「先輩……どうして、俺にそんな話を……」

 思わずそう言ってしまった俺だったけど、先輩は少し考えるように唸る。

「そうだね……、あえて理由を付けるなら……私のことを、きみに知ってほしかったんだ」

 先輩はゆっくりと俺に近づいてくる。

「……えっ?」

 先輩から香る甘い香りが、どんどん強くなる。

 そして、先輩はゆっくりと、俺の身体を抱きしめてきた。

「……せ、先輩……!」

 先輩の身体は、温かくて、とても柔らかい。

 俺の身体は、鉛のように動けなくなってしまう。

「……慎太郎くん。昨日、私が言ったことを、覚えているかい?」

「昨日の……こと?」

「私が……帰りたくないと言ったことさ」

 紗季先輩が俺を抱く力が、しだいに強くなっていく。

「あのとき、私は本気だったんだよ。帰りたくなかったし、きみと……ずっと一緒にいたかった」

 静かな図書室で、先輩のわずかな呼吸音が、俺に耳に入って来る。

 それは、どこか熱っぽくて、官能的にさえ聞こえてしまう。

「ねえ、慎太郎くん。『白痴』の物語の最後が、どんなものか知っているかい?」

「えっ……?」

 突然、話が変わってしまったことに俺は面食らってしまう。

『白痴』といえば、坂口安吾の代表作で、以前紗季先輩が読んでいた本だ。

 しかし、俺はまだ読んではいなかった為、紗季先輩から教えてもらったあらすじ以外は、何も知らないままだった。

 そして、俺の反応をみてそのことを悟ったのか、紗季先輩はその結末を自らの口で語ってくれた。

「最後はね……空襲から逃げ延びた男は、一緒に助かった女の寝顔と鼾声を聞いて『豚のようだ』と思うんだよ。そして、一緒に生きていこうと言ったはずの男は、その女を置いて逃げ出したいと思いながら、希望のない朝を迎える、という場面で話が終わるんだ」

 それは……なんとも悲しい最後……じゃないだろうか?

 もちろん、そういう作品はいくらでもあるし、俺の好きな太宰治の作品だって、終始陰鬱な雰囲気で物語が進行していくことも少なくない。

 だが、なぜ今、その話を、先輩は俺にしたのだろうか?

「私は……きみが一緒にいれくれるのなら、それでいいと思った。だけど、きみは違うかもしれない。慎太郎くん……きみは優しいけど、いつか私のことを、汚らわしい存在だと、そう思う日が来るかもしれない……」

 そして、先輩は怯えるように、俺に縋り付く。

 それ以上は、何も言わずに、先輩はただただ、甘えた子供のように、俺の傍から離れない。

「それでも……きみは私と一緒にいてくれるかい?」

 先輩の身体が、小刻みに震え始めたのがわかった。

 俺の胸の中にいる先輩が、とてもか弱い存在のように思えてしまう。

 このままだと、紗季先輩は自分の中から生まれる不安に、押しつぶされてしまうかもしれない。

「大丈夫です」

 だから俺は、今の自分の気持ちを、正直に伝えようと、そう決意した。

「俺は、先輩を否定したりなんかしません」

 そして、俺は先輩の身体をそっと包み込むようにして、抱きしめた。

「俺は、どんなことがあっても、先輩の傍にいると、約束します」

 ――それが紗季先輩の一番望んでいたことならば。