「そういえば文芸部に寄稿している雪月先生の結婚話は本決まりらしいな」

決して大声を張り上げたわけでもないその声が、華乃子の鼓膜を大きく震わせた。

「あの方、大人しそうだから女性とも縁がないと思っていたよ。編集となら、納得って感じだったな」
「指輪は特注らしいじゃないか。そんな金、よくあったなあ。今までの原稿料、全部貯金していたんじゃないのか」

どくん、と、大きく心臓が跳ねる。

(……先生が、結婚……?)

丸くなって話し込んでいる男性社員たちは口々に羨ましいことだ、と言っている。そして話題は別の人の話へ移っていった。
華乃子は今度こそ動悸が止まらなくなった。
どくん、どくん、どくん、どくん。
心臓は鳴りやまない。
それどころか、じっとりと手も汗ばんできた。
膝が震えているのを何とか踏ん張ってその場に立ち尽くす。

「…………」

編集とだって話をしていたから、この前見かけたあの女性となのだろうか。
だとしたら、あの女性もあやかし……? 彼女は半妖ではなく、本当のあやかしなのだろうか……。
だとすると、やはり雪月は華乃子の力しか見ていなかったことになる。
ぐわんぐわんと頭が回るような感覚に陥りながら、なんとかその場で足を踏ん張った。

(……なにをこんなに動揺しているのかしら、私……)

一人で生きていくと決めた筈だった。だけど、心の何処かで、何時か雪月があの郷での非礼を詫びてくれて、また元のように仲良く過ごせると思っていたらしい。
雪月への未練ばかりが頭に渦を巻いて何も正常に判断できない。こんな風に後悔するくらいなら、あの時肩を揺さぶってでも雪月の真意を聞いておけばよかった。そうしたら少なくとも、こんな未練がましい想いはしなくて済んだのかもしれないのに……。

(裏切られた気持ちになっていたのに、私は……、私はこんなにも雪月先生に惹かれていたの……?)

裏切られているというのに、それでも雪月を求めて心が恋焦がれている。
やり直したかった。あの雪女の郷での時間から、やり直したい。
でも時計が巻き戻らないことも知っている。
流れた時間の中で、雪月は華乃子ではなく、あの女性を選んだ。きっと力の強いあやかしなんだろう。だとしたら、華乃子に力を求めて求婚する寛人と結婚しても同じことではないか……?
あやかし同士の婚姻には愛はなく、力があるのみ。
それで判断するなら、雪月から遠いところが良い。

華乃子は、寛人の求婚を受け入れることを決意した……。