第一章 瞳美の過去

すさまじい夢を見た。
何がすさまじいかと言えば、4年前に、私の住んでいる家の交差点で起きた交通事故を目の当たりにした人たちの、つんざくような悲鳴だ。「きゃあ」とか、「うわっ」とか、いろんな叫び声が、私の耳に容赦なく届いた。
それから、その悲鳴の中で、一人の男がこう叫ぶ声も。
「人が、轢かれたぞっ!」
ヒトガ、ヒカレタゾ。
何かの暗号のように降ってきたその言葉が、私の耳にはぐわんぐわんと壊れた音を放つ機械音のように感じられた。
ダレガ、ヒカレタンダロウ……。
当然のように抱いた疑問だったのに、その“誰か”は、きっと自分とは全く無関係で、どうしようもなく繋がることのない人間であるのに違いないと思っていたのに。
それなのに、時間が経つほどに膨らんでいく不安が、破裂寸前の風船のように、限界まで引き伸ばされていた。もはや、このまま早く破れてほしいとさえ思う。死刑宣告をされる前のこの時間が、とてもじゃないが耐えられない。
「お、女の子だっ! 大丈夫か!?」
女の子。
たったそれだけの手がかりだったのに、その時の自分には、分かりすぎるぐらい分かってしまった。
轢かれたのが、一体誰なのか。
「大丈夫か!?」と声をかけられている女の子とは、誰のことなのか。
分かってしまった。

それは紛れもない、この私なんだと。
(んんっ……)
目が覚めると、見慣れない天井が目に入って、私は急に現実に引き戻される。
ここ、どこだっけ……?
夢があまりにリアルだったり、衝撃的だったりすると、その夢を見た朝は決まって、現実世界に意識を戻すのに苦労してしまう。
「ひとみー」
私の耳元で、彼が私の名を呼ぶ気配がして(・・・・・・・)、私はゆっくりと身体を起こす。
あれ、私は一体何を……。
一瞬分からなくて、私は重たい瞼を頑張って開いてみる。
そして、寝転んでいた私の上に覆いかぶさるようにして私を覗き込んでいる彼が目に入り、
そこでようやく自分が今どういう状況にいるのかを理解した。
(おはよう、真名人(まなと)くん)
彼の目を見て、「おはよう」と口を動かすと、彼の方も再び「おはよう」と言ってくれるのが分かった。
そうだ、ここは。
昨日引っ越してきた、真名人くんの家だ。
私がこれから生活する場所だ。
それが分かってから、さっきの衝撃的なシーンが夢であるということにほっと胸を撫で下ろす。
瞳美(ひとみ)、よく寝たな」
真名人くんが、両手と口を動かして呆れたようにそう言ったあと、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
(うん、私ね、夢見てた)
私も、彼と同じように口を動かした。
「そうか、どんな夢?」
楽しい夢? それとも悲しい夢?
彼はいつも、熱心に私の話を聞いてくれる。だから私も、ゆっくりと彼の目を見てお話することができた。
(悲しい夢。私が、事故に遭ったときの夢……)
そう言いながら、私は両手のひらで、自分の耳をそっと撫でる。

私の耳が、聞こえなくなった日の夢———。
***



小さい頃から、やたらと音に敏感な子どもだった。
幼稚園での歌の時間や小学校の音楽の授業はもちろんのこと、それだけでなく、お母さんが包丁でキャベツを刻む音、登校中に後ろから歩いてくる人の足音、風の音、小さな虫の声、いろんな音が、私の世界を支配していた。

ちゃぷん……ちゃぷん……

小学校二年生の時だったか、放課後になっても、私はずっと教室に残っていることがよくあった。

ちゃぷん……ちゃぷん……

「ひーとーみーちゃーん」

瞳美ちゃんはなぜ家に帰らないのだろう、と不思議に思って最初に声をかけてくれたのが、同じクラスの(うた)ちゃんだった。
それでも最初は自分が呼ばれていることに気づかなくて、私は歌ちゃんのことを無視してしまっていた。

ちゃぷん、ちゃぷん……

「ひーとみちゃーん!」

大きな声で再び名前を呼ばれて、私は初めて彼女の存在に気がついた。

「わ、びっくりした」
慌てて振り向いた先にいた、二年一組でいちばん元気な女の子、佐渡歌(さわたりうた)を見て、「なーんだ、歌ちゃんかぁ」となぜかホッとしてしまう。
「なーんだじゃないよ〜。歌、瞳美ちゃんのこと二回も呼んだ!」
「そうだったの? ごめんね」
「ごめん」とか「ありがとう」とか、感情表現が苦手だった私は、とりあえず「えへへ」と笑ってごまかした。
「ま、いいけど!」
どうやら歌ちゃんは、あまり細かいことは気にしない性らしい。
もともと彼女とは出席番号も近く、そこそこ仲の良い方だったため、互いのちょっとの行き違いには慣れていたし、私の彼女も小さなことで腹を立てるようん性格ではなかった。
「瞳美ちゃん、なにしてたの?」

ちゃぷん。

歌からそう聞かれて、私は「あっ」ともう一度その音を意識してしまった。

「雨が、」
「雨? それがどうしたの?」
その日、確かに一日中雨が降っていた。
一時間目の国語の時間も、三時間目の音楽の時間も、五時間目の社会の時間も。
「雨が、うるさいなって……」
本当は、「うるさい」だなんていう言葉で表現するのが適切じゃないと分かっていた。
「うるさい」のではなく、どうしても「耳に入ってしまう」。
それを人は「うるさい」と言うのかもしれないけれど、私はそれもちょっと違うと思った。
なんだろう、気になる。
気になって、背中のあたりがむずむずする。
だから、どうしてそう感じるのかを、ずっと考えていた。
「ふーん」
歌が「それがどうしたの?」とでも言いたげな、はたまた「なんだそれ!」と呆れているような、何とも言えない表情で、私をじーっと見つめた。
彼女に自分の言いたいことが伝わったとは到底思えなかったが、私はまたしても、「ごめんそれだけ」と言いながら曖昧に笑ってみせるだけだった。
「そっかー。じゃあ、一緒に帰ろう?」
こくり、と首を縦に動かして彼女のお誘いに乗った私は、さっきのことをちょっとだけ後悔した。
あーあ私、変な子だって、思われたかな。
大人になった自分だったら、断固として「そんなことない」と言える。
その後、小学校時代で一番の仲良しとなった佐渡歌は、死ぬまで一生、“細かいことは気にしない”清々しい女の子だったから。

そう、彼女が中学二年生で死んでしまうまでずっと親友だった未来の私が言うのだから、間違いない。
雨の音に夢中になって佐渡歌に話しかけられてから、私と彼女はいつも一緒にいるようになった。

「ねえ瞳美ちゃんって、算数得意だよね?」

「うーん、得意なのかな」

「だって、いっつもテストで100点とるじゃん」

「でもそれは、テストが簡単だから」

歌は私の言い分に、ぷうっと頰を膨らませてむくれていた。今の発言では、自慢みたいに聞こえてしまったかもしれない。
けれど、本当に私にとって、小学二年生の算数のテストはとても簡単だった。先生が、「では始めてください」と合図してから50分間のテストの時間、私は最初の20分で問題を解き終わってしまう。だからテストは苦手だった。余った時間に何をすればいいか、分からないから。
雨の日だったら、まだ良い。
たとえ窓の外が見えなくたって、降りしきる雨の音を聞いていれば、私の頭の中で、素敵な音楽が流れ始める。


ポッポロリン
ラララララ
ポッピンポロン
ランランラン

題名のない音楽は、全部私の耳が勝手に作り出した幻想だ。でも、何もすることがないテストの時間には、それだけが楽しみだったのだ。
「じゃあ今度、お勉強教えてよ」

「うん、いいよ」

歌ちゃんは算数が苦手らしい。
特に文章問題になると、何が聞かれているのか分からなくなるそうだ。

歌が、「勉強教えて」と言ってきたその日、私は放課後彼女の家に遊びに行った。もちろん、「勉強を教えるため」だけどね。

「いらっしゃい、瞳美ちゃん」

歌は、学校から歩いて十分ぐらいしたところにある白い屋根のおうちに住んでいた。
玄関からは色とりどりの花が咲くお庭が見える。
きっと、歌のお母さんが毎日丹念にお手入れをしているのだろう。それが見て取れて、私は「いいなあ」と思った。
歌のおうちは、まるで童話に出てくるお城みたいに思えた。
そんな素敵な家に住んでいる彼女が羨ましかった。

「瞳美ちゃんこっち」

歌に促されるがままに彼女の家へと上がり、リビングに置かれたダイニングテーブルを指差して、「ここだよ」と私の居場所をつくってくれた。

「ありがとう」

にっこり笑って彼女の隣に座る私。
リビングを見回してみると、茶色い家具で統一された温かみのある部屋で、いるだけで居心地が良くなりそうだと思った。
歌のお母さんが、台所からオレンジシュースを持ってきてくれて、「好きなだけ飲んでね」と微笑んで言った。
なんて良いお母さんなんだろう、とまた憧れてしまう。

「それじゃあねぇ、ここから!」

テーブルの上に広げた算数ドリルの中で、掛け算の九九を使った問題を指差す歌。ちょうど担任の先生が、今日の宿題に指定した問題だった。

「うん、じゃあこの問題から一緒にやろ」

私も宿題をやらなければいけなかったため、とりあえずは一人で問題を解く。
九九さえ覚えていれば解けるような問題だったため、私はすぐに答えを出してしまった。
正面に座る歌も、「ウーン」と唸りながら問題文とにらめっこしていたが、手にはしっかりと鉛筆が握られている。
歌が、数分考えて「あーやっぱだめ! 分かんない!」と解くことを放り出すまで、私はリビングの窓から見えるお庭に目をやっていたのだけれど。
家に入る前に見た可愛らしい花たちがそよ風に揺れていて、ああ、やっぱり歌ちゃん家はいいな、と心底羨ましくなる。

私の家だって、別に際立って嫌だと思うところはない。
書店でパートをする母と、サラリーマンの父。
これだけ聞くと、書店なんかで働く母は大人しい人で、サラリーマンの父の方がよく喋る、という感じもするが、うちの場合は全く逆。
母の方が家ではよく仕事の愚痴やママ友との交流の話をし、父は寡黙で家にいるときもほとんど喋らない。
世帯収入もそれほど高くないし(もちろん小学生の頃はこんなこと知らなかった)、歌のような素敵なお家に住んではいない。
兄弟はいなくて一人っ子だ。

そんな、ごく普通のありふれた家庭——いや、どちらかと言うと少しばかり退屈な家庭で育った私には、まぶしかったのだ。
丹念に手入れされ美しい庭のある家と優しそうなお母さん(おそらく父親も優しいのだろう)の元で暮らす、彼女のことが。
「できた!」

結局15分もかけて一つの問題を解き終えた歌は、にんまりと笑って私にノートを見せてきた。
途端、彼女の笑顔の先に揺れている花がぼやけて、歌が手に持つノートに焦点が合った。
ノートには、3つのりんごと4つのみかん、2つの桃、一本線で描かれた二人の棒人間の絵が見える。それから、横に3×2+4×2+2×2=6+8+4=18という式と答え。

「うん、正解です!」

先生気取りになった私は、彼女のノートの棒人間をもう少しアレンジして、二人の女の子の顔を描いてみた。

「これなに?」

無邪気な表情で私の手元を覗き込んでくる歌に、私はこう言った。

「歌ちゃんと私」

当時ショートヘアだった自分と、長い髪を二つに編んだ彼女が、正面を向いて笑っている。多少不恰好な図ではあったが、我ながら二人の特徴をうまく掴んでいると思う。

「わ、すごいすごい!」

大した絵ではないのに、「瞳美ちゃん天才!」とか、「瞳美ちゃんは漫画家さんになれるね!」とか大袈裟に自分を褒め称える歌を見て、なんだか笑ってしまった。
そして、ちょっぴりこそばゆい。
それから、私が歌の家で勉強をした日について覚えていることといえば、歌がその後すぐに
「おかあーさん!」と言って、母親の元へ駆けてゆき、「これ、瞳美ちゃんが描いたの」とあたかも自慢でもするかのように誇らしげに語っていたことだけだ。

歌の家には、それからというものめっきり遊びに行かなくなった。
しかし、その日を境に友情を深めた私たちは、中学二年生まで、ずっとずっと一緒にいた。
同じクラスだった時には、朝から夕方まで行動を共にする。移動教室があれば、絶対に二人一緒に移動をする。忘れ物をした時は、お互いに貸し借りする。別のクラスになっても、放課後は必ず一緒に家に帰る。
歌の家の方が、私の家よりも学校に近い場所にあったため、毎日彼女の白い屋根のお家の前で、さよならした。

歌の家にはあれからほとんどお邪魔しなかったけれど、毎日家の前で彼女と別れるため、私にとって、そのお城みたいな家は、馴染み深い場所になった。
彼女の母親には、授業参観で見かけると挨拶をする程度だったが、小学生の頃に歌の家にお邪魔して以来、ゆっくり話した記憶はない。
けれど、彼女がいつも家の玄関の扉を開ける時、弾んだ声で「ただいま!」という声を聞く限り、歌にとってその家がどれほど居心地の良い場所なのか、想像するに難くなかった。


だからこそ、衝撃だったのだ。
中学二年生の二学期が始まったばかりの月に、彼女があの家で、死んでしまったことが。
彼女の、「ただいま!」が、耳にずっと残っているのに、彼女の身体がこの世から消えてしまったなんて、そんなの信じられなかったんだ——。