つい先程、風花には相談しなかったが、華那は思い出すだけで胸がズキズキと痛んで辛くなるような過去の記憶を思い出してしまう。本当は一度たりとも思い出したくないのだが、何度も思い出してしまうのだ。それが華那にとって深刻な悩みの一つである。
特によく思い出してしまうのは小三の時のある記憶だ。それは、クラスメイトの女子たちから嫌がらせを受けていた約一カ月間の記憶である。
嫌がらせのきっかけは、伊藤美里が好意を寄せている男子生徒(以下、「Y」という。)と華那が仲良くしていた事だった。美里は華那に嫉妬したと思われる。
ある日、美里は華那に恐ろしく低い声でこう言ってきた。
『マジうざい! 可愛いこぶって「Y」くんに好かれようとしてるよね?』
また、美里だけではなく、クラスメイトの女子たちまで華那に対して陰口を叩いたり無視したりするようになった。恐らく、美里がそうするように命令したのだろう。その当時、美里は三年二組のボスだったので他の女子たちは美里に逆らえなかったのだと思う。
嫌がらせを受けるようになってから「Y」との会話は避けていたのだが、「Y」の方は普通に華那に話しかけてきた。華那は美里から嫉妬されるのが恐ろしくて、二三言しか話さなかったし、笑わないように注意していた。
しかし、ある日、美里は華那の文房具を隠した。教室内を必死に探した結果、無事に見つかる。それから、「Y」と会話を交わす度に美里に何度も物を隠された華那は、精神的に追い詰められてしまう。うまく笑えなくなり、家族以外の他人と会話する事すら避けるようになった。
その一方で、「Y」も美里に何か言われたのか、華那に話しかけてこなくなった。
そして、嫌がらせを受けるようになってからちょうど一カ月経ったある日。算数の授業中、華那が解答を間違えた時に、「Y」が美里の隣の席で楽しげに笑っていた。
「Y」の笑う姿を目撃した華那はまず、『私がバカだって分かって嫌いになったのかな……』とひどくショックを受けた。また、華那は「Y」に対して密かに好意を寄せていたのだが。『嫌っている自分に好かれても迷惑なだけだよね』と考えて、「Y」を好きな気持ちを胸の奥に仕舞い込んで、諦めてしまった。
「Y」が華那に話しかけなくなり、華那が「Y」を諦めたというこの状況は、美里の思い通りになったのだと華那は落ち込む。
ところが──。もう自分と「Y」が両想いになる事はないと諦めてしまったのか、それとも「Y」の事が嫌いになってしまったのだろうか。なぜか美里は、「Y」から隣のクラスの男子に好きな人を変更した。しかも、変更したその日から華那に嫌がらせをしてこなくなった。
だが、美里たちからちゃんとした謝罪をされることはなく、理不尽な嫌がらせは華那の心に一生残る深い傷をつけた。
「ねぇ華那!」
「ん?」
「今日の数学、めちゃめちゃ難しくなかった? 全然分かんなかったから教えて!!」
風花が両手をパンッと合わせて「お願い!」と頼んできた。
「また寝てたの?」
華那が呆れたような表情でそう訊くと、風花は慌てたように答える。
「いや、寝てない寝てない!」
へぇ、と華那は疑わしそうな目を風花に向ける。すると、風花は観念したのか素直に白状した。
「本当は二十五分間くらい寝てましたっ!」
「やっぱり寝てたんだね。教えられたら教えるけど……」
「やったー!」
「それより早くお弁当食べよっか。私のせいで食べ始めるの遅くなってごめんね」
華那が謝ると風花は軽やかに笑った。
「ううん、いいっていいって! じゃあ放課後に教えてね。華那先生!」
「先生って呼ばないで。私も得意じゃないし、数学」
「得意じゃないのに出来るとか頭良いよね。羨ましい!」
「そんな言い方する子には教えません」
華那がぴしゃりとそう言うと、風花が拝むような仕草をした。
「そんなぁ! 教えてくださいよ〜!」
眉は下がっているが口元は緩んでいる。
「ごめんなさい、許して、華那さま〜〜〜!!」
「は、華那さまって!」
華那はおかしくてクスリと笑う。
華那は風花と楽しくお喋りをしながら弁当を食べ始めた。ただし、心の中ではずっと考え事をしていた。
風花は私よりも凄くいい子だと思う。それでもやっぱり、相談する事はできなかったな……。
華那は今、風花に相談すればよかったと後悔する気持ちと、相談しなくてよかったと安堵する気持ちと半々だった。
華那が風花に相談できなかったのはもちろん、このネガティヴで捻くれた性格のせいだ。だが。それだけではなく、風花を信頼していないから相談できなかったのかもしれないと思った。そのすぐ後、でも人間なんて最初から信頼しない方が傷つかなくて済む、と胸の内で迷いなく断言した。
人間は裏切るからだ。
小学三年の十月──詳しく言えば、美里たちからの嫌がらせがスタートした日の朝。華那が一生の親友だと思って心から信頼していた笹山結衣。結衣は、美里から『華那は可愛こぶりっ子だから、もう話さない方がいいよ!』というたった一言のアドバイスで、一切話しかけてこなくなった。
華那は結衣という味方を失って、三年二組で孤立無援の状態になった。もはや、クラスメイト全員を自分の敵としかみなせなくなる。そして、人間を信頼することが恐ろしくなった。風花のことも信頼していない──というよりできないのだ。
それでも、華那は風花の事を大切な友人だと思っている。嫌いなところはあるが、好きなところもあるから一緒に行動している。
風花と過ごす時間はとても楽しいのだが、不意に今の関係が壊れてしまう事が恐ろしくて堪らなくなる。だから、壊れないように常に風花の顔色を窺って、自分の気持ちを口に出さずに飲み込んでしまうことがよくある。
そもそも、永遠の友情なんてものはないのだ。実際、華那と結衣の友情はふとしたきっかけで壊れた。
友情が壊れたその瞬間、耳障りで泣きたくなるくらい悲しい音が頭の中で鳴り響いた。このような音は、もう二度と、死んでも聞きたくないと思った。
だから、華那はこの出来事以来、耳を塞ぐようになった。
正確には、頭の中で自分が耳を塞いでいる様子を想像するのだ。
耳を塞ぐのは、「友情」「絆」「愛情」などの目に見えないものが音を立てながら壊れ始めた瞬間。また、他人が自分の悪口や陰口を言っている時や、自分の苦手な音が鳴っている時も、耳を塞ぐ。
これらは、耳を切り落としたくなるくらい恐ろしい声や音だからだ。
ちなみに、周りに誰もいない時や自宅にいる時には、頭の中だけではなく、両手を使って両耳を塞ぐ。
つまり、華那は『耳を塞ぐ』という行為によって、必死に自分を守り、辛うじて自己を保っているのである。
美里たちから陰湿な嫌がらせを受け続けて、結衣という親友を失い、挙げ句の果てには、「Y」という好きな人に嫌われた──小学三年の頃から現在までずっと。
これからも毎日、私は耳を塞ぎ続けるんだろうな。そう考えると、何だかとても虚しくなった。
特によく思い出してしまうのは小三の時のある記憶だ。それは、クラスメイトの女子たちから嫌がらせを受けていた約一カ月間の記憶である。
嫌がらせのきっかけは、伊藤美里が好意を寄せている男子生徒(以下、「Y」という。)と華那が仲良くしていた事だった。美里は華那に嫉妬したと思われる。
ある日、美里は華那に恐ろしく低い声でこう言ってきた。
『マジうざい! 可愛いこぶって「Y」くんに好かれようとしてるよね?』
また、美里だけではなく、クラスメイトの女子たちまで華那に対して陰口を叩いたり無視したりするようになった。恐らく、美里がそうするように命令したのだろう。その当時、美里は三年二組のボスだったので他の女子たちは美里に逆らえなかったのだと思う。
嫌がらせを受けるようになってから「Y」との会話は避けていたのだが、「Y」の方は普通に華那に話しかけてきた。華那は美里から嫉妬されるのが恐ろしくて、二三言しか話さなかったし、笑わないように注意していた。
しかし、ある日、美里は華那の文房具を隠した。教室内を必死に探した結果、無事に見つかる。それから、「Y」と会話を交わす度に美里に何度も物を隠された華那は、精神的に追い詰められてしまう。うまく笑えなくなり、家族以外の他人と会話する事すら避けるようになった。
その一方で、「Y」も美里に何か言われたのか、華那に話しかけてこなくなった。
そして、嫌がらせを受けるようになってからちょうど一カ月経ったある日。算数の授業中、華那が解答を間違えた時に、「Y」が美里の隣の席で楽しげに笑っていた。
「Y」の笑う姿を目撃した華那はまず、『私がバカだって分かって嫌いになったのかな……』とひどくショックを受けた。また、華那は「Y」に対して密かに好意を寄せていたのだが。『嫌っている自分に好かれても迷惑なだけだよね』と考えて、「Y」を好きな気持ちを胸の奥に仕舞い込んで、諦めてしまった。
「Y」が華那に話しかけなくなり、華那が「Y」を諦めたというこの状況は、美里の思い通りになったのだと華那は落ち込む。
ところが──。もう自分と「Y」が両想いになる事はないと諦めてしまったのか、それとも「Y」の事が嫌いになってしまったのだろうか。なぜか美里は、「Y」から隣のクラスの男子に好きな人を変更した。しかも、変更したその日から華那に嫌がらせをしてこなくなった。
だが、美里たちからちゃんとした謝罪をされることはなく、理不尽な嫌がらせは華那の心に一生残る深い傷をつけた。
「ねぇ華那!」
「ん?」
「今日の数学、めちゃめちゃ難しくなかった? 全然分かんなかったから教えて!!」
風花が両手をパンッと合わせて「お願い!」と頼んできた。
「また寝てたの?」
華那が呆れたような表情でそう訊くと、風花は慌てたように答える。
「いや、寝てない寝てない!」
へぇ、と華那は疑わしそうな目を風花に向ける。すると、風花は観念したのか素直に白状した。
「本当は二十五分間くらい寝てましたっ!」
「やっぱり寝てたんだね。教えられたら教えるけど……」
「やったー!」
「それより早くお弁当食べよっか。私のせいで食べ始めるの遅くなってごめんね」
華那が謝ると風花は軽やかに笑った。
「ううん、いいっていいって! じゃあ放課後に教えてね。華那先生!」
「先生って呼ばないで。私も得意じゃないし、数学」
「得意じゃないのに出来るとか頭良いよね。羨ましい!」
「そんな言い方する子には教えません」
華那がぴしゃりとそう言うと、風花が拝むような仕草をした。
「そんなぁ! 教えてくださいよ〜!」
眉は下がっているが口元は緩んでいる。
「ごめんなさい、許して、華那さま〜〜〜!!」
「は、華那さまって!」
華那はおかしくてクスリと笑う。
華那は風花と楽しくお喋りをしながら弁当を食べ始めた。ただし、心の中ではずっと考え事をしていた。
風花は私よりも凄くいい子だと思う。それでもやっぱり、相談する事はできなかったな……。
華那は今、風花に相談すればよかったと後悔する気持ちと、相談しなくてよかったと安堵する気持ちと半々だった。
華那が風花に相談できなかったのはもちろん、このネガティヴで捻くれた性格のせいだ。だが。それだけではなく、風花を信頼していないから相談できなかったのかもしれないと思った。そのすぐ後、でも人間なんて最初から信頼しない方が傷つかなくて済む、と胸の内で迷いなく断言した。
人間は裏切るからだ。
小学三年の十月──詳しく言えば、美里たちからの嫌がらせがスタートした日の朝。華那が一生の親友だと思って心から信頼していた笹山結衣。結衣は、美里から『華那は可愛こぶりっ子だから、もう話さない方がいいよ!』というたった一言のアドバイスで、一切話しかけてこなくなった。
華那は結衣という味方を失って、三年二組で孤立無援の状態になった。もはや、クラスメイト全員を自分の敵としかみなせなくなる。そして、人間を信頼することが恐ろしくなった。風花のことも信頼していない──というよりできないのだ。
それでも、華那は風花の事を大切な友人だと思っている。嫌いなところはあるが、好きなところもあるから一緒に行動している。
風花と過ごす時間はとても楽しいのだが、不意に今の関係が壊れてしまう事が恐ろしくて堪らなくなる。だから、壊れないように常に風花の顔色を窺って、自分の気持ちを口に出さずに飲み込んでしまうことがよくある。
そもそも、永遠の友情なんてものはないのだ。実際、華那と結衣の友情はふとしたきっかけで壊れた。
友情が壊れたその瞬間、耳障りで泣きたくなるくらい悲しい音が頭の中で鳴り響いた。このような音は、もう二度と、死んでも聞きたくないと思った。
だから、華那はこの出来事以来、耳を塞ぐようになった。
正確には、頭の中で自分が耳を塞いでいる様子を想像するのだ。
耳を塞ぐのは、「友情」「絆」「愛情」などの目に見えないものが音を立てながら壊れ始めた瞬間。また、他人が自分の悪口や陰口を言っている時や、自分の苦手な音が鳴っている時も、耳を塞ぐ。
これらは、耳を切り落としたくなるくらい恐ろしい声や音だからだ。
ちなみに、周りに誰もいない時や自宅にいる時には、頭の中だけではなく、両手を使って両耳を塞ぐ。
つまり、華那は『耳を塞ぐ』という行為によって、必死に自分を守り、辛うじて自己を保っているのである。
美里たちから陰湿な嫌がらせを受け続けて、結衣という親友を失い、挙げ句の果てには、「Y」という好きな人に嫌われた──小学三年の頃から現在までずっと。
これからも毎日、私は耳を塞ぎ続けるんだろうな。そう考えると、何だかとても虚しくなった。