「見つけたよ、紗季」
だが、その声を聞いた瞬間、紗季先輩の顔が凍り付いた。
「全く、捜すこっちも一苦労だったよ」
そう呟きながら、俺たちの前に突如現れた男性は、身長は百七十センチある俺よりもあと十センチは高いくらいの人物で、髪の毛を少し茶色く染めた中肉中背の男性だった。
おそらく、年齢は二十代前半で、大学生くらいだと思う。
顔はかなり整っており、英語がプリントされた黒シャツにジーパン姿というシンプルな着こなしにも関わらず、どこか清潔感もあって好青年のような印象を与える。
それなのに、声を掛けられた紗季先輩の表情は、怯えているような、そんな雰囲気が放たれていた。
そして、彼の姿を確認すると、先輩は震える声を絞り出した。
「兄……さん……」
兄さん?
……ということは、この人が、紗季先輩のお兄さんなのか。
そういえば、確か以前にお兄さんが家に帰ってくるという話を聞いたことがあった。
だが、今の紗季先輩は明らかに、兄妹としての振舞いではない。
「どうして、兄さんがこんなところにいるの?」
「そんなことは後でいいだろ。それより、紗季の隣にいる男の子は誰かな?」
ここで、ようやく紗季先輩の兄と名乗る男性は、俺に視線を向けた。
じっくりと、俺のことを値踏みするような目に、少したじろいでしまう。
「……図書委員の後輩。今日は色々と付き合って貰っただけだよ」
「どうも……。白石……慎太郎です」
淡々とした口調で話す先輩に倣って、俺も自分の名前をお兄さんに伝えた。
「白石慎太郎くん……か。初めまして。僕は黒崎空也と言います。もうわかってるかもしれないけど、紗季の兄です」
そういって、紗季先輩のお兄さんは軽く僕に会釈をする。
紗季先輩の後輩、という僕の素性がわかったからなのか、俺に対して若干抱いていたであろう警戒が和らいでいる様子だった。
だが、俺への挨拶をすませたところで、お兄さんの意識は再び紗季先輩のほうへと戻る。
「紗季、何も言わずに家を出て行っちゃ駄目じゃないか。母さんたちも心配していたよ」
「……えっ?」
思わず反応してしまったが、隣の紗季先輩は悔しそうに唇をかみながら身体を震わせる。
「別に……わざわざ、あの人に言わなくていいでしょ? 遊びに行くだけなんだから……」
「紗季……。全く、困ったものだよ」
反論する紗季先輩に対して、お兄さんは頭をかきながらため息を吐く。
「なら、せめてお兄ちゃんには言って欲しかったな」
やれやれ、と首を振った後、真剣な表情になった紗季先輩のお兄さんは、今までとは打って変わって、厳しい目つきをして紗季先輩を見つめた。
「紗季。母さんや父さん、それに僕だって紗季のことを心配して言ってるんだ。じゃなきゃあ、わざわざ僕がこうして捜しに来たりはしないよ」
お兄さんの言葉に、紗季先輩は何も反応しなかった。
それでも、お兄さんは厳しい表情を解いて、紗季先輩へと近づいていく。
「紗季、今日は僕と一緒に家に帰ろう。そりゃあ、母さんたちも怒っているけど、素直に謝れば許してくれるさ。そうだ、母さんたちにはお土産も買っていったほうがいいかもしれないね。一緒に選びに行こうか」
そういうと、今まで全く会話に入っていなかった俺の存在を思い出したかのように、彼は微笑を浮かべた。
「えっと、白石くん。すまないがこのまま妹を預かってもいいかな? 車で来ているからきみのことも送ってあげたいんだけど、親の車だから知らない人間を乗せたことがバレたらちょっと面倒なんだ」
きっと、悪意はないのだろうが『知らない人間』と言われたことに対して、やや疎外感を感じてしまう。
紗季先輩の家族にとって俺はまさに『知らない人間』にカテゴライズされて当然だ。
だが、ここで紗季先輩と別れることは、何故だか俺にはできなかった。
「いえ、俺は、紗季先輩と……」
だから、俺はお兄さんが紗季先輩を連れて行くことを、拒否しようとしたのだが、
「慎太郎くん」
俺が答える前に、紗季先輩が言った。
「……私は、このまま兄さんと帰るよ」
「えっ……?」
思わず、そんな情けない声が漏れてしまう。
だけど、紗季先輩はそんな俺から離れていってしまう。
「白石くん。このお詫びはいつか必ずどこかでさせてもらうよ。それじゃあ行こうか、紗季」
そして、お兄さんは口元に笑みを浮かべて、近くにきた紗季先輩の肩に、自分の手を乗せた。
「慎太郎くん……」
そして、俺に背中を向ける寸前に、小さな声で、こう呟いた。
「ごめんね」
その声は、今まで聞いたどんな紗季先輩の声よりも、儚くて、壊れてしまいそうなものだった。
こうして、俺と紗季先輩のデートは終わった。
帰りの電車に揺られ、一人で帰っていく中、俺は隣に紗季先輩がいないことに、どうしようもない孤独感を味わうのだった。
八月三日、月曜日。
もう慣れてきたと思っていた夏の暑さは、今日も容赦なく学校へ向かう俺を襲う。
まだ朝だというのに、アスファルトから照り返してくる太陽の熱は、俺の足取りを重くさせるのには十分な威力だった。
だが、俺の足取りが重たいのは暑さだけのせいではない。
その理由は、もちろん紗季先輩のことだ。
連絡先はずっと昔に交換していたものの、彼女はスマホを持ち歩くという習慣がないようで、あまり連絡ツールとしては機能していなかった。
それでも、昨日はあれから先輩がどうなったのか気になった俺は、簡単な文面だけメールで送信しておいた。
あのお兄さんの発言から察するに、先輩は俺と無断で出かけたようだったし、何か親から言われていないのかと心配になったからだ。
そして、俺の送ったメールには簡単な文面で「大丈夫だよ」とだけ、一応返信は返してくれていた。
それに、今日は珍しく先輩のほうから「本当に、今日は無理に来なくていいからね」とメールが送られてきた。
きっと、先輩と別れる直前に、俺が倒れてしまったことを気にしてくれているのだろう。
しかし、俺なんかより、今は紗季先輩のほうが心配だ。
だから、俺に休むという選択肢はない。
そして、ようやく着いた学校では、いつものように体育系の部活動に所属する生徒たちがグラウンドで声を出しながら練習に励んでいた。
何も変わらない、普段通りの風景に少しは心が落ち着いてくる。
俺の心情など届かないだろうが、俺はそんな運動部の部員たちに感謝をしつつ、図書室へと向かう。
そして、長い廊下を一番端、日の光がほとんど当たらないその場所の扉に手を掛ける。
だが、その手をすぐには動かせずにいた。
――もし、この中に彼女がいなかったら?
そんな予想が頭の中を駆け巡って、胸が苦しくなる。
大丈夫だ。
そんなこと、あるわけない。
ゆっくりと扉を開き中に入ると、本の匂いに包まれた穏やかな空間が広がっていた。
ただ、その中に少しだけ、甘い花の蜜のような匂いが混じっている。
「おはよう、慎太郎くん」
彼女は、いつものように、笑顔で僕の目の前に現れてくれた。
その瞬間、心に蓄積されていた様々な感情が流れていく。
そうだ。
先輩は、ちゃんと、俺と約束してくれた。
この夏休みの間は、一緒にこの図書室で過ごしてくれると。
俺がその約束を果たし続ける限り、先輩はずっとこの場所にいてくれる。
何故か俺には、そんな風に思えてならなかった。
「……全く、きみってやつは。仕事熱心なのはいいことだが、あまり真面目すぎるのも考え物だね」
やれやれ、といった調子で首を横に振る紗季先輩だったが、すぐにその表情は真剣なものへと変化する。
「慎太郎くん。昨日はあれから体調は大丈夫だったかい?」
受付カウンターで本を読んでいた先輩は、読みかけの本を閉じて、身体ごと俺の方へと向けた。
「はい。なんともありません。その、昨日はちょっと立ち眩みしただけだと思います。俺、あまり人混みとか得意じゃないですから」
「……そうか。ということは、やはり私が無理をさせてしまったのかもしれないね」
「いえ、先輩が悪いわけじゃないですよ。それに……昨日は俺も楽しかったですから」
「ああ、私もだよ。昨日は本当に……楽しかった」
まるで、先輩はもう、そんな時間は還ってこないと、自分に言い聞かせているように話す。
だから、俺は咄嗟にこんなことを口走った。
「……また、時間があれば行きましょう。映画館でも、ゲームセンターでも、どこでも付き合いますから……そんな最後みたいな言い方、やめてください」
「……慎太郎くん」
だが、俺の話を聞いた紗季先輩は、いつものように不敵な笑みを浮かべるわけでもなく、俺でも、感情が読み取れない笑みを浮かべた。
悲しんでいるような、喜んでいるような、そのどちらとも取れる笑顔だった。
「慎太郎くん、少し、昔話をしてもいいかい?」
「昔話……ですか?」
「ああ。私の……お母さんのことだ」
紗季先輩の母親とは、俺も会ったことがある。その人が、紗季先輩にこの指輪を渡したということだろうか?
だが、俺が浮かべた疑問に答えるように、先輩は言った。
「ああ……お母さんといっても、いま私と一緒に暮らしている母とは違う人だよ。お母さんは、私を生んでくれた人。だけど……もうこの世にはいない人なんだ……」
先輩は、自分の手でもう片方の腕を強く握りしめた。
「少しだけ、私の話をしてもいいだろうか?」
先輩は、申し訳なさそうな視線を俺に向ける。
その瞳が、俺には道端に捨てられた子猫のようで、あまりにも弱弱しい。
俺は、何も言わずに、首を縦に動かした。
すると、先輩は安心したかのように、ゆっくりと笑みをつくる。
そして、紗季先輩は自分の過去を俺に教えてくれた。
「私が中学生のときの話だが、当時はあまり、裕福な家庭ではなくてね。お母さんは元々身体も弱い人なのに、無理に仕事をし続けたのが原因で肺炎を患ってしまって、入院をすることになったんだ」
先輩の声は、いつものように淡々としたものだった。
だが、その声に含まれている感情は、とても悲しい色を帯びている。
「とても暑い……夏の日だったよ……。私は学校が夏休みだったから、毎日お母さんのお見舞いに行っていたんだけど、ある日、お母さんの病室に大勢の大人たちが集まっていたんだ」
そして、浅く息を吸い込んだ紗季先輩は、俺に言った。
「それが、お母さんの亡くなった日だ」
そのころの先輩は、スマホどころか携帯も所持していなかったそうだ。
だから、お母さんの容態が急に悪化してしまったときも、先輩は何も知らずにいつものように病院へ向かっていた。
そして、紗季先輩は言葉を交わせないまま、母親の最後を看取ることになってしまった。
「私にとって、たった一人の家族だったんだ。いつも優しくて、よく私の頭を撫でてくれる人だったんだよ……。それが中学生になっても続いていたから、さすがに私も文句を言ったことがあるんだけどね」
その温もりを思い出したかのように、先輩は照れくさそうに笑顔を浮かべる。
きっと、先輩にとっては大切な思い出で、何より、紗季先輩が母親のことが大好きだったことがよく伝わってきた。
――だけど、そのお母さんは、もうこの世にはいない。
「先輩……どうして、俺にそんな話を……」
思わずそう言ってしまった俺だったけど、先輩は少し考えるように唸る。
「そうだね……、あえて理由を付けるなら……私のことを、きみに知ってほしかったんだ」
先輩はゆっくりと俺に近づいてくる。
「……えっ?」
先輩から香る甘い香りが、どんどん強くなる。
そして、先輩はゆっくりと、俺の身体を抱きしめてきた。
「……せ、先輩……!」
先輩の身体は、温かくて、とても柔らかい。
俺の身体は、鉛のように動けなくなってしまう。
「……慎太郎くん。昨日、私が言ったことを、覚えているかい?」
「昨日の……こと?」
「私が……帰りたくないと言ったことさ」
紗季先輩が俺を抱く力が、しだいに強くなっていく。
「あのとき、私は本気だったんだよ。帰りたくなかったし、きみと……ずっと一緒にいたかった」
静かな図書室で、先輩のわずかな呼吸音が、俺に耳に入って来る。
それは、どこか熱っぽくて、官能的にさえ聞こえてしまう。
「ねえ、慎太郎くん。『白痴』の物語の最後が、どんなものか知っているかい?」
「えっ……?」
突然、話が変わってしまったことに俺は面食らってしまう。
『白痴』といえば、坂口安吾の代表作で、以前紗季先輩が読んでいた本だ。
しかし、俺はまだ読んではいなかった為、紗季先輩から教えてもらったあらすじ以外は、何も知らないままだった。
そして、俺の反応をみてそのことを悟ったのか、紗季先輩はその結末を自らの口で語ってくれた。
「最後はね……空襲から逃げ延びた男は、一緒に助かった女の寝顔と鼾声を聞いて『豚のようだ』と思うんだよ。そして、一緒に生きていこうと言ったはずの男は、その女を置いて逃げ出したいと思いながら、希望のない朝を迎える、という場面で話が終わるんだ」
それは……なんとも悲しい最後……じゃないだろうか?
もちろん、そういう作品はいくらでもあるし、俺の好きな太宰治の作品だって、終始陰鬱な雰囲気で物語が進行していくことも少なくない。
だが、なぜ今、その話を、先輩は俺にしたのだろうか?
「私は……きみが一緒にいれくれるのなら、それでいいと思った。だけど、きみは違うかもしれない。慎太郎くん……きみは優しいけど、いつか私のことを、汚らわしい存在だと、そう思う日が来るかもしれない……」
そして、先輩は怯えるように、俺に縋り付く。
それ以上は、何も言わずに、先輩はただただ、甘えた子供のように、俺の傍から離れない。
「それでも……きみは私と一緒にいてくれるかい?」
先輩の身体が、小刻みに震え始めたのがわかった。
俺の胸の中にいる先輩が、とてもか弱い存在のように思えてしまう。
このままだと、紗季先輩は自分の中から生まれる不安に、押しつぶされてしまうかもしれない。
「大丈夫です」
だから俺は、今の自分の気持ちを、正直に伝えようと、そう決意した。
「俺は、先輩を否定したりなんかしません」
そして、俺は先輩の身体をそっと包み込むようにして、抱きしめた。
「俺は、どんなことがあっても、先輩の傍にいると、約束します」
――それが紗季先輩の一番望んでいたことならば。
「慎太郎くん……私は…………」
先輩の声が、脳内で反響する。
先輩が、俺を抱きしめる力を強くする。
俺の胸に顔をうずめて、表情を見えないようにしている。
だけど、俺は先輩が泣いていることがすぐにわかった。
声だって出ていないし、きっと涙だって流していない。
それでも、彼女はずっと、泣いていたのだ。
こんなに、先輩の存在が小さく感じたのは初めてだった。
触れてしまえば、すぐに壊れてしまうシャボン玉のように、儚くて脆い存在のように思えた。
「……慎太郎くん」
そして、甘えるような声で、俺の名前を呼びながら、うずめていた顔を俺に向ける。
ずっと、大人だと思っていた先輩が、小さな子供の女の子になった瞬間だった。
俺は、触れている先輩の黒い髪の上から、頭をそっと撫でる。
先輩の髪は、近くで見ると本当に綺麗だった。
「……んっ」
先輩は少しくすぐったそうにして、時々声を漏らす。
そして、段々と頬が赤くなっていく先輩の瞳が、水面に映る月のように蕩けていた。
――俺は……ゆっくりと、先輩の顔を近づける。
――そして……。
「慎太郎……あんた……」
その瞬間、俺の後ろから扉が開く音と共に、彼女の声が聞こえた。
俺は、咄嗟に音が聴こえたほうに、振り返る。
そこには、ジャージ姿で呆然としている、翠の姿があった。
「……翠」
その手には、この前借りて行った課題図書が握られている。
もしかして、その本を返却するために図書室に寄ったのだろうか?
だとしたら、あまりにもタイミングが悪すぎた。
だが、それを俺たちが責めることなどできるはずもない。
最初は目を見開き驚いていた翠の表情は、みるみるうちに怒りに満ちたものへと変わっていく。
「やっぱり、そういうことだったんだ……」
何故か、翠の声は震えていて、そこには嫌悪感を隠すつもりなど毛頭ないといった雰囲気が漂っていた。
「ちがっ……これは……」
翠が現れたことで、俺の頭は混乱してしまう。
だが、翠はそんな俺にはお構いなしに、今度は紗季先輩のほうへと視線を向ける。
「黒崎先輩……こんな場所で、そういうことをするのは非常識だと思わないんですか?」
翠は、まるで紗季先輩に恨みでもあるかのような棘のある言い方で攻め立てる。
「…………」
先輩は、何も答えなかった。
「黒崎先輩……ちゃんとあたしの質問に答えてくださいよ」
翠は、ますますイライラした様子で顔を歪めた。
「おいっ、待てよ、翠」
さすがに看過できなかった俺は翠に反論する。
「今のは、俺が先輩を……!」
「……じゃあ、慎太郎。あんた、黒崎先輩は付き合ってるの?」
それは、今の俺たちの状況に対して、確信を突くような問いかけだった。