夏の終わりを、私に教えて。


慎太郎(しんたろう)くんは、夏が嫌いになったことはないかい?」

 唐突に、彼女が俺にそう尋ねてきた。

 綺麗に伸びた、清涼感のある黒色の髪。
 日差しを浴びた形跡がない、白い肌。

 そして、制服の袖からは女性らしい細い腕が伸びていて、その爪先はネイルなどをしておらず自然な光を反射させていた。

 見た目だけなら、気弱な女子生徒を連想しそうな容姿だったが、一年間も彼女と一緒にいた俺には、そんな印象はとっくの昔に消え去ってしまっていた。

 静寂な図書室で、彼女はそのまま俺の隣の席に座りながら、微笑を浮かべて話を続ける。

 終業式が終わり、明日から俺たちの学校も夏休みを迎える。

 外では炎天下だというのに運動部の掛け声が聞こえ、青春の汗を流しているところだった。

 一方、俺たちはクーラーの効いた図書室で、雑談に興じていた。

 しかし、その内容は雑談と言うにはあまりにも理解が追い付かず、いきなり彼女の口から発せられた疑問に俺は首を傾げるばかりだ。

 だが、そんなことは全く関係ないと主張するように、彼女は話を続けた。

「私はね、ずっと夏が嫌いなんだよ」

 さも当たり前のように、自然な口調でそう告げる彼女。

 そんな彼女に対して適切な相槌を打てるはずもなく、俺はただ黙って彼女の話の続きを待つしかない。

「だから、もし私が願いを一つだけ叶えるのだとしたら、二度と夏が来ないようにしてほしいって神様に頼むつもりでね」

 そんな俺の態度を考慮してくれたのか、彼女は淡々と話を進める。

「なかなかいいアイディアだと思うんだけど、慎太郎くんが夏が好きで、もしこのお願いが成就されてしまうようなことになったら、私は悪い事をしちゃうことになるからね。先に謝っておこうと思ったんだ」

 やはり、彼女の言っていることは、俺には理解できなかった。

「ただ、そうだね……」

 そして、視線を向ける俺に向かって、彼女は微笑を浮かべながら、こう告げたのだ。

「それとも、私が消えてしまえばいいのか……」

 それは、酷く悲しく、そして何かを諦めているような、そんな声色。

 だが、この時の俺は、彼女が結局何を言いたかったのか理解するのを諦めていた。

 きっとまた、この人の抽象的な自己表現なのだと、気にも留めていなかった。

 〇 〇 〇

 だが、それが俺、白石(しらいし)慎太郎(しんたろう)が聞いた黒崎(くろさき)紗季(さき)の最後の言葉となり、あの日以来、俺は紗季先輩とは会っていない。

 そして俺は、今なら彼女の言葉に素直に肯くことができるだろう。

 
 今の俺は、どうしようもなく夏が嫌いだ。

 
 ――何故なら、その夏に、彼女は自殺をしてしまったのだから。
 
 


「……あー、暑すぎるだろ、これ」

 蒸し暑い部屋に閉じこもり、俺は持ってきたノートパソコンを開いたままベッドの上で寝転がり、動画サイトで適当な動画を見ながらダラダラと時を過ごしていた。

 着ているシャツは汗まみれで気持ち悪いし、ブオオッとうるさい音を立てながら送ってくる扇風機の風も、焼き石に水状態でほとんど効果はない。

 すぐにでもシャワーを浴びてすっきりしたいが、二階のこの部屋から浴室へ向かうことすら面倒くさい。

 このまま干からびそうになる俺だったが、ギィギィ、と階段を上る人の足音がこちらに近づいてくることに気付いて身体を起こす。

「慎太郎、入るわよー」

 そして、ノックもせずに開けられた扉の先には、三日月形に切ったスイカと麦茶の入ったコップをお盆に載せた母さんの姿があった。

「……はぁ、呆れた。あんた、大学のレポートやるからって部屋に行ったんじゃなかったの? ゴロゴロしてるだけなら、叔父さんたちと一緒にいればいいじゃない」

「休憩してただけだよ。つーか、なんでクーラー壊れてるの?」

 すかさず俺がこんな状況になっている原因について言及すると、母さんはあっさりと言い返してきた。

「仕方ないでしょ。あんたがいなくなってから全然使ってなかったんだから。扇風機も出してあげたんだから、今はそれで我慢しなさい」

 なぜ俺が怒られなければならないのかと不満を漏らしたくもなるが、そんなことをしても壊れたクーラーが直るわけでもないので、それ以上は何も言わないことにした。

 しかし、母さんはどうやら違ったようで、俺に対しての不満をこれでもかとぶつけてくる。

「だいたい、大学に行ってから全然連絡してこないから、お父さんと二人で心配してたのよ。あんた、お母さんが連絡しなかったら、今年も帰ってこないつもりだったでしょ?」

「それは……」

 図星だったので、何も言い返せなかった。

 本当なら、今頃大学の近くに借りたアパートで、来期で必要なゼミのレポートをまとめているはずだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

「全く……(みどり)ちゃんは毎年帰って来るっていうのに、あんたは親不孝者だよ。ほら、スイカと飲み物置いていくから、キリがいいところでちゃんと降りてくるのよ。わかったわね?」

 最後まで口うるさく小言を挟んでいった母さんは、また親戚たちが集まっているリビングへと戻っていった。

 俺は、特にそんな母さんにお礼をいうことなく、持ってきた麦茶を一気飲みする。

 つい先ほどまで冷蔵庫に入っていたのか、冷えた麦茶は乾いた喉を潤すことに一役買ってくれた。

 ただ、その勢いでスイカにも手を伸ばしたが、残念ながらこちらはそれほど冷えていなかったので、微妙ではあったものの、ちゃんと全部食べることにした。

 そして、一時間ほど経過しても、食べ終わったお盆を母が取りに来る様子はなく、下のリビングからは昼から酒を飲んでいる親戚たちの笑い声がここまで届いていた。

「……今降りても、絶対面倒なんだよな」

 別に、叔父さんたちが嫌いだというわけではない。

 だが、俺も酒が飲める年齢になってしまったせいなのか、叔父さんたちはやたらと俺と一緒に飲もうとしたがった。

 こんな何の面白みもない俺と一緒に酒を飲んで楽しいのか、甚だ疑問である。

 さっきは大学のレポートが残っているからと上手くあしらったものの、もうすぐ始まるであろう夜の宴会が始まってしまえば、そうもいかないだろう。

 元々、人と話すことが得意じゃないので、出来れば避けないイベントだ。

「……ん?」

 だが、そんな俺の心境とは裏腹に、窓の外から軽やかな祭囃子の音頭が聴こえてきて、いつの間にか、外の景色も夕暮れに近いものになっていた。

「……ああ、そうか。今日って神社の祭りがある日だったっけ」

 太鼓の音で、俺の古い記憶が浮かび上がってきた。

 別段珍しくないことだが、この町でも近くの神社の境内で縁日の祭りがおこなわれる。田舎らしい小さな規模の祭りだが、それなりに人も集まって、打ち上げ花火なんかも上がったりする。

 俺も子供の頃は屋台を回ったりしていたものだけど、中学になった辺りで行く相手もいなくなったので疎遠になっていた。

 それこそ、今のように外から聞こえてくる音を聞きながら、図書室で借りてきた本を読んでいて――。

「……別に、もう関係ねえよ」

 俺は、外れてしまいそうになった記憶の蓋を、無理やり閉じようとする。

 思い出したくもない記憶。

 きっと、それはどんな人間にもあって、この俺も例外なく、そんな記憶を持っている。

 そして、それが俺をこの町から出て行こうとした理由でもあった。


 俺は夏が嫌いだし、この町が嫌いだ。


 今年は爺さんの七回忌だからと母さんに説得されて帰って来たものの、今ではそのことも後悔している始末だ。

 もうレポートの続きをする気力も起きず、もう一度ベッドで横になろうとしたその時、放り投げていたスマホの画面が光っていることに気が付いた。

 どうやら誰かから電話が掛かってきているらしい。

 そして、画面の表示には、俺のよく知る人物の名前が表示されていた。

 俺はすぐにスマホを手に取って、電話に出る。

『あー、やっと出た。ねえ、慎太郎。あんたちゃんと準備できてんの? あたし、もう着替え終わったからいつでもいいわよ?』

 電話越しでもよく通る声に、溌溂とした物言い。

 だが、俺は首を傾げながら、そいつに質問を投げかける。

「えっと、翠。何のこと言ってんだ?」

『……はぁ。そんなことだろうと思った。どうせ、あたしの言ったことなんて覚えてないんでしょ……』

 電話越しで、翠がわざとらしいため息をついた。

 どうやら俺は、翠に呆れられるようなことをしてしまったらしいが、生憎、心当たりがありすぎて一つに絞れない。

 こういうとき、自分の記憶能力の無さに辟易してしまうが、今更反省したところで状況が変化するわけでもない。

 なので、俺は素直に翠が何のことを言っているのか教えてもらうことにした。

 そのことでもっと憤慨するだろうと思っていたのだが、翠は素直に口を走らせた。

『夏祭り。一緒に行くって約束したでしょ?』

「……あー」

 そういえば、そんな約束もしていたっけ。

『それじゃあ、あと十分だけ待ってあげる。その間にあたしの家まで来なさいよ。そんじゃ』

 そう言って、翠は一方的に俺に制限時間を与え、電話を切ってしまった。

「……勝手な奴」

 それだけ呟いて、俺は渋々汗だくのシャツを脱いで着替えを箪笥から引っ張りだす。

 翠……水菜翠と俺は、幼い頃からの同級生であり、家が近所ということでそれなりに交流があった。

 両親とも仲が良く、母さんや父さんも翠を自分の娘のように可愛がっているし、むしろ、先ほどの母さんの態度から、俺より翠のほうを可愛がっている傾向がある。

 まぁ、それに対して不満を抱くような子供ではないが、翠が何かと優等生であるがゆえに、比べられてしまう俺は何度も小言を言われる羽目になっている。

 やれやれ、と自虐をするだけしたところで、俺は着替えを終えて部屋から出て行く。荷物も簡素なバッグに財布を入れただけの軽装だ。

「あら、あんた、どこか行くの?」

 リビングから俺が通り過ぎるところが見えたのか、靴を履こうとした俺のところまで母さんがやってきた。

 その表情は、やや呆れと怒りが混じったように、眉間に皺が寄っていた。

「……翠が一緒に夏祭り行きたいっていうから付いていくことになった。飯は適当に置いてくれてたら食べるよ」

「あら、翠ちゃんと! なんだ、あんた、結構いいところあるじゃない」

 翠の名前を出した途端、明らかに上機嫌になる母を無視しながら、俺は玄関の扉を開ける。

「じゃ、行ってくる」

「はーい、翠ちゃんに宜しくって伝えといてねー」

 はいはい、と適当に相槌を打った俺は、外に出る。

 そして、夕方になっても熱気に包まれた夏の匂いは、また俺を不快な気持ちにさせるのだった。

 蒸し暑い熱気にさらされながら、俺は水菜(みな)家の前へとやって来る。

 田舎の一軒家らしい平屋のチャイムを鳴らすと「ブブー」という、これまたいかにも古めかしいチャイム音が響いた。

 そして「はいはい~」と家の中から聞こえて引き戸が開かれると、割烹着姿の中年の女性が姿を現した。

「あら、慎太郎(しんたろう)くん! 久しぶりね~、もしかして、わざわざ(みどり)を迎えに来てくれたの?」

「ええ……まあ」

「そう! 全く、あの子ったらいっつも慎太郎くんに甘えてばかりねぇ~。そうだ、あの子、大学でもちゃんとやってる? 昔からせっかちな子だから、家を出るって言った時も本当に心配で……」

 おばちゃんは、困惑する俺をよそに次々と質問を投げかけてくる。

 翠のおばちゃんとは、自分の両親たちと同様、四年も会っていなかったけれど、全然変わっていないな、と、心の中で呟いておいた。

「って、話してばっかりじゃ駄目よね。あの子すぐに呼んでくるからちょっと待っててね。あっ、それとも上がっていく? 丁度、スイカを貰ったところなのよ」

「あー、いえ。大丈夫です」

 生憎、スイカは丁度食べたところだったし、そんなことをしたら翠にまた小言を言われそうだ。

 俺が丁寧に断ると、おばさんも事情を理解していたのか、すぐに翠を呼んできてくれた。

 そして、俺を呼び出した張本人は、にんまりと笑いながら俺の前に姿を現した。