「雨宮さん」

俺は何度も、正面の席に座っている彼女に名前で呼びかけた。

雨宮さん。
雨宮さん。
雨宮さん……!

しかし彼女は俺がどんなに呼びかけても、俺の声に気づかない。
変わらず髪の毛の下に両手を潜り込ませて耳を塞いでいた。
周りの連中も、3、4人で話をしていて、その輪の中にいない人の様子などまるで気にも留めていなかった。彼女は一番端の席だったので、反対側の端っこの人にまで彼女の様子が見えていたかも怪しい。

それにしても、と俺は考える。

なぜここまで『陽だまり』の人たちは他人に無関心なんだろう。いや、実際は無関心なのではなく、ただ目の前の談笑という快楽に夢中になって、周りの様子が目に入らないに違いない。

「雨宮さん!」

それでも俺は必死に彼女に声をかけ続けた。

店員さんがあくせくとジョッキを下げる際になるカチン、カチンという音。
横から聞こえてくる恋愛話、バイト先の社員の悪口、最近ハマっているゲームの話。
誰も彼も、苦しそうな彼女と、焦っている俺に気づかない。
そして彼女にも、やっぱり俺の声は聞こえていない。届かないのだ、どうしても。

俺はもはやなすすべもなく、上下の歯をギリギリと噛んで何もできない辛さを味わっていた。両手で拳をつくり、痛いくらいに膝を押さえつけた。
震えながら耳をふさぐ彼女は俯いていたが、真っ青な顔をしていることだけは分かった。
ああ、もう早く。
この場から逃げ出してしまいたい……。
何もできないなら、せめて苦しそうな彼女の顔を見たくない。
そう諦めていた時だ。

「雨宮さん大丈夫?」

彼女の隣に座っていた代表の垣内さんが、彼女の肩をポンと優しく叩くのを見た。
彼女は一瞬ピクッと肩を震わせ、それから恐る恐る、という感じで横を向いた。
彼女の正面に座っている俺から見れば垣内さんが彼女に声をかけたことは明白だったが、今まで自分の殻に閉じこもっていた彼女にとっては、顔を向けた先に垣内さんの心配そうなまなざしがあることに、ほっとしたに違いない。

「……っ」

彼女の声にならない声を、俺は聞いた気がした。
泣いているのだろうか。叫びたいのだろうか。
横を向いた彼女の表情を、俺は正確に読み取ることができない。
しかし、彼女の顔を正面で見つめていた垣内さんにはきっと分かったのだろう。
だから彼は、次の瞬間彼女の手を引いて立ち上がったのだ。

「悪い、皆。ちょっと俺抜けるわ」

俺は彼が、他のメンバーに対してそう言って席を外すのだと思っていた。
けれど実際には、

「雨宮さん、ちょっとあっち行こう」

と、こっそり彼女に告げて、そっと立ち上がったのだ。
二人が立ち上がる前、俺は彼女が、垣内さんの言葉にコクリと頷いたのを見ていた。
立ち上がる時も、先輩が強引に彼女を引っ張ったのではなく、彼女が自分自身の力でそうしていた。
それから二人でひっそりとその場を抜け出した。
もちろん皆二人が席を立ったことに気づいてはいたが、単に二人が同時にお手洗いにでも行ったのだと思っただろう。

俺は、他の皆が知らない彼らの行動の一部始終を、ずっと遠くの国で起こった出来事みたいにぼうっと見つめていた。

ふと気がつくと彼女のテーブルに置かれていたウーロン茶が、中途半端な量でグラスに残ったままだった。