第三章 反転


ポツリ、ポツリ。

雨音を聞いて、空を見上げる。曇天模様。もう少しすれば本格的に雨が降ってきそうだ。大きな傘を持ってきたのは正解だった。朝、家を出る前に天気予報を見るのは欠かせない。それは、あの日小学校の教室で雨音に耳を澄ませ、時にそれを煩わしいと感じていた自分の、昔からの癖だった。

6月1日、月曜日。
もうすぐ本格的な梅雨がやってくる。
大学二年生になった私は、一人暮らしにもすっかり慣れ、変わらず大学生活を満喫していた。

一年生のうちに、早坂真名人と付き合い始め、今も順調に関係は続いている。
あの日、月明かりだけが私たちを照らしてくれていた夜、彼に告白をされた時の感覚が、昨日のことのように蘇ってくる。ただ「嬉しい」というのではなく、ドキドキしてこの先の未来なんてどうでも良いように思えた、あの感覚。たぶん生きていて、あんな気持ちになるのはそうそうない。それぐらい貴重な経験だった。

編集サークルの『陽だまり』には、結局去年の11月に入ることになった。最初は真名人から反対されたが、彼が反対した一番の要因である垣内さんは三年生のうちに引退する予定だということを話したら受け入れてくれた。「瞳美がそれでいいなら」と私の意見を尊重してくれる。そういうところが、私は好きだった。

『陽だまり』の活動で、私はノンフィクションのエッセイを綴っている。そのため、日々起こったこと、考えたことを日記のように書き留めるのが癖になった。家にいる時は専用のノートに書いておくのだが、こうして外出している時にはスマホのメモ帳に書きつけている。そのせいか、私のスマホのメモは1日に何度も更新され、過去のメモを探すのには幾分か時間がかかるようになってしまった。

大学に着くまでに、予想通り雨は本降りになっていた。傘をさしてはいたものの、地面を跳ねる水や風が吹いた時に傘の中まで入ってくる雨、洋服の裾を濡らした。こういう時、「せっかく傘を持ってきたのに」と、傘を忘れた日よりも残念に感じるのは私だけだろうか。

「おはよう」

月曜日の一限は、「メディア論Ⅱ」という社会学部専門の講義だった。

「おはよう、瞳美」

その授業には、彼と一緒に出席していた。大学二年になって、社会学部の中でも専攻する分野が決まり、私と彼はメディア専攻になった。二人で受けた去年の「メディア論」が面白かったためだ。ちなみに、彼の高校時代からの友人である中島春樹も同じ専攻となったため、私たちは三人で顔を合わせることが多くなった。今日だって本当はこの場に彼もいるはずなのに、彼は大体決まって月曜日の一限の授業には出てこない。しかし中島云く、「これでも今年は頑張ってるんだ」と。一年生の時には一限だろうが三限だろうが、ほとんど授業に来なかったのに二年生上がって、“一限だけ来なくなった”のは、確かに大きな進歩かもしれない。それもこれも、去年一年間で単位を落としすぎて留年しかけたからだ。幸い今年は進級できたが、今年彼が取得しなければならない単位は真面目に授業に出ていた私からしても、「それ大丈夫……?」と心配になるほどだった。要はそれくらい彼にとって困難な単位数には違いないのだ。

「真名人くん、昨日は眠れた?」

「いや、全然……」

ふぁ〜と、大きくあくびをしている彼が、微笑ましい。昨日は夜遅くまで彼が私の家にいたため、家に帰り着いたのは日付が変わってからだと聞いた。

「まあ、仕方ないよね」

「本当に。今日は一日中眠そうだ」

そうは言ったものの、結局彼はその日、居眠りせずにちゃんと講義を受けていた。途中、うつらうつらしていた場面もあったが、ハッと頭を振って必死に前を向こうとしていた、そういう真面目なところが好きだ。

彼の横顔を見ながら、昨日の夜を思い出しては幸せな気分に浸る。付き合ってまだ一年も経っていない私たちにとって、いつもデートをしたりご飯に行ったりする時間が、いちいち楽しかったし、嬉しかった。昨晩なんか、二人で家の中で映画を見ていただけなのに、夜遅くまで恋人と二人で同じものを見て感動しているというだけで、特別だった。

「瞳美、もうすぐ誕生日だよね」
昼休みに、大学の構内で昼ごはんを食べながら彼がそう聞いてきて、私は「お?」と期待で胸を膨らませた。ちなみに食堂はガヤガヤしていてうるさいため、私たちはいつも構内の椅子に座れる場所で持ち寄ったご飯を食べている。大抵私は買ってきたおにぎりとお惣菜を、彼は母親が作ってくれたお弁当を食べる。コの字型の校舎の中央部分の場所に当たるため、私たちはそこを勝手に「中庭」と呼んでいた。

しかし今日はあいにくの雨。こんな日は、空いている適当な講義室でご飯を食べる。


「うん。6月6日。6と6だから覚えやすいでしょ」

「ありがたいことにね。それで、6日はちょうど土曜日だし、どこか遊びに行こう」

「賛成!」

いくら覚えやすい誕生日とはいえ、彼がきちんと私の誕生日を覚えてくれていたことは、やっぱり嬉しい。それに、デートに誘ってくれたのも。どれだけ長く付き合ったとしても、こういう「潤い」を大事にしたいのだ。

「どこか行きたいところある?」

「うーん、そうね。じゃあ、あそこ。桜川」

桜川、とは県内の田舎の方にある地域のことだ。その名の通り、綺麗な川に沿って桜が並ぶという、桜の名所だ。春には多くの花見客で賑わう。ただそれだけでなく、桜川では川下りができたり、名物のうなぎが美味しかったり、詩人や俳人でゆかりのある人物が多かったりと、様々な楽しみ方がある。

「桜川か、いいね。俺も行ってみたかったし」

県内といっても車でなければ鈍行で二時間ほどかかるため、行ったことがないという人がいても不思議ではないような場所だ。

「うん、じゃあ桜川に行こう。楽しみにしてる」

買ってきたお惣菜、いつもなら売り切れてあまり好きでないものを妥協して買うことが多いけれど、今日は私の好きなえびマヨサラダがあって良かった。

嬉しい時に好きなものを食べると、気持ちがふわりと軽くなるのだ。

朝起きたら、気持ち良いほど晴れている空を見た時のように。