第四章 すれ違うのは


最初に一緒に暮らそう、と言い出したのは、俺の方からだった。
24歳でごく普通の商社のサラリーマンとなった俺は、あの頃と変わらずに耳の不自由な彼女と一緒にいた。

「いってきます」

朝、アラーム音が聞こえない彼女を起こすために、毎日6:30には目を覚ます。大学時代、夜遅く寝て朝遅く起きる習慣がついてしまった自分としては、かなり成長したんじゃないだろうか。

(いってらっしゃい)

右手をひらひらさせて、まだ眠たそうな彼女が玄関で送り出してくれた。
耳が不自由になってから4年の月日が経った。その間、彼女は必死に手話を勉強した。俺も彼女と一緒に勉強してみたけれど、彼女ほどうまく話せない。
ただ、日常の簡単な挨拶ぐらいなら俺にも分かる。

毎朝7:30に家を出る俺と、8:00に家を出る彼女。
男の支度なんて本気を出せばものの10分で終わることもあるけれど、例によって早起きをしているため、朝はいつも余裕だ。
彼女も彼女で、朝は念入りに準備をしたい派だからと、無駄に早起きだ。むろん彼女に関しては、「もし俺が寝坊して起きれなかったらどうしよう」という不安があるに違いないが。

とにもかくにも、社会人になって二年目。実家を離れ、一人暮らしをすっ飛ばして二人で暮らすようになった俺は、今のところ順風満帆な毎日を送っている。仕事は確かにきついけれど、仕事で汗を流すのが嫌いじゃなかった。

彼女はというと、大学を卒業してから老人ホームで働いている。いわゆる介護の仕事だ。介護の仕事はほとんど場合4交代制で行われる。瞳美が働いている職場も例に漏れず、だ。しかし、本人の身体のことを相談して瞳美は特別に日勤で働かせてもらっている。そういう融通が利くところを選んだのだ。

「無理して働くことないんだ。瞳美は耳が聞こえないんだし、俺が働くから。家でやることがないなら物書きにでもなればいい。瞳美、エッセイ書くの好きだろう?」

なのに、どうして介護なんて大変な仕事を選ぶんだ?

前に一度、彼女に訊いたことがある。
自分のように普通の企業でばりばり営業マンとして働くのが難しいことぐらい分かっている。その他の職種も、たとえ事務職だって電話対応はあるだろうし、周りの人たちが身体のことを理解してくれるかなんて分からない。耳のことで仕事が遅れて叱られたり、鈍臭いやつだって思われたりするかもしれない。

だから、働かなくてもいいと思った。
彼女が望むなら、怖いなら、無理して働く必要なんてない。

それなのに、どうしてだ。
どうして、わざわざ茨の道を進もうとするの?

決して責めるつもりはなく、ただ彼女のことが心配だった。だが、結果的に問い詰めるような感じになってしまったことは否めない。

しかしそれで彼女は怒ったり取り乱したりせず、ただ冷静に、まるで「1+1=2なんだよ」と不変の真理を教えてくれるみたいに言った。

「耳が聞こえないから、働くんだよ」

そのあまりにも真っ直ぐすぎる答えに、俺は一瞬「え?」と言葉を失った。言葉を失う以前に、思考が追いつかなかったのもある。

「だって、私はすでにとても普通じゃない。耳が聞こえないって、普通じゃない。正直今の自分の身体に自信なんて持てない。でも、せめて普通の人と同じように、働きたいの。一人で閉じこもって物書いてるだけだと参っちゃうかもしれないしさ」

へへ、と表情を緩ませた彼女。心の中で、「私、飽き性だから」と理由を付け加えているのが聞こえた気がした。
手話と筆談と表情で、彼女は精一杯自分の想いを伝えてくれた。

「それにね、ちょっと身体が不自由な人の方が、お年寄りの気持ちだって分かるかもしれないでしょ。……て、面接の時に言われたことなんだけどね」

「そうか。瞳美がそういう気持ちなんだったら、俺は応援する。ごめんな、変なこと聞いて」

自分が恥ずかしかった。彼女に、「働かなくていいよ」なんて言葉をかけてしまった自分が。
彼女に「普通」を選ばせてあげようと思えなかった自分が。

「ううん。心配してくれてありがとう」

4年前、難聴になったばかりの頃と比べて、彼女には随分と余裕ができた。身体のハンデを後ろ向きに考えなくなった。かと言って慢心するわけでもない。彼女が今でも1日30分は新しい手話を覚えようと練習しているのを俺は知っていたから。

「……瞳美、すごいな」

彼女と一緒に暮らし始め、彼女が頑張る姿をずっと隣で見てきたからこそ、素直にそう思えた。

「ぜんっぜん! これぐらい、真名人くんにもできるよ」

決して謙遜などではないその言葉を、俺は真正面から受け止めて、心に誓ったことがある。

この子と、一緒に生きよう。

周りから見れば、俺たち二人は生きるのが大変だろうと思われるかもしれない。もし自分の大切な人が、身体にハンデを抱えていたらどうするだろうか——と、勝手に自問自答させてしまうかもしれない。
それぐらい、彼女の不自由な耳は、特異に映るのだ。
でもそんなこと自分たちには関係ない。
誰がなんと言おうと、受け止めてやる。

彼女がずっと前向きに笑って生きてくれる限り。


いつもの朝、通勤時間。
電車から降りて雲ひとつない青空を見て思う。

彼女に、大事な告白をしよう、と。