「だ、い、じょーぶ、で、す」
誰がどう聞いても彼女の本来の声ではないと分かる声色だった。
けれど言葉を覚えたばかりの子供のようにゆっくりと放った言葉は、母の肩を震わせ、頭を上げさせるのには十分強力だった。
「瞳美ちゃん、あなた……」
言いたいことは分かった。
きっと母は「喋れるようになったのね」と続けたかったのだ。でも母さん、それは違うよ。瞳美は前から“喋れない”わけじゃない。今みたいな発声なら本当は前からできたんだ。でも、それをしてこなかった。わざわざ声を出す必要がなかったからだ。彼女には、言葉以外に意思を明確に伝える方法がいくらでもあったから。
そう、伝えても良かったのだが。
せっかく母さんと瞳美が二人で腹を割って話そうとしているところで邪魔をするのはよそうと思う。
「ありがとう……」
一番許してほしかった相手からの「大丈夫です」は母を解放した。
母さんの表情が、ここに来た時よりも数段階明るくなったのが分かった。
「他にも、伝えたいことがあるんだろう?」
父さんが母さんに、話の続きを促した。父さんの前に置かれたお肉のお皿からはすっかり料理が消えていた。俺たち3人のお皿の上には、まだ手をつけていないローストビーフがたんまり残っている。
「ええ。今から話すことは言い訳みたいなものだけど……聞いてくれるかしら」
母さんが面と向かって瞳美に込み入った話をするのだと思い、俺は慌ててスマホを用意した。母さんの話す言葉を文字にして瞳美に見せるために。
その時「はい」と、隣で返事をする声が聞こえた気がした。
「ありがとう。……瞳美ちゃんの耳が聞こえないことは、真名人から聞いてたわ。だから最初は会った時は驚いたりしなかったの。今考えれば実感がなかっただけなのかもしれないわね。でも、瞳美ちゃんが手話を使ったりスマホを使って話したりしてるのを目の当たりにして、“ああ本当に聞こえないんだ”って思った」
母さんが「スマホを使って話したり」というところで、俺はスマホに母さんの言葉を打つのをやめようかと思ったが、横で瞳が「続けて」と目で合図してきたため、そのまま次の言葉を待った。
「その時ね、邪魔したのよ。感情が。本当はいくら瞳美ちゃんの耳が聞こえないと分かっても、そのまま温かく受け入れるべきだと思ってたのに。私はできなかったの。自分と重ねてしまってたのよ。私、お父さんと結婚する前、乳がんになったの」
その話は俺も知っていた。母さんは父さんとの結婚前にがんになった。幸いそれほど病気は進行していなかったため、すぐに治療して治すことができたと聞いている。
「病気の進行はステージⅡでまだ治療ができる時だった。それでも私は自分が“がん”だと初めて聞いた時にパニックになってしまったの。治る病気だとしても、じゃあ子供は? 問題なく産めるの? って、考えていくうちに、お父さんと結婚することが怖くなった。だって結婚してもし病気が再発したり子供が産めなかったりしたら、私お父さんになんて言えばいいのよ。結婚なんてしなければ良かったって後悔するかもしれないと思うと怖かった」
……知らなかった。母さんに、そんな葛藤があったなんて。
「でもね、私が迷っているうちに、お父さんが言ってくれたのよ。『俺はお前がいい』って。直接は聞いてないけれど、お義父さんやお義母さんは反対していたかもしれない。それでも当たり前のように言ってくれたのよ。そんなことがあったのに、私は瞳美ちゃんのことで真名人にひどいことを言ったの。後からとても後悔した。私は自分と瞳美ちゃんを重ねて、あの時の自分みたいに苦しんでるなら解放してあげたいって思ってしまって。でも、本当はそうじゃなかった。私は、お父さんに解放してもらってたのよ。お父さんは『お前がいい』って言ってくれたのにね」
父さんは、母さんの隣で照れ臭そうに頭を掻いている。
母さんの気持ちは分からなくもない。瞳美と過去の自分を重ねたからこそ、あんなことを言ってしまったのだ。
「だから、ごめんなさい。私は昔お父さんに解放しもらったみたいに、瞳美ちゃんを受け入れるわ。ううん、“受け入れる”なんて上から目線な言葉じゃなくて、ぜひ真名人とこれからも一緒にいてほしい。真名人のこと、よろしくお願いします」
母さんが再び深く頭を下げた。俺は文字を打ち終わったスマホを、最後に瞳美に見せた。一字一句は拾えなかったけど、母さんの伝えたいことは伝わるはずだ。
瞳美はスマホに打ち込まれた文章を読んで、フルフルと震えだした。俯き、流れ落ちる涙を見せまいと必死に手で拭って。でもバレバレだ。俺は彼女の肩にそっと触れた。もう大丈夫だと伝えるために。
「あ、り、が、と、う」
泣きながら、彼女がそう言った。
ありがとう。
本来ならば、瞳美にも伝えたいことがもっとたくさんあったと思う。
でも、瞳美は全部を喋れないから、たった5文字に想いを込めたのだ。
母さんが、ゆっくりと顔を上げた。瞳美の目をまっすぐに見つめて、瞳美も母さんの方をしっかりと見て。
そして、笑った。
横から見ても分かるくらい、瞳美は柔らかく口元を綻ばせていた。
な、母さん。すごいだろう。瞳美のまなざしだけで、こんなに心が軽くなるんだ。
誰がどう聞いても彼女の本来の声ではないと分かる声色だった。
けれど言葉を覚えたばかりの子供のようにゆっくりと放った言葉は、母の肩を震わせ、頭を上げさせるのには十分強力だった。
「瞳美ちゃん、あなた……」
言いたいことは分かった。
きっと母は「喋れるようになったのね」と続けたかったのだ。でも母さん、それは違うよ。瞳美は前から“喋れない”わけじゃない。今みたいな発声なら本当は前からできたんだ。でも、それをしてこなかった。わざわざ声を出す必要がなかったからだ。彼女には、言葉以外に意思を明確に伝える方法がいくらでもあったから。
そう、伝えても良かったのだが。
せっかく母さんと瞳美が二人で腹を割って話そうとしているところで邪魔をするのはよそうと思う。
「ありがとう……」
一番許してほしかった相手からの「大丈夫です」は母を解放した。
母さんの表情が、ここに来た時よりも数段階明るくなったのが分かった。
「他にも、伝えたいことがあるんだろう?」
父さんが母さんに、話の続きを促した。父さんの前に置かれたお肉のお皿からはすっかり料理が消えていた。俺たち3人のお皿の上には、まだ手をつけていないローストビーフがたんまり残っている。
「ええ。今から話すことは言い訳みたいなものだけど……聞いてくれるかしら」
母さんが面と向かって瞳美に込み入った話をするのだと思い、俺は慌ててスマホを用意した。母さんの話す言葉を文字にして瞳美に見せるために。
その時「はい」と、隣で返事をする声が聞こえた気がした。
「ありがとう。……瞳美ちゃんの耳が聞こえないことは、真名人から聞いてたわ。だから最初は会った時は驚いたりしなかったの。今考えれば実感がなかっただけなのかもしれないわね。でも、瞳美ちゃんが手話を使ったりスマホを使って話したりしてるのを目の当たりにして、“ああ本当に聞こえないんだ”って思った」
母さんが「スマホを使って話したり」というところで、俺はスマホに母さんの言葉を打つのをやめようかと思ったが、横で瞳が「続けて」と目で合図してきたため、そのまま次の言葉を待った。
「その時ね、邪魔したのよ。感情が。本当はいくら瞳美ちゃんの耳が聞こえないと分かっても、そのまま温かく受け入れるべきだと思ってたのに。私はできなかったの。自分と重ねてしまってたのよ。私、お父さんと結婚する前、乳がんになったの」
その話は俺も知っていた。母さんは父さんとの結婚前にがんになった。幸いそれほど病気は進行していなかったため、すぐに治療して治すことができたと聞いている。
「病気の進行はステージⅡでまだ治療ができる時だった。それでも私は自分が“がん”だと初めて聞いた時にパニックになってしまったの。治る病気だとしても、じゃあ子供は? 問題なく産めるの? って、考えていくうちに、お父さんと結婚することが怖くなった。だって結婚してもし病気が再発したり子供が産めなかったりしたら、私お父さんになんて言えばいいのよ。結婚なんてしなければ良かったって後悔するかもしれないと思うと怖かった」
……知らなかった。母さんに、そんな葛藤があったなんて。
「でもね、私が迷っているうちに、お父さんが言ってくれたのよ。『俺はお前がいい』って。直接は聞いてないけれど、お義父さんやお義母さんは反対していたかもしれない。それでも当たり前のように言ってくれたのよ。そんなことがあったのに、私は瞳美ちゃんのことで真名人にひどいことを言ったの。後からとても後悔した。私は自分と瞳美ちゃんを重ねて、あの時の自分みたいに苦しんでるなら解放してあげたいって思ってしまって。でも、本当はそうじゃなかった。私は、お父さんに解放してもらってたのよ。お父さんは『お前がいい』って言ってくれたのにね」
父さんは、母さんの隣で照れ臭そうに頭を掻いている。
母さんの気持ちは分からなくもない。瞳美と過去の自分を重ねたからこそ、あんなことを言ってしまったのだ。
「だから、ごめんなさい。私は昔お父さんに解放しもらったみたいに、瞳美ちゃんを受け入れるわ。ううん、“受け入れる”なんて上から目線な言葉じゃなくて、ぜひ真名人とこれからも一緒にいてほしい。真名人のこと、よろしくお願いします」
母さんが再び深く頭を下げた。俺は文字を打ち終わったスマホを、最後に瞳美に見せた。一字一句は拾えなかったけど、母さんの伝えたいことは伝わるはずだ。
瞳美はスマホに打ち込まれた文章を読んで、フルフルと震えだした。俯き、流れ落ちる涙を見せまいと必死に手で拭って。でもバレバレだ。俺は彼女の肩にそっと触れた。もう大丈夫だと伝えるために。
「あ、り、が、と、う」
泣きながら、彼女がそう言った。
ありがとう。
本来ならば、瞳美にも伝えたいことがもっとたくさんあったと思う。
でも、瞳美は全部を喋れないから、たった5文字に想いを込めたのだ。
母さんが、ゆっくりと顔を上げた。瞳美の目をまっすぐに見つめて、瞳美も母さんの方をしっかりと見て。
そして、笑った。
横から見ても分かるくらい、瞳美は柔らかく口元を綻ばせていた。
な、母さん。すごいだろう。瞳美のまなざしだけで、こんなに心が軽くなるんだ。