その日以降、執り行われた通夜と葬式の最中、私は終始ぼんやりとしていて、読経の間も焼香の間も、心ここにあらずといった状態だった。
しかし、棺の前で声を殺して泣き続ける歌の母親を目にした時、目の前がぐらりと歪み、現実世界に意識が引き戻されるのを感じた。

歌の母親に直接会ったのは、4年ぶりだった。
小学校高学年になってから、あまり彼女の家には遊びに行かなくなり、母親と会う機会がめっきり減ってしまったのだ。

だから、私の記憶の中の「歌のお母さん」は、私と歌が遊んでいる部屋に手作りのお菓子を運んできて、「ゆっくりしていってね、瞳美ちゃん」と優しく微笑む姿ばかりだった。

しかし今の歌の母親は、あれから4年しか経っていないというのに、頰はやつれ、目の下にクマをつくり、悲しみに暮れている。
その姿があまりに痛々しくて、見ていられなくて。
私は瞬時に彼女から目をそらしてしまった。

葬儀場から退出するとき、参列者で特に歌と同じクラブだった友人たちが、歌の母親と隣で彼女の肩を支える父親に、次々とお辞儀をしていた。
でも、その中でもとりわけ歌と親しかった私は、他の子たちみたいに挨拶ができず、ご両親から少し距離をあけて逃げるようにその場をあとにした。
あんなに幸せそうだった佐渡家の日常が、こんなにもあっさりと消え去ってしまうなんて。

ついこの間まで、考えたこともなかった。

初めて歌の家に遊びに行ったとき、お庭に咲く可愛らしい花と、白いお家、優しいお母さんがいることがあんなにも羨ましいと思っていたのに。

(消えちゃうんだ……)

なくなっちゃうんだ。
どんなに幸せな家庭だって、死という絶対的な運命を目の前にしては、砂浜で作ったお城みたいに、簡単に波にさらわれてしまう。崩れてしまう。

親友の死が、悲しみ以上に運んできたものは、まさに衝撃という他はなかった。