「……そろそろ潮時かもしれないね」
子どもたちが帰った後のあやかし園の縁側でサケ子が呟いたその言葉に、のぞみの胸がズキンと痛む。頷くこともできずにささくれ立った畳の上に座ったままうなだれた。
紅はというと、サケ子の言葉を肯定も否定もせずに柱にもたれて腕を組んで考え込んでいる。
ふぶきが来てから一カ月あまりが過ぎたが、彼女を取り巻く状況は悪くなる一方だった。
伊織はふぶきを連れて一日も休まずにやってきた。
そしてあいかわずふぶきと部屋に閉じこもるのだ。
ふぶきはというと、日に日に機嫌が悪くなっていくようにのぞみには思えた。
初日に垣間見えた他の子どもたちへの興味は、今やまったくなくなってしまったようで、ほんの少しでも誰かの声が聞こえると嫌がって伊織に言いつける。
彼女が園に馴染む日など、とてもじゃないが永遠にやってきそうにない。
だが問題は、ふぶきだけに止まらない。いやむしろ他の子どもたちの方が深刻といえる状況だった。
いつもはうるさいほどに子どもたちの声で溢れるあやかし園は、この一カ月ですっかりさま変わりしてしまった。
ふぶきと伊織に気を使うあまり、子どもたちは満足に遊ぶこともできなくなった。
いつもより狭い部屋でただ静かに親の帰りを待つのみである。
もちろんのぞみとサケ子は何度も何度も伊織に意見をした。だが彼は頑としてこちらの意見を聞き入れることはなく、ふた言目には"御殿のルール"や"内親王さまにたいする礼儀"といった言葉を持ち出す。
唯一紅がいる時だけは、多少は彼の態度も軟化するが、この先ずっと紅が見張っているわけにいかない以上、根本的な解決にはならなかった。
そしてそのような状態で、子どもたちが楽しく保育園に通えるはずがなかった。
いつも元気そのものだった彼らから笑顔は消えて、いらだち、小さなことで衝突をする。登園時に、あやかし園の建物を見て泣き出す子もいるくらいだ。
「ほいくえん行きたくないよぅ。こわいおじちゃんにおこられる」
そう言って泣く子の涙に、のぞみの胸は締めつけられた。
それもこれも全部自分のせいなのだ。
紅の反対を押し切ってふぶきを預かろうと言い張ったくせに、伊織から完全に子どもたちを守りきれていない。
「このままではあやかし園には誰も来なくなっちまう。……でもきっとこれが伊織の狙いだったんだね」
サケ子がやりきれないというように首を振る。
その言葉にのぞみの目からついに涙が溢れ出た。
今日は数人の子がお休みだった。
保育園に来ていないからと言って親が稼ぎに行かないということはないだろうから、その間はどこかで子どもだけで親の帰りを待っていたのだろう。
それがのぞみには心配でたまらない。
泣いてもなんの解決にもならないとわかっていても涙が流れるのを止められなかった、
「のぞみが泣くことはないんだよ。相手にその気がないのに、どうにかしようなんて無理な話さ」
サケ子の優しい言葉にも頷くことができなかった。
「でも……! 私がふぶきちゃんを預かるって紅さまに無理を言ったからこんなことになったんです。それなのに……! それなのに結局なにもできないなんて私自分が情けない……!」
「のぞみ」
取り乱すのぞみをなだめるように、紅が口を開いた。
「ふぶきを拒否していたとしても、伊織はなにか別の手立てを考えていたに違いない。結局は同じようなことになっていたはずだ。だからそんな風に言ってはいけない」
そう言って紅はのぞみの前に座り、頬の涙を素手で拭った。
「伊織は抜け目のない奴だ。子どもを利用するような卑怯な真似も辞さないくらいにね。でもなんといっても相手は子どもなんだからさ、伊織には考えもつかないような予想外のことだって起こるはずだ。そしたらそれが解決の糸口になるかもしれないと私は思っていたんだけど……」
「解決の糸口……ふぶき自身が保育園を好きになる……とかですか?」
首を傾げてサケ子が言う。
紅がゆっくりと頷いた。
「まあね」
「でもそれはいくらなんでも、無理じゃないですか? ふぶきのあの様子じゃ……」
ため息混じりにサケ子は言う。
のぞみは少し考えてからゆっくりと首を振った。
「無理……ではないと思います」
サケ子と紅の注目がのぞみに集まった。
「ふぶきちゃんははじめから、保育園に来たくなかったわけじゃないはずです。初日に言っていました『楽しいところだって聞いたから来たのに』って。彼女は他の子たちと変わらない楽しいことが大好きな子です。だからあやかし園が楽しいところだとわかってもらえたらきっと好きになってもらえるはず……」
「でも今はとりつく島もない感じだよ」
サケ子が眉を寄せる。
それはその通りだった。
それでも、まったく可能性がないわけではないはずだ。
だからこそのぞみは彼女が部屋に閉じこもってからも、折に触れて皆と一緒に遊ばないかと声をかけ続けている。
それは今のところ、全敗しているわけだが……。
「はじめはふぶきちゃん、すごろくやおままごとに参加したんですよ。だから、他の子どもたちとまざるのが嫌というわけではないはずです。むしろ興味があるようでした」
のぞみはふたりに説明をしながら頭の中を整理してゆく。そう、伊織はふぶきに友人はいらないと言ったけれど、彼女自身にはそれを拒否するそぶりはなかった。
伊織の思惑はともかくとしてまだ幼いふぶきは保育園をつぶしてやろうなんて思っていないはずだ。
のぞみは顔を上げて頬に残る涙を拭く。
泣いていないでよく考えなくては。
紅の言う通り、伊織がふぶきを利用したのなら、逆にそのふぶきが突破口になるかもしれない。
子どもたちのためになんとしてもあやかし園を守りたかった。
「もちろんふぶきちゃんと皆の間にはちょっとしたギャップみたいなものはあります。でもそれはひとつひとつ丁寧に説明していけばなんとかなる範囲です」
のぞみは力強い言葉で言い切った。
「まぁ、伊織が口を出さなければそうだろね」
サケ子が頷く。
大人の間の事情は子どもたちだけの世界ではそれほど重要ではないはずだ。
でもそこまで考えてやはりのぞみは壁にぶちあたる。
「ただ……最近は、他の子たちへの興味もなくなってしまったみたい。どんどん頑なになってしまって。どうしてかな……ひとりぼっちが寂しいのかな。……時々体調が悪いのかなって思うくらい機嫌が悪い時もあるんです。伊織さんは、ふぶきちゃんの体調管理は御殿でしっかりやっているから大丈夫って言うんだけど……」
のぞみは考えながらぶつぶつとひとり言を言う。
その言葉を拾いあげて、紅が顎に手をあてた。
「どんどん頑なに……体調が……?」
そしてしばらく考えてから、突然ひらめいたように「あ! そうか」と手を叩いた。
「紅さま?」
のぞみとサケ子は驚いて、首を傾げて彼を見つめる。
紅がのぞみの両肩をがっしりと掴み、嬉しそうににっこりと微笑んだ
「それだよ、のぞみ。もしかしたらそれが、ふぶきの心を動かす鍵かもしれない」
子どもたちが帰った後のあやかし園の縁側でサケ子が呟いたその言葉に、のぞみの胸がズキンと痛む。頷くこともできずにささくれ立った畳の上に座ったままうなだれた。
紅はというと、サケ子の言葉を肯定も否定もせずに柱にもたれて腕を組んで考え込んでいる。
ふぶきが来てから一カ月あまりが過ぎたが、彼女を取り巻く状況は悪くなる一方だった。
伊織はふぶきを連れて一日も休まずにやってきた。
そしてあいかわずふぶきと部屋に閉じこもるのだ。
ふぶきはというと、日に日に機嫌が悪くなっていくようにのぞみには思えた。
初日に垣間見えた他の子どもたちへの興味は、今やまったくなくなってしまったようで、ほんの少しでも誰かの声が聞こえると嫌がって伊織に言いつける。
彼女が園に馴染む日など、とてもじゃないが永遠にやってきそうにない。
だが問題は、ふぶきだけに止まらない。いやむしろ他の子どもたちの方が深刻といえる状況だった。
いつもはうるさいほどに子どもたちの声で溢れるあやかし園は、この一カ月ですっかりさま変わりしてしまった。
ふぶきと伊織に気を使うあまり、子どもたちは満足に遊ぶこともできなくなった。
いつもより狭い部屋でただ静かに親の帰りを待つのみである。
もちろんのぞみとサケ子は何度も何度も伊織に意見をした。だが彼は頑としてこちらの意見を聞き入れることはなく、ふた言目には"御殿のルール"や"内親王さまにたいする礼儀"といった言葉を持ち出す。
唯一紅がいる時だけは、多少は彼の態度も軟化するが、この先ずっと紅が見張っているわけにいかない以上、根本的な解決にはならなかった。
そしてそのような状態で、子どもたちが楽しく保育園に通えるはずがなかった。
いつも元気そのものだった彼らから笑顔は消えて、いらだち、小さなことで衝突をする。登園時に、あやかし園の建物を見て泣き出す子もいるくらいだ。
「ほいくえん行きたくないよぅ。こわいおじちゃんにおこられる」
そう言って泣く子の涙に、のぞみの胸は締めつけられた。
それもこれも全部自分のせいなのだ。
紅の反対を押し切ってふぶきを預かろうと言い張ったくせに、伊織から完全に子どもたちを守りきれていない。
「このままではあやかし園には誰も来なくなっちまう。……でもきっとこれが伊織の狙いだったんだね」
サケ子がやりきれないというように首を振る。
その言葉にのぞみの目からついに涙が溢れ出た。
今日は数人の子がお休みだった。
保育園に来ていないからと言って親が稼ぎに行かないということはないだろうから、その間はどこかで子どもだけで親の帰りを待っていたのだろう。
それがのぞみには心配でたまらない。
泣いてもなんの解決にもならないとわかっていても涙が流れるのを止められなかった、
「のぞみが泣くことはないんだよ。相手にその気がないのに、どうにかしようなんて無理な話さ」
サケ子の優しい言葉にも頷くことができなかった。
「でも……! 私がふぶきちゃんを預かるって紅さまに無理を言ったからこんなことになったんです。それなのに……! それなのに結局なにもできないなんて私自分が情けない……!」
「のぞみ」
取り乱すのぞみをなだめるように、紅が口を開いた。
「ふぶきを拒否していたとしても、伊織はなにか別の手立てを考えていたに違いない。結局は同じようなことになっていたはずだ。だからそんな風に言ってはいけない」
そう言って紅はのぞみの前に座り、頬の涙を素手で拭った。
「伊織は抜け目のない奴だ。子どもを利用するような卑怯な真似も辞さないくらいにね。でもなんといっても相手は子どもなんだからさ、伊織には考えもつかないような予想外のことだって起こるはずだ。そしたらそれが解決の糸口になるかもしれないと私は思っていたんだけど……」
「解決の糸口……ふぶき自身が保育園を好きになる……とかですか?」
首を傾げてサケ子が言う。
紅がゆっくりと頷いた。
「まあね」
「でもそれはいくらなんでも、無理じゃないですか? ふぶきのあの様子じゃ……」
ため息混じりにサケ子は言う。
のぞみは少し考えてからゆっくりと首を振った。
「無理……ではないと思います」
サケ子と紅の注目がのぞみに集まった。
「ふぶきちゃんははじめから、保育園に来たくなかったわけじゃないはずです。初日に言っていました『楽しいところだって聞いたから来たのに』って。彼女は他の子たちと変わらない楽しいことが大好きな子です。だからあやかし園が楽しいところだとわかってもらえたらきっと好きになってもらえるはず……」
「でも今はとりつく島もない感じだよ」
サケ子が眉を寄せる。
それはその通りだった。
それでも、まったく可能性がないわけではないはずだ。
だからこそのぞみは彼女が部屋に閉じこもってからも、折に触れて皆と一緒に遊ばないかと声をかけ続けている。
それは今のところ、全敗しているわけだが……。
「はじめはふぶきちゃん、すごろくやおままごとに参加したんですよ。だから、他の子どもたちとまざるのが嫌というわけではないはずです。むしろ興味があるようでした」
のぞみはふたりに説明をしながら頭の中を整理してゆく。そう、伊織はふぶきに友人はいらないと言ったけれど、彼女自身にはそれを拒否するそぶりはなかった。
伊織の思惑はともかくとしてまだ幼いふぶきは保育園をつぶしてやろうなんて思っていないはずだ。
のぞみは顔を上げて頬に残る涙を拭く。
泣いていないでよく考えなくては。
紅の言う通り、伊織がふぶきを利用したのなら、逆にそのふぶきが突破口になるかもしれない。
子どもたちのためになんとしてもあやかし園を守りたかった。
「もちろんふぶきちゃんと皆の間にはちょっとしたギャップみたいなものはあります。でもそれはひとつひとつ丁寧に説明していけばなんとかなる範囲です」
のぞみは力強い言葉で言い切った。
「まぁ、伊織が口を出さなければそうだろね」
サケ子が頷く。
大人の間の事情は子どもたちだけの世界ではそれほど重要ではないはずだ。
でもそこまで考えてやはりのぞみは壁にぶちあたる。
「ただ……最近は、他の子たちへの興味もなくなってしまったみたい。どんどん頑なになってしまって。どうしてかな……ひとりぼっちが寂しいのかな。……時々体調が悪いのかなって思うくらい機嫌が悪い時もあるんです。伊織さんは、ふぶきちゃんの体調管理は御殿でしっかりやっているから大丈夫って言うんだけど……」
のぞみは考えながらぶつぶつとひとり言を言う。
その言葉を拾いあげて、紅が顎に手をあてた。
「どんどん頑なに……体調が……?」
そしてしばらく考えてから、突然ひらめいたように「あ! そうか」と手を叩いた。
「紅さま?」
のぞみとサケ子は驚いて、首を傾げて彼を見つめる。
紅がのぞみの両肩をがっしりと掴み、嬉しそうににっこりと微笑んだ
「それだよ、のぞみ。もしかしたらそれが、ふぶきの心を動かす鍵かもしれない」