その瞬間、翠は勢いよく、紗季先輩に近づいていく。

 そして、俺が止める間もなく、翠は右手を大きく振り上げ……。

 パァン! と、乾いた音が木霊した。

「……ははっ」

 紗季先輩は、叩かれた頬を抑えながら笑い声を漏らし、酷く沈んた表情を浮かべていた。

「きみがそれで気が済むというのなら、私はいくらでも罰を受けるさ。きみには……慎太郎くんとずっと一緒にいたきみには……その権利があるんだから」

「……ッ!」

 紗季先輩の発言を聞いた翠は、俺たちに背を向けて、図書室を出て行こうとする。

「翠ッ!」

 俺は、去っていこうとする翠を引き留めようと声を掛けたが、彼女は止まることなく図書室から出て行った。

 一体、何秒くらい、俺は自分が固まっていたのか、わからない。

「……慎太郎くん」

 だが、俺の意識を戻してくれたのは、先輩の声だった。

 その声のほうに振り向くと、紗季先輩は叩かれた左の頬を抑えていた。

「慎太郎くん、きみはあの子のところへ行ってあげるといい。多分、今の彼女にはきみが必要だ」

 いつもの笑みを浮かべて、紗季先輩は俺にそういった。

「それより、先輩が……」

「ああ……これはいいんだ。自業自得だからね……」

 自分が頬を叩かれたことに関して、紗季先輩は翠のことを責めている様子はない。

 むしろ、それが当然だというように、受け入れているようだった。

 だが、たとえ当人が納得していようと、俺はそんなのは間違っていると、はっきり言おうとしたところで、それを阻止するかのように、先輩は口を開く。

「私のことはいいよ。だから、きみはあの子の傍に行ってあげるべきだ」

 真剣な目で、紗季先輩が俺を見つめた。

 それは今までに感じたことのない、意思を感じる目つきだった。

「わかり……ました……」

 悩んだ末に、俺は先輩の指示に従って翠を追いかけることにした。

 ――だが。

「ねえ、慎太郎くん……」

 図書室から出て行く俺の背中に、紗季先輩は告げる。

「私がさっき言ったことは、全部、忘れてくれ」

 俺は、そんな先輩の言葉に返事をしないまま、その場を立ち去った。