いーち、にー、さん

心の中で、ひたすら数えていた。
包帯が取れて見かけ上は普通と変わらない耳を塞ぎ、目を閉じて祈った。

いーち、にー、さん

3つ数えて耳から手を離して目を開けたとき、音が聞こえるようになっていますようにと。
開け放った窓の外から聞こえる鳥のさえずりや、不快な救急車のサイレン。病室に近づいてくる医者の足音。
この際何でも良かった。かつてあれほど過敏に様々な音に反応していた私の耳が音を拾えないわけがない。大切な人の声を聞けないはずがない。そう信じて、日常に溢れるありとあらゆる音の端くれを、必死に掴もうともがいた。

いーち、にー、さん

「……」

けれど、やっぱり。
予想通り、何も聞こえない。人の声や足音はおろか、空気がシンと沈んでいる音すら。静かだと感じるよりは、たった一人、牢獄に閉じ込められたような気分になる。聞こえない、というだけでこれほど窮屈な感覚に陥るなんて知らなかった。


もうやめよう、というかのように、男の人の手が私に触れた時、私は初めて彼が今ここにいることに気がついた。
真名人くんは、私が目を瞑っている際に病室の扉を開け、そのまま歩み寄ってきていたらしい。そんなことにすら反応できない自分がもどかしく、同時に情けなかった。

「瞳美」

あの事故が起こってから丸一週間。
私の耳が聞こえなくなってからも一週間が経過した。
彼は毎日、授業終わりに私に会いに来てくれた。幸い病院は私たちの通うE大学の大学病院であるため、お見舞いには来やすいのだと、彼が言った。耳が聞こえなくなってしまった私にノートを差し出して、そんなふうに書いてくれたのだ。
まったく音が聞こえないわけではない。大きな音には反応できる。しかしそれも、耳元でかなりの音量を出さない限りは聞こえないため、ほとんど日常の全ての音が聞こえないのと同じだった。

最初彼は頑張って私の耳元で大きな声を出して話しかけてくれていた。けれど私は彼に苦労をかけさせることが心苦しくて、やめてほしいとお願いした。だから彼は、私が目を覚ましてから一週間経った今ではもう、大声を出さない。それでもだんだんと彼の口の動きから、いくつかの単語は聞き取れるようになった(もちろん音を拾っているわけではない)。

“ひとみ”
“ありがとう”
“おやすみ”
“またね”
“好き”

それらが今の私が聞き取れる精一杯の言葉だ。
いわば、読唇術みたいなものかもしれない。
今後、二人で過ごす時間が増えるにしたがって、聞き取れる語も増えていくだろう。でも今はほとんどの会話を、彼がくれたノートで済ませていた。

「怪我はもう大丈夫?」

「うん、平気」

自転車に乗っていた最中に自動車とぶつかる交通事故に巻き込まれた私は、幸い骨折などはなく、捻挫や擦り傷をするのにとどまった。身体に消えないほどの傷跡が残らなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
その中で唯一耳が聞こえなくなってしまったのは、もともと私の耳が過敏だったせいもあるとお医者さんが言っていた。耳が音に過敏であること——聴覚過敏にはいくつか種類があって、私の場合、鼓膜や音を伝える骨に異常がある伝音性である可能性が高く、今回の事故ではその鼓膜を損傷してしまったことが、耳が聞こえなくなったしまった原因だと教えてもらった。それが事故の直後、自分の身に起こったことが信じられず上の空の状態で筆談により知ったことだ。

「良かった。でも無理はしないで」

「ありがとう」

書けば済むことなのに、彼はノートに文字を書くとき、いちいちそれを口で発音していた。きっと私が、口の動きを覚えられるようにしてくれていたんだと思う。そんな彼の優しさを噛み締めながら、彼が言葉を綴るのをじっと見ていた。
彼がノートにペンを走らせるところを、こんなにまじまじと見る機会がやってくるなんて、思ってもみなかった。高校に上がったときからすでにスマホを持って友達とはLINEでやりとりすることがほとんどだった私にとって、ペンを握って文章を書いて会話をするという行為は、ある種の神聖さを纏っていた。

まるで、文通みたい。

文通相手が目の前にいるのは理屈的におかしいけれど、どんなに短い文章でも少し迷って手を止めながら文字を綴る彼を見ていると、送る相手が自分であるにも関わらず、ああこの人は今、大切な人に手紙を書いているのだということを実感した。そんな躊躇いや、一文字一文字に乗せる想いが垣間見えて嬉しかった。20年間話したり聞いたりすることに関しては何不自由なく暮らしてきた私にとって、耳が聞こえなくなったこと自体はひどくショッキングなことだったけれど、そのおかげで得られた小さな喜びがある。

大丈夫、私は不幸なんかじゃない。

いち、に、さん。

耳を塞いで、目を閉じて祈る。

いち、に、さん。

これからいつまで続くか分からない音のない世界で、いつ目を開けてもそこに彼がいてくれること、共に息をしていること。
彼がノートにペンを走らせる。
聞こえない息遣い。聞こえない、私自身の心音。

胸の中の不安をかき消すように、祈り続けた。