そして、ようやく着いた学校では、いつものように体育系の部活動に所属する生徒たちがグラウンドで声を出しながら練習に励んでいた。
何も変わらない、普段通りの風景に少しは心が落ち着いてくる。
俺の心情など届かないだろうが、俺はそんな運動部の部員たちに感謝をしつつ、図書室へと向かう。
そして、長い廊下を一番端、日の光がほとんど当たらないその場所の扉に手を掛ける。
だが、その手をすぐには動かせずにいた。
――もし、この中に彼女がいなかったら?
そんな予想が頭の中を駆け巡って、胸が苦しくなる。
大丈夫だ。
そんなこと、あるわけない。
ゆっくりと扉を開き中に入ると、本の匂いに包まれた穏やかな空間が広がっていた。
ただ、その中に少しだけ、甘い花の蜜のような匂いが混じっている。
「おはよう、慎太郎くん」
彼女は、いつものように、笑顔で僕の目の前に現れてくれた。
その瞬間、心に蓄積されていた様々な感情が流れていく。
そうだ。
先輩は、ちゃんと、俺と約束してくれた。
この夏休みの間は、一緒にこの図書室で過ごしてくれると。
俺がその約束を果たし続ける限り、先輩はずっとこの場所にいてくれる。
何故か俺には、そんな風に思えてならなかった。
「……全く、きみってやつは。仕事熱心なのはいいことだが、あまり真面目すぎるのも考え物だね」
やれやれ、といった調子で首を横に振る紗季先輩だったが、すぐにその表情は真剣なものへと変化する。
「慎太郎くん。昨日はあれから体調は大丈夫だったかい?」
受付カウンターで本を読んでいた先輩は、読みかけの本を閉じて、身体ごと俺の方へと向けた。
「はい。なんともありません。その、昨日はちょっと立ち眩みしただけだと思います。俺、あまり人混みとか得意じゃないですから」
「……そうか。ということは、やはり私が無理をさせてしまったのかもしれないね」
「いえ、先輩が悪いわけじゃないですよ。それに……昨日は俺も楽しかったですから」
「ああ、私もだよ。昨日は本当に……楽しかった」
まるで、先輩はもう、そんな時間は還ってこないと、自分に言い聞かせているように話す。
だから、俺は咄嗟にこんなことを口走った。
「……また、時間があれば行きましょう。映画館でも、ゲームセンターでも、どこでも付き合いますから……そんな最後みたいな言い方、やめてください」
「……慎太郎くん」
だが、俺の話を聞いた紗季先輩は、いつものように不敵な笑みを浮かべるわけでもなく、俺でも、感情が読み取れない笑みを浮かべた。
悲しんでいるような、喜んでいるような、そのどちらとも取れる笑顔だった。
「慎太郎くん、少し、昔話をしてもいいかい?」
「昔話……ですか?」
「ああ。私の……お母さんのことだ」
紗季先輩の母親とは、俺も会ったことがある。その人が、紗季先輩にこの指輪を渡したということだろうか?
だが、俺が浮かべた疑問に答えるように、先輩は言った。
「ああ……お母さんといっても、いま私と一緒に暮らしている母とは違う人だよ。お母さんは、私を生んでくれた人。だけど……もうこの世にはいない人なんだ……」
先輩は、自分の手でもう片方の腕を強く握りしめた。