先輩と彼女は、俺の目の前で飲み会の席を立った。
彼女が突然、飲み会中に辛そうな顔をして耳を抑えたからだ。
俺が何度呼びかけても、彼女には届かなかった。
しかし、彼女は隣にいた先輩の声をちゃんと聞いていた。
その、心配そうな表情から真剣に彼女を救い出そうとするまなざしまで見ていたのだ。
どういうわけかそれは、垣内先輩が単に彼女の隣に座っていたから、というわけではない気がして、どこからともなく湧いてきた敗北感で、その後の飲み会の間一切の酒を飲むことをやめた。
「早坂、もう飲まねーの?」
俺が一人ポツンと酔い冷まし用の水を飲んでいたところを、垣内先輩がいた隣の席の先輩に、声をかけられた。
「ちょっと、今日はもうこのぐらいで」
ひどく素っ気ない返事をしたので、彼は俺に興味をなくしたらしく、「そう」とだけ呟いてまた周りのメンバーと談笑し始めた。彼はなんという名前だっただろうか。飲み会が始まってすぐ皆は自己紹介をしてくれたが、たった一度の自己紹介で覚えられたことは、お酒を嗜んでいる1,2時間のうちにいとも容易く忘れられた。
名前は覚えていないけれど、きっと彼も垣内さんと雨宮さんが席を外したことが面白くないのだろう。その気持ちは十分に理解できた。
お酒を飲まない代わりに、俺は他のメンバーの誰とも喋ることなく、先ほどの彼女の様子、これまで一緒に過ごしてきた雨宮瞳美のことをぼんやりと考えていた。
あんなふうに弱々しい彼女を、俺は二度目にしたことがある。
一度目は、大学の合格発表のとき。
二度目は、一緒にご飯を食べに行った帰り道。
そのどちらにも共通していたことといえば、周りのガヤガヤとした声が、とてもうるさかったということだろう。
彼女は、あの周りの煩さに怯えていたんじゃないのか。
そう気づいた時には、『陽だまり』の飲み会がお開きになり、雨宮さんと垣内さんはついに帰ってこなかった。
「俺、二人を探してきます」
帰ってこない二人を置いて先に会計を済ませた俺たちは、店の入り口を出てすぐのところでなんとなく輪になって二人を待っていた。
二人が姿を消して、30分は過ぎている。お手洗いに行ったとは思えない長さだったため、皆で彼らの行方を案じた。この中で一人だけ部外者である俺はこのまま二人の帰りをただ待つだけではなんとなく居心地が悪くて、彼らを探しに行こうと名乗り出た。
しかし、
「いや、大丈夫。垣内さんがついてるなら、ちゃんと最後まで雨宮さんを家に送り届けてくれるよ」
メンバーのうちの一人がそう言って、俺が走り出しそうなのを止めた。
「……分かりました」
ここでごたつくのは大変遺憾だったので、ひとまず納得をしたフリをして会がお開きになるのを待った。
『陽だまり』の輪から外れたあと、当然のごとく元来た電車に乗り大学方面まで戻った。彼女の家は、大学から歩いて10分くらいの住宅街にある。そこにはちらほらと他の大学生も住んでいるのだが、街頭が少なくて薄暗い——というのが、初めてその場所を訪れた時の印象だ。
ずっと、嫌な予感がしていた。
決して垣内さんが信頼のおけない人だということではないのに、彼に雨宮さんを任せておくのがどうしても不安だった。垣内さんは今日初めて会ってほんの少し話しただけなのに、なぜだろう。
俺の声は、一つも彼女に届かなかった。顔を上げることも、耳を澄ますこともなく俯いていた彼女が脳裏にフラッシュバックする。
そして、垣内さんの声に反応した彼女が再び思い出されて、必死にその画を振り払おうとした。垣内さんの真剣な表情と、うっすらとした涙に揺れる彼女の瞳にモザイクをかける。もやにして、かき消そうとも。
この気持ちに名前を付けるとすれば、それはもう。
嫉妬以外の何物でもない気がした。
大学の最寄駅戸羽で電車を降りた後、迷わず彼女の自宅まで走った。そこに彼らがいるとは限らない。もしかしたらまだあの居酒屋の近くで、彼女の発作が収まるまで何事もなく静かに息をしているのかもしれない。
それでも走らずにはいられなかった。
自分の中で、二人の様子をなんとしてでも確かめたいという欲が強まったのだ。
そしてその予感は、清々しいくらいに的中した。
彼女が下宿しているマンションと、その隣のマンションの間の路地に、二人の姿を見つけたからだ。
相変わらず街頭がなくて、最初に彼らを見たときには、実際には彼らの輪郭がぼんやりと確認できただけだった。
二人はあんな場所に立ち止まって、一体何をしているのだろう。単に話しているだけなんだろうか。彼女は居酒屋にいるときみたいに、もう耳を塞いではいなかった。それもそのはずだ。だって、夜更けのいま、周囲は恐ろしいほど静まり返っていたから。
二人の様子がおかしいことに気づいたのは、もうほとんど彼らの姿が完全に見えるまで近づいたときだった。
「やめてください」
雨宮さんのはっきりとした拒絶の声が、俺の耳までまっすぐに飛んできた。
どうしたんだ。
目を凝らして見ると、こちらを向いている彼女と彼女に向かい合っている垣内さんとが、何やらもめているような様子でいた。もめているというより、垣内さんの方が、彼女に迫っているように見えた。その光景を見るだけで、全身の血液が這いずり回り、垣内さんを一刻も早く彼女から引き離したいと思った。
彼は俺の方に背を向けているため、俺の姿は見えていない。彼女の方も、目の前の相手に必死で、俺の存在に気づいていないようだった。
ゆっくりと二人ににじり寄りながら、彼らの会話を盗み聞きした。
「いいじゃん。雨宮さんを助けたの、俺だろ? ちょっとぐらいお礼してくれてもさ」
「そ、それとこれとは、話が別ですっ」
「は? お前、何ふざけたこと言ってんだよ」
「ひっ——」
あっ、と声を上げると同時に、自分でも驚くほど速く垣内さんの振り上げた腕を掴み、彼らの間に割って入っていた。
「やめてください、垣内さん」
彼の目をキッと睨みつけて、俺は組み伏せられないようにぎゅっと両足に力を込めた。
「は、早坂? なんだ急に出てきて、びっくりさせんなよ」
垣内さんは虚勢を張っているが、明らかに動揺していた。こういうとき、漫画やドラマなら俺がボコボコにやり返されて「覚えとけよ」と吐き捨てられるのがお約束だと思っていたのだが、意外にも彼は、俺が現れた途端にさっと身を引いた。
「クソ……邪魔しやがって。もう少しだったのに」
ただそれだけの言葉を残して、彼は走り去っていった。
案外真面目なのか単なる臆病なのかは、この際どっちでもいい。
振り返って泣きそうになっている彼女の身体に一つも傷がないのを見て、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。
彼女が突然、飲み会中に辛そうな顔をして耳を抑えたからだ。
俺が何度呼びかけても、彼女には届かなかった。
しかし、彼女は隣にいた先輩の声をちゃんと聞いていた。
その、心配そうな表情から真剣に彼女を救い出そうとするまなざしまで見ていたのだ。
どういうわけかそれは、垣内先輩が単に彼女の隣に座っていたから、というわけではない気がして、どこからともなく湧いてきた敗北感で、その後の飲み会の間一切の酒を飲むことをやめた。
「早坂、もう飲まねーの?」
俺が一人ポツンと酔い冷まし用の水を飲んでいたところを、垣内先輩がいた隣の席の先輩に、声をかけられた。
「ちょっと、今日はもうこのぐらいで」
ひどく素っ気ない返事をしたので、彼は俺に興味をなくしたらしく、「そう」とだけ呟いてまた周りのメンバーと談笑し始めた。彼はなんという名前だっただろうか。飲み会が始まってすぐ皆は自己紹介をしてくれたが、たった一度の自己紹介で覚えられたことは、お酒を嗜んでいる1,2時間のうちにいとも容易く忘れられた。
名前は覚えていないけれど、きっと彼も垣内さんと雨宮さんが席を外したことが面白くないのだろう。その気持ちは十分に理解できた。
お酒を飲まない代わりに、俺は他のメンバーの誰とも喋ることなく、先ほどの彼女の様子、これまで一緒に過ごしてきた雨宮瞳美のことをぼんやりと考えていた。
あんなふうに弱々しい彼女を、俺は二度目にしたことがある。
一度目は、大学の合格発表のとき。
二度目は、一緒にご飯を食べに行った帰り道。
そのどちらにも共通していたことといえば、周りのガヤガヤとした声が、とてもうるさかったということだろう。
彼女は、あの周りの煩さに怯えていたんじゃないのか。
そう気づいた時には、『陽だまり』の飲み会がお開きになり、雨宮さんと垣内さんはついに帰ってこなかった。
「俺、二人を探してきます」
帰ってこない二人を置いて先に会計を済ませた俺たちは、店の入り口を出てすぐのところでなんとなく輪になって二人を待っていた。
二人が姿を消して、30分は過ぎている。お手洗いに行ったとは思えない長さだったため、皆で彼らの行方を案じた。この中で一人だけ部外者である俺はこのまま二人の帰りをただ待つだけではなんとなく居心地が悪くて、彼らを探しに行こうと名乗り出た。
しかし、
「いや、大丈夫。垣内さんがついてるなら、ちゃんと最後まで雨宮さんを家に送り届けてくれるよ」
メンバーのうちの一人がそう言って、俺が走り出しそうなのを止めた。
「……分かりました」
ここでごたつくのは大変遺憾だったので、ひとまず納得をしたフリをして会がお開きになるのを待った。
『陽だまり』の輪から外れたあと、当然のごとく元来た電車に乗り大学方面まで戻った。彼女の家は、大学から歩いて10分くらいの住宅街にある。そこにはちらほらと他の大学生も住んでいるのだが、街頭が少なくて薄暗い——というのが、初めてその場所を訪れた時の印象だ。
ずっと、嫌な予感がしていた。
決して垣内さんが信頼のおけない人だということではないのに、彼に雨宮さんを任せておくのがどうしても不安だった。垣内さんは今日初めて会ってほんの少し話しただけなのに、なぜだろう。
俺の声は、一つも彼女に届かなかった。顔を上げることも、耳を澄ますこともなく俯いていた彼女が脳裏にフラッシュバックする。
そして、垣内さんの声に反応した彼女が再び思い出されて、必死にその画を振り払おうとした。垣内さんの真剣な表情と、うっすらとした涙に揺れる彼女の瞳にモザイクをかける。もやにして、かき消そうとも。
この気持ちに名前を付けるとすれば、それはもう。
嫉妬以外の何物でもない気がした。
大学の最寄駅戸羽で電車を降りた後、迷わず彼女の自宅まで走った。そこに彼らがいるとは限らない。もしかしたらまだあの居酒屋の近くで、彼女の発作が収まるまで何事もなく静かに息をしているのかもしれない。
それでも走らずにはいられなかった。
自分の中で、二人の様子をなんとしてでも確かめたいという欲が強まったのだ。
そしてその予感は、清々しいくらいに的中した。
彼女が下宿しているマンションと、その隣のマンションの間の路地に、二人の姿を見つけたからだ。
相変わらず街頭がなくて、最初に彼らを見たときには、実際には彼らの輪郭がぼんやりと確認できただけだった。
二人はあんな場所に立ち止まって、一体何をしているのだろう。単に話しているだけなんだろうか。彼女は居酒屋にいるときみたいに、もう耳を塞いではいなかった。それもそのはずだ。だって、夜更けのいま、周囲は恐ろしいほど静まり返っていたから。
二人の様子がおかしいことに気づいたのは、もうほとんど彼らの姿が完全に見えるまで近づいたときだった。
「やめてください」
雨宮さんのはっきりとした拒絶の声が、俺の耳までまっすぐに飛んできた。
どうしたんだ。
目を凝らして見ると、こちらを向いている彼女と彼女に向かい合っている垣内さんとが、何やらもめているような様子でいた。もめているというより、垣内さんの方が、彼女に迫っているように見えた。その光景を見るだけで、全身の血液が這いずり回り、垣内さんを一刻も早く彼女から引き離したいと思った。
彼は俺の方に背を向けているため、俺の姿は見えていない。彼女の方も、目の前の相手に必死で、俺の存在に気づいていないようだった。
ゆっくりと二人ににじり寄りながら、彼らの会話を盗み聞きした。
「いいじゃん。雨宮さんを助けたの、俺だろ? ちょっとぐらいお礼してくれてもさ」
「そ、それとこれとは、話が別ですっ」
「は? お前、何ふざけたこと言ってんだよ」
「ひっ——」
あっ、と声を上げると同時に、自分でも驚くほど速く垣内さんの振り上げた腕を掴み、彼らの間に割って入っていた。
「やめてください、垣内さん」
彼の目をキッと睨みつけて、俺は組み伏せられないようにぎゅっと両足に力を込めた。
「は、早坂? なんだ急に出てきて、びっくりさせんなよ」
垣内さんは虚勢を張っているが、明らかに動揺していた。こういうとき、漫画やドラマなら俺がボコボコにやり返されて「覚えとけよ」と吐き捨てられるのがお約束だと思っていたのだが、意外にも彼は、俺が現れた途端にさっと身を引いた。
「クソ……邪魔しやがって。もう少しだったのに」
ただそれだけの言葉を残して、彼は走り去っていった。
案外真面目なのか単なる臆病なのかは、この際どっちでもいい。
振り返って泣きそうになっている彼女の身体に一つも傷がないのを見て、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。