「……慎太郎くん」

 そして、口を開いた彼女は僕にこう告げた。

「近い」

 そう言われて、俺は初めて自分が前のめりになって先輩に話しかけていたことに気が付いた。

「あっ! えっと、すみません!!」

 俺は自分の失態に気が付いて、慌てて先輩の傍から離れようとする。

「わっ、わあああっ!」

 だが、それがマズかった。

 勢いあまって着地した自分の椅子が、そのまま見事に後ろに倒れてしまい、俺は全身でその衝撃を受けるはめになってしまった。

「い、いってー……」

 頭への強打は免れたものの、先輩の前で実に情けない失態を晒してしまった。

「……ふふっ」

「……先輩?」

 だが、起き上がって紗季先輩のほうに視線を向けると、彼女はお腹を抱えながら、必死に何かを我慢しているように顔を歪めていた。

「……ふふっ、あははははははははははっっ!」

 しかし、その我慢にも限界が来たようで、紗季先輩は大声をあげて笑い始めた。

 俺は、そんな無邪気に笑う先輩を見るのが初めてで、最初はただ茫然とその姿を眺めているだけだった。

 だけど、あまりにも紗季先輩が可笑しそうに笑うので、段々と自分も恥ずかしくなってきてしまい、反抗するような声を上げてしまう。

「わ、笑いすぎですよ先輩ッ!」

「すまないっ……! でも、おかしくって……あははっ!」

 いつもは凛としていて、大人びた印象を受けていたけれど、今の先輩は本当に小さな子どものように笑っていて、俺にとっては不思議な光景だった。

「……あー、こんなに笑ったのは久しぶりだよ」

 そう言いながら、紗季先輩は笑いすぎて目に溜まっていた涙を拭うと、今度は先ほどまでとは違う、いつもの先輩らしい口調で、僕に告げた。

「ありがとう、慎太郎くん」

 そして、彼女は独り言を呟くように話す。

「それにしても……大切な人、か」

「……はい?」

 急にそんなことを言うので、俺が首を傾げていると、その様子をみて悟ったのか、紗季先輩は俺に告げた。

「さっき、慎太郎くんが言っただろ? 大切な人がいるって。慎太郎くんにも、そういう人がいたんだね。ちょっと意外だったよ」

 それは決して、俺を貶しているとか、そういう類のものじゃなくて、本当に言葉通りの意味なんだと思った。

 そして、紗季先輩は俺から視線を外して、また寂しそうに呟く。

「…………羨ましいな」

「……えっ?」

 羨ましい、という言葉の意味が分からなくて、俺が紗季先輩に問い返す。

「……いや、なんでもないよ。変なことを言ってしまったね。今のは忘れてくれたまえ」

 紗季先輩は、いつもの余裕のある笑みではなく、本当に失言だったと、僕に気を遣うような笑みを浮かべていた。

「…………」

 だが、紗季先輩はまだ何か言いたそうに、じっと下を向いていた。