「早坂、今日何時まで?」
日中の営業で外回りをし、夕方ごろ事務所に帰ると同僚の西田遼から声をかけられた。
会社で「今日何時まで?」というのは、つまり今日は何時まで残って仕事をするのかということに他ならない。俺は大抵1,2時間残業をして帰るが、同じ時間まで残業している同僚とは飲みに行くこともしばしば。
「あ、ごめんけど今日は無理だわ」
聞かれなくても分かる。西田は今日、俺と飲みに行けないかを聞きたいのだ。
しかし彼には申し訳ないが、今日は仕事後大事な用事がある。
そう、大事な用事。
彼女に一大告白をするための準備。
「まじかー。せっかく今日は早く上がれそうなんだけどな。ま、他のやつ誘うわ」
「悪いな」
会社での付き合いなんて、断ってもこの程度のもので、誘った方も誘われた方もそれほど気にしなくて良い。きっと西田だって、俺の代わりが見つかればすぐに忘れてしまうだろう。これぐらいの適当さが、今の職場の好きなところだ。ただし、同僚との付き合いに限る。上司が来るとなれば俺だってもう少し気を遣って、「次回は必ず付き合わせてください」の一言ぐらいは言える。
定時を知らせるチャイムが鳴ると、宣言通りちゃきちゃき帰宅の準備をして会社を出た。午後18時。この時間に会社を出るのは久しぶりだ。通勤電車に乗ると、普段よりも圧倒的に人が多いのに気づいた。みんな、結構帰るの早いんだなと他人事のように思う。
さて、この日自宅の最寄り駅とは反対方向に進む電車に乗った俺は、目的の駅で降りるや否や、とある人物に電話をかけた。
電話の相手はたったの2コール目で出てくれた。久しぶりなのに付き合いの良いやつだ。
「よお」
「なんだ、早坂。こんな時間に」
「久しぶりにお前の声が聞きたかったんだ。暇そうで何よりだ、中島」
「よく言うわ。そんな台詞、彼女にしか言ってやらないだろ」
「当たり前だろう。俺は自分を安売りしない主義なんだから」
スマホの向こうの彼は、相変わらず気だるそうな声色をしている。それでも俺のくだらない挨拶に付き合ってくれるのはさすがという他ない。
「仕事はどうなんだ?」
「毎日大変だよ。大学の時あれだけ授業サボってた俺が、まさかこんな激務に追われるなんてさ〜」
高校、大学時代の友人こと中島春樹は、大学を卒業した後、小さな出版社に就職した。彼に本だの雑誌だのの趣味があるなんて知らなかったが、聞くところによるとコミックスの編集をやりたかったらしい。しかし何を間違えたのか、彼はコミックスどころか小説ひとつ出版することのない、教育系の出版社に就職した。教本の出版だけでなく、定期的に実力テストを主催しており、毎回テスト前になると休日返上で仕事に行くと聞いた。彼の大学時代を思い出せば全く考えられないことだが、なんとか続けているらしい。まあ、もしかすると彼の適当さが、生きる上では丁度良いのかもしれない。
電話越しに、扉が開く音、「お疲れ様ですー」と挨拶する声が聞こえてくる。それを聞いて、彼が事務所の外にいるのだと悟る。忙しい会社でも適度にサボれる中島はやっぱり才能がある。
「お前も大変だな。何はともあれ、元気そうで何よりだけど」
「俺が元気じゃなくなったら、死んだのと同じだからなー」
「そうかそうか。マグロみたいだな」
俺のおふざけに付き合ってくれるような余裕があるうちは、彼はきっと大丈夫だろう。
「それで、何の用だ? 久しぶりに電話かけてきたかと思えば、平日のこんな時間に」
せめて仕事終わってからにしろよ、と悪態をつかれたが、中島の仕事が終わる時間まで待っていられるわけがない。
「いや、俺いま南寄道駅にいるんだけど、今からこっち来てくれないかなと思ってたけど、その様子じゃ無理そうだからいいや」
実は中島の職場は今俺が降りた南寄道駅が最寄り駅で、ちょっとした呼び出しなら来てくれると思って電話をしたというわけだ。
「なんだよそれ。随分と都合の良いお呼び出しだな」
「そうだよ、自分勝手だよ。だから忙しいならいい」
「ん〜今日はやっぱり無理だなあ。悪いけど。……ちなみにお前の用って何?」
「ちょっとな。人生一大事な用」
「は? 人生一って……まさか」
はっきりとしたことを何も言わない俺の様子から、長年の付き合いである彼は何か察したらしい。
「そのまさかだよ。お前が想像してる通りの」
「マジ!? ついに瞳美ちゃんに……?」
「ああ。だからその、指輪買いに行こうと思ってさ。中島にアドバイスもらいたくて電話したんだ」
だけど、完全に相談する相手間違ったなー、と照れ隠しにふざけてみせる。
そうだ、今とても恥ずかしい。恥ずかしいと言うか、親友にプロポーズの相談をするのが照れ臭くて、今が電話でよかったと思う。これが対面だったら、それこそ実際に彼女にプロポーズをする以上に真っ赤になって恥かいてしまうだろう。
「ぬおーーっ! それは、一世一代の選択だなぁ。ああ、猛烈に行きたかった……!」
中島は、吠えた。
これから指輪を買いに行くという本人以上に興奮している野郎の息遣いが皮肉にも俺の緊張を和らげた。やっぱり、お前に電話をかけたのは正解だったかもしれんな。
「興奮しすぎだって……。ま、たまには一人で頑張って決めてくるとするか」
「たまには、じゃないよ。早坂はいっつも一人でも頑張ってただろう。瞳美ちゃんがあんな風になってからも、そばにいたじゃないか。だから大丈夫だ」
時々こうやって真剣に俺のことを見てくれているようなことを言ってくるのは反則。でもだからこそ、中島と何年も友達をやっている。中島は、適当な割に真理をついている。そんな彼の性格に、何度救われてきたことか。
「ありがとう。お前、いいやつだな」
「ははっ、急に気持ち悪っ。でも、俺がいいやつだっていうのは知ってた」
「はいはい」
「なんだその適当な返事は。ま、とにかく健闘を祈る」
「俺も、お前の仕事の健闘を祈るよ」
「うげっ……言われなくてもなんとかするわ……」
うなだれる彼の姿が脳裏に浮かぶ。
「じゃあな、本当に頑張れよ」
「さんきゅ」
キリのよいところで通話を切って、しばらくスマホを握って「よし」と気合いを入れ直した。
ジュエリーショップまでの行きしなに、彼に電話をして良かった。
中島と瞳美と、俺は今でも二人に助けられて生きている。これからも二人と関わって生きていく。
そのための第一歩がようやく踏み出せた。
日中の営業で外回りをし、夕方ごろ事務所に帰ると同僚の西田遼から声をかけられた。
会社で「今日何時まで?」というのは、つまり今日は何時まで残って仕事をするのかということに他ならない。俺は大抵1,2時間残業をして帰るが、同じ時間まで残業している同僚とは飲みに行くこともしばしば。
「あ、ごめんけど今日は無理だわ」
聞かれなくても分かる。西田は今日、俺と飲みに行けないかを聞きたいのだ。
しかし彼には申し訳ないが、今日は仕事後大事な用事がある。
そう、大事な用事。
彼女に一大告白をするための準備。
「まじかー。せっかく今日は早く上がれそうなんだけどな。ま、他のやつ誘うわ」
「悪いな」
会社での付き合いなんて、断ってもこの程度のもので、誘った方も誘われた方もそれほど気にしなくて良い。きっと西田だって、俺の代わりが見つかればすぐに忘れてしまうだろう。これぐらいの適当さが、今の職場の好きなところだ。ただし、同僚との付き合いに限る。上司が来るとなれば俺だってもう少し気を遣って、「次回は必ず付き合わせてください」の一言ぐらいは言える。
定時を知らせるチャイムが鳴ると、宣言通りちゃきちゃき帰宅の準備をして会社を出た。午後18時。この時間に会社を出るのは久しぶりだ。通勤電車に乗ると、普段よりも圧倒的に人が多いのに気づいた。みんな、結構帰るの早いんだなと他人事のように思う。
さて、この日自宅の最寄り駅とは反対方向に進む電車に乗った俺は、目的の駅で降りるや否や、とある人物に電話をかけた。
電話の相手はたったの2コール目で出てくれた。久しぶりなのに付き合いの良いやつだ。
「よお」
「なんだ、早坂。こんな時間に」
「久しぶりにお前の声が聞きたかったんだ。暇そうで何よりだ、中島」
「よく言うわ。そんな台詞、彼女にしか言ってやらないだろ」
「当たり前だろう。俺は自分を安売りしない主義なんだから」
スマホの向こうの彼は、相変わらず気だるそうな声色をしている。それでも俺のくだらない挨拶に付き合ってくれるのはさすがという他ない。
「仕事はどうなんだ?」
「毎日大変だよ。大学の時あれだけ授業サボってた俺が、まさかこんな激務に追われるなんてさ〜」
高校、大学時代の友人こと中島春樹は、大学を卒業した後、小さな出版社に就職した。彼に本だの雑誌だのの趣味があるなんて知らなかったが、聞くところによるとコミックスの編集をやりたかったらしい。しかし何を間違えたのか、彼はコミックスどころか小説ひとつ出版することのない、教育系の出版社に就職した。教本の出版だけでなく、定期的に実力テストを主催しており、毎回テスト前になると休日返上で仕事に行くと聞いた。彼の大学時代を思い出せば全く考えられないことだが、なんとか続けているらしい。まあ、もしかすると彼の適当さが、生きる上では丁度良いのかもしれない。
電話越しに、扉が開く音、「お疲れ様ですー」と挨拶する声が聞こえてくる。それを聞いて、彼が事務所の外にいるのだと悟る。忙しい会社でも適度にサボれる中島はやっぱり才能がある。
「お前も大変だな。何はともあれ、元気そうで何よりだけど」
「俺が元気じゃなくなったら、死んだのと同じだからなー」
「そうかそうか。マグロみたいだな」
俺のおふざけに付き合ってくれるような余裕があるうちは、彼はきっと大丈夫だろう。
「それで、何の用だ? 久しぶりに電話かけてきたかと思えば、平日のこんな時間に」
せめて仕事終わってからにしろよ、と悪態をつかれたが、中島の仕事が終わる時間まで待っていられるわけがない。
「いや、俺いま南寄道駅にいるんだけど、今からこっち来てくれないかなと思ってたけど、その様子じゃ無理そうだからいいや」
実は中島の職場は今俺が降りた南寄道駅が最寄り駅で、ちょっとした呼び出しなら来てくれると思って電話をしたというわけだ。
「なんだよそれ。随分と都合の良いお呼び出しだな」
「そうだよ、自分勝手だよ。だから忙しいならいい」
「ん〜今日はやっぱり無理だなあ。悪いけど。……ちなみにお前の用って何?」
「ちょっとな。人生一大事な用」
「は? 人生一って……まさか」
はっきりとしたことを何も言わない俺の様子から、長年の付き合いである彼は何か察したらしい。
「そのまさかだよ。お前が想像してる通りの」
「マジ!? ついに瞳美ちゃんに……?」
「ああ。だからその、指輪買いに行こうと思ってさ。中島にアドバイスもらいたくて電話したんだ」
だけど、完全に相談する相手間違ったなー、と照れ隠しにふざけてみせる。
そうだ、今とても恥ずかしい。恥ずかしいと言うか、親友にプロポーズの相談をするのが照れ臭くて、今が電話でよかったと思う。これが対面だったら、それこそ実際に彼女にプロポーズをする以上に真っ赤になって恥かいてしまうだろう。
「ぬおーーっ! それは、一世一代の選択だなぁ。ああ、猛烈に行きたかった……!」
中島は、吠えた。
これから指輪を買いに行くという本人以上に興奮している野郎の息遣いが皮肉にも俺の緊張を和らげた。やっぱり、お前に電話をかけたのは正解だったかもしれんな。
「興奮しすぎだって……。ま、たまには一人で頑張って決めてくるとするか」
「たまには、じゃないよ。早坂はいっつも一人でも頑張ってただろう。瞳美ちゃんがあんな風になってからも、そばにいたじゃないか。だから大丈夫だ」
時々こうやって真剣に俺のことを見てくれているようなことを言ってくるのは反則。でもだからこそ、中島と何年も友達をやっている。中島は、適当な割に真理をついている。そんな彼の性格に、何度救われてきたことか。
「ありがとう。お前、いいやつだな」
「ははっ、急に気持ち悪っ。でも、俺がいいやつだっていうのは知ってた」
「はいはい」
「なんだその適当な返事は。ま、とにかく健闘を祈る」
「俺も、お前の仕事の健闘を祈るよ」
「うげっ……言われなくてもなんとかするわ……」
うなだれる彼の姿が脳裏に浮かぶ。
「じゃあな、本当に頑張れよ」
「さんきゅ」
キリのよいところで通話を切って、しばらくスマホを握って「よし」と気合いを入れ直した。
ジュエリーショップまでの行きしなに、彼に電話をして良かった。
中島と瞳美と、俺は今でも二人に助けられて生きている。これからも二人と関わって生きていく。
そのための第一歩がようやく踏み出せた。