白髪の髪の毛に黒いエプロン姿という、まさに喫茶店のマスターという風格が出ているような人だった。

「どうぞ、お好きな席へ」

 そして見た目に寄らず、物腰柔らかい口調で接してくれる。

 一応、店内を見回すが、翠の姿はなく年配の男女が一組いるだけだった。

「あの、待ち合わせしてるんですが……」

 そう伝えると、マスターの風格をした人は「では、テーブル席へ」と言ってくれたので、俺は頭を下げたのち、言われた通り奥のテーブル席を選ぶと、すぐに水とおしぼりを持ってきてくれた。

 他に店員がいないところを見ると、一人で店を切り盛りしているようだ。

 店内には焙煎したコーヒーの匂いが漂い、オレンジ色に光る店内の照明は自然と心を落ち着かせてくれた。

 緩やかに流れるBGMも会話の邪魔にならない程度で、外の世界と切り離されているような時間の流れを感じてしまう。

 正直、いつもの翠のイメージからは、全くかけ離れた店のチョイスだった。

 そして、扉に掛けられたベルの音がまた店内に響き渡ると、そこに俺をここに呼び出した張本人が現れた。

 ロゴの入った白いTシャツに膝より少し上まで露出させている短いジーンズ姿の翠は、俺の姿を確認すると、すぐにこっちへと近づいてくる。

「なんだ、先に来てたのね」

「遅いと怒るだろ、お前」

「別に、そんなことで怒んないわよ」

 普通に会話ができているところを見ると、昨日までの不機嫌さは大分和らいでいるようで、翠が席につくと、さっきのマスターが俺のときと同じように水とおしぼりをテーブルに置いて、注文を承るための伝票を取り出した。

「慎太郎、あんたもまだ頼んでないの?」

「ああ、翠が来てからのほうがいいと思って」

「じゃあ、一緒に頼むからあんたも選んどいて。あっ、あたしはいつものクリームソーダでお願いします」

「いつもの」と言っているあたり、本当に翠はここの常連のようだ。

 続けて俺はアイスコーヒーを頼むと、マスターはすぐにカウンターに戻っていった。

「お前、こんな場所知ってたんだな」

 五年後の記憶でも、この喫茶店に連れてこられた記憶はないのでそう尋ねると、翠は頬杖をつきながら俺に言った。

「まあね。昔、お母さんと買い物に来たときによく連れて来てくれたの。それで、一人でも行くようになったんだけど、ほら、ここって静かだし、あまり友達と行くっていうのとは違う気がしてさ。ま、そんな感じ。わかる?」

 翠は自分ではあまりうまく説明できていないと思っているのだろうが、俺は翠の気持ちがなんとなく理解できた。

 きっと、この場所は翠にとって、俺が先輩と過ごす図書室のようなものなのだろう。

 心が落ち着いて、時間を忘れてしまうくらいゆっくりと過ごせる場所。

 あまりそういうセンシティブなことに無頓着だと思っていたけれど、翠だって、いつも明るくて活発な少女という訳じゃない。

 当時の俺が、そんな翠の一面を知ることができていなかったというだけの話だ。

「だから、あんまり人に教えないでよ」

「わかってる。というか、俺にそんな相手がいないことはよく知ってるだろ?」

「ま、それもそうね」

 俺の自虐にも全く悪びれることなく受け流すあたりは、さすがは幼なじみといったところだ。

 そして、そんな何気ない会話を続けていると、マスターが俺たちの注文した品を持ってきてくれた。

 俺のアイスコーヒーはグラスに入ったシンプルなものだったが、翠が頼んだクリームソーダは、グラスもパフェに使われるような凝ったデザインのものを使用し、メロンソーダの表面にはフロートが乗せられ、さらにその上にチェリーやオレンジなど色とりどりの果物を乗せた非常に豪華な仕様だった。

 そして、翠が美味しそうにフロートを口に運んでいる様子をみてしまったら、邪魔をしてはいけない気がしたので、しばらくの間は翠がクリームソーダを堪能するのを待っておくことにした。

 俺も、その間にアイスコーヒーを頂いたのだが、しつこくない苦みとコクが口の中に広がる美味しさで、できることならこのまま本を取り出して読書に耽りたいくらいだったのだが、さすがにそんな態度を取ってしまうと翠に怒られそうな気がしたので自重する。

 そして、ある程度二人でマスターがつくってくれた飲み物を堪能したところで、俺は話を切り出した。

「それで、翠。俺に話したいことってなんだよ?」

 翠が、休みの日に呼び出してまで話したかったことだ。

 間違いなく、重要なことに違いない。

 すると、俺の予想が正解だったと証明するように、翠はさっきまでの楽しそうな顔から一変して、じっと俺を吟味するような目線を送る。

 そして、たっぷりと時間をとった後に、俺にこんな質問を投げかけてきた。

「あんた、黒崎(くろさき)先輩とはどういう関係なの?」

 一瞬、俺と翠の間に沈黙の時間が流れる。

「どういう関係って……」

「いいから答えて。大事なことだから」

 翠は真剣なのがありありと伝わってきたので、俺も冗談を交えることなく返答した。

「別に、図書委員の先輩後輩ってだけだよ。それ以上でも以下でもない」

 すると、翠はしばらく俺の言葉を吟味するように考え込んで、口を開いた。

「そう……わかった。とりあえず、あんたを信じる」

 信じるって、俺がここで嘘をつく理由なんてどこにもない気がするのだが……。

 しかし、疑問を浮かべる俺に対して、翠はとんでもないを口走った。

「ねえ、慎太郎(しんたろう)。あんた、もうあの人と関わらないほうがいいよ」

「…………は?」

 思わず声が出てしまったが、そんなことを全く意にも返さない翠は話を続ける。

「絶対に、そのほうがいい。あんたの為なの」

「……おい、それってどういうことだよ?」

「それは……」

 途端、翠は顔を逸らして言い淀む。

 何か、俺に伝えようとしているようだが、まだそのことを躊躇っているようだ。

 ただ、俺もずっと疑問に思っていることがあった。

「なあ、翠。お前、紗季先輩のことになったらやけに機嫌が悪くなるっていうか、普段の態度とは全然違う気がするんだけど、それって俺の気のせいじゃないよな?」

 こうやって過去に戻ってきてわかったことだが、翠は明らかに紗季先輩のことを敵視しているように感じたのだ。

「もし、気のせいじゃないのなら、その原因を俺に話してくれようとしてるんじゃないか?」

「…………」

 翠は俺の質問を誤魔化すように、目の前に置いてあったクリームソーダをスプーンでかき回した。

 まだ少しだけ残っていたアイスが、淡い緑色をしたソーダ水に溶けていき、白く染まっていく。

 だが、翠も覚悟を決めたのか、きつく結んでいた唇を解いて俺に告げた。

「……私、見ちゃったの。先輩が……違う街で歩いているところ……」

「……は?」

 なんだ、その曖昧な表現は?

「いや……そりゃあ、先輩だって出かけたりすることあんだろ?」

 確かに、あの深窓の令嬢という表現が似合う紗季先輩が、違う街に出かけるというのは想像しにくいかもしれないけれど、先輩だって人間なのでそれぐらいの移動はするだろう。

 ここが田舎とはいえ、繁華街がある街には電車を乗り継げば一時間ほどで到着するし、俺だって買い物で出かけることが年に何回かある。

 もしかしたら、紗季先輩はショッピングに興味があるのかもしれないし、なんなら大声でカラオケを歌うかもしれない。

「違うわよ、そうじゃなくて……」

 翠はしばらく口ごもっていたのだが、俺がじっと待っていてると観念したかのように、息を吐き出した。

「その……男の人と、いかがわしいホテルに入っていくの……」

 最初は、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。

 だが、それもすぐに思考が追い付く。

 そして、翠がどうしてこんなに言い淀んでいたのかが理解できた。

 それを証明するかのように、翠は話を付け加えた。

「ごめん……悪いことをしたと思ってる。でも、たまたま黒崎先輩を駅で見かけて……それで、気になって追いかけちゃって……」

 俺だって、その内容の意味が分からないほど、子供じゃない。

「……そんなの、嘘だろ。先輩がそんなことするわけ……」

「でも、あたし、本当に見たんだもん……男の人と、ホテルに入っていくの……。しかも、相手はあたしたちなんかより、ずっと年上のサラリーマンっぽい人だった……それでさ、もしかしたらあの人、そういうことやってるんじゃないかって……」

「……お前の見間違いだろ」

「違う! 絶対にあれは……黒崎先輩で……」

「先輩が、そんなことするわけないだろっ!!」

 バンッ! と、静かな店内に不穏な音が響き渡る。

 気が付いたときには、俺は机を手で叩いて、目の前にいる翠を睨みつけていた。

 翠は、怯えたような目で俺を見つめる。

 だけど、その瞳の中には、本気で俺を心配してくれる感情が浮かび上がっていた。

 それは、夏祭りのあの日、紗季先輩のことは忘れたほうがいいと言った翠と同じ目をしていた。

 それがわかったから、俺はこれ以上翠のことを責めることはできなくなってしまった。

 そして、俺に向けられている視線に気づき、そちらのほうを見ると、あんなに穏やかそうにしていたマスターの顔が鋭い眼光を放った険しい表情になっていた。

「……俺、もう帰るから」

 そう言って、咄嗟に財布の中にあった千円札を二枚、机に置いて立ち去った。

「慎太郎っ!」

 立ち去る寸前、翠は俺を呼び止めてくれたけれど、俺は逃げるように店内から飛び出し、そのまま走り去った。

 外に出た瞬間、強烈な日差しと暑さにやられて、目が眩む。

 まるで、俺に罰を与えようと、太陽が業火の炎を燃やしているようだった。