「そうだよな。怪我がなくて良かったけれど」
「ええ……」
雨宮さんと自分の間に、気まずい沈黙が流れる。彼女に聞きたいことがあった。それは彼女の方も同じだったと思うし、だからこそ、彼女がすうっと息を吸って「私ね」と切り出したとき、彼女の声に真剣に耳を傾けた。
「音が、うるさく聞こえるの」
自分の中でタイミングを見計らって、今まで頑張って言おうとしてくれていたんだなと思うような告白だった。
「普通に会話したり生活したりする分には全然問題ないんだけれど、人が多いところとか、ガヤガヤしたところが、苦手で」
「うん」
「キーンキーンって、耳鳴りがしてきて」
「うん」
「最後は、痛くなる」
「痛く……?」
「そう。本当に痛くなるの。普通の人には、あまり想像できないかもしれないけれど」
“普通の人”のところで、彼女が俺の目をしっかりと見ていた。
自分が“普通の人間”だなんて、いたって健康に育ってきた俺は考えたことがなかった。
けれど、少なくとも生まれた時から周囲の音の刺激に敏感だった彼女からすれば、俺は“普通”なんだろう。それが正しいかどうかどうかが問題なのでなく、大事なのは彼女がそう思うか否かということだけだ。
「そうか……。正直、なんて言ったらいいか分からないんだ。雨宮さんがそういう症状を持ってるってことにはなんとなく気づいてた。何度か大きな音を気にしているのを見たからさ。ただ、さっき雨宮さんが言った通り、俺には想像ができなくて、きみの大変さを完全に理解してあげることができない」
「そうだよね」
傷ついただろうか。落胆しただろうか。彼女はちょっとだけため息をついた後のように、何かマイナスなことを真剣に考えているみたいに表情を強張らせた。
しかし、俺は自分の中で、本当に彼女に伝えたかった気持ちがあることに自分自身気づいており、その一瞬の彼女の渋い表情に動じることはなかった。
「雨宮さん。俺はさ、きみの大変な思いを完全に理解できないって言ったけれど、それは理解していないというわけじゃないんだ。きっとすごく苦労してきたんだろう。特に子どもの頃なんかは、原因もよく分からなかっただろうし、そもそも自分が他人と違うことに気づかなくて一人で悩んだころもあったかもしれない。そういう苦労を理解したいし、これから理解できるように努力するつもりなんだ」
もしも、半年以上前の大学生になる前の自分に問うことがあるとすれば、こんなふうに誰かのことを一生懸命分かりたいと思うことがあっただろうか。
答えは明白だ。
高校生までの自分には——正確に言うと、彼女に出会う前の自分は、なんとなくでしか人付き合いができていなかった。仲の良い友人がいても、強く理解したいと願ったことはない。中島だって、一緒にいるうちに自然と仲良くなったまでだ。もちろん、それはそれで良い関係を築けたとは思っている。
でも、違うんだ。
彼女は思っているほど、簡単に理解できない。付き合いが深くなるにつれて、違う一面を見せてくれる。決して言動に芯がないというような悪い意味でなく、どの一面も彼女の本当の姿なのだ。
現にこうして今日、居酒屋で耳を塞いでいた彼女、垣内さんに迫られて拒否反応を起こしていた彼女の弱い一面は、新しい彼女の一面なのではなく、幼い頃から共生していた彼女の姿なんだと分かった。
「早坂君……そう言ってくれて本当に嬉しい。それに、助けてくれたこともありがとう」
緊張した顔がほどけて、いつも二人で並んでご飯を食べたりたまに遊びに行ったりしたときの、柔らかい表情に戻った彼女が、ほっとしたように大きく深呼吸をした。彼女の胸元が冷んやりとした空気を吸ってまた吐いたときに動いているのを見た。
あ、生きている。
と、はっきりと意識できる瞬間に思えた。たったそれだけのことなのに、彼女と夜遅くに向き合ってこれから大切なことを言おうとしている俺にとっては、彼女の一挙一動から遠くから聞こえる学生たちの声まで、全ての刺激を拾っていた。今なら分かる。少し違うかもしれないが、彼女の聞こえの良い耳のこと。俺にはなんの痛みもないけれど。自分の周りに潜む音という音、目に見えるもの全てがとどまることなく動き続けているということをこんなにも感じられる瞬間なんて、そうそうないだろう。
しばらく声を発しない俺に、「どうしたの」というふうに目で訴えかける彼女。
その吸い込まれそうなほど黒く大きな瞳に、「迷い」という選択を持って行かれてしまった。
「俺、雨宮さんが好きだ。俺と付き合ってください」
周りが暗くても、人の顔ってこんなにはっきり見えるものなんだろうか。
いや、それは彼女の肌が白く透き通っているせいかもしれない。
告白を聞いた彼女の表情が、驚きで固まった。そのうち答えを探しているような顔になり、曖昧に口を閉じたり開いたりして、タイミングを計っている。その間も、俺の心拍数は高まるばかりで、きっと耳の良い彼女には聞こえているに違いない。
ようやく彼女が目を閉じて胸に手を当て、決意したように答えた。
「ありがとう。私さ、さっきも言ったように、耳が敏感で面倒臭いよ。時々今日みたいに発作が起きることもあるし、デートだって場所によっては行けなかったり行っても楽しくなかったりするよ。早坂君は、そんな人と違う変わった人間とでも付き合える……?」
試しているわけでも、遠回しに断っているわけでもないその言葉は、彼女の不安や他人に迷惑をかけたくないという優しさがにじみ出ていた。
でも、だからこそ真剣に応えたい。
きみは、何も心配することはないんだと。
「そんなの、関係ないよ。雨宮さんが他の人と違ってたって、全然構わない。他の人と違うから、きみがいいと思った」
彼女の表情がみるみるうちに安心に変わっていく。驚きや不安でもなく、優しげに微笑んで言った。
「そう……ありがとう、本当に。私も、早坂君が好きだよ」
どこからともなく聞こえていた学生たちの声、風の冷たさ、自分たちの心臓の音。
全部が感じられなくなった俺はただ、彼女の潤んだまなざしだけを見つめ続けていた。