雪月に対してわだかまりを抱えたまま雪女の郷を後にして東京に戻って来ると、すぐさま日常がやって来た。その日は仕事終わりに鞄を抱えて文芸部の部屋を出ようとしたら、寛人に出くわした。
「おっと、華乃子ちゃんか。十一月に出た雪月先生の本が評判らしいじゃないか」
今日はスリーピースを隙なく着こなし、これから帰るのかそれとも接待があるのか、手に山高帽子を持っている。
「あ、はい、副社長。今回は流行りを取り入れた作品になっていて、読者様の幅も広がっています」
「僕も読んだよ。雪月先生にしては珍しく、行動派の女性だった。まるで華乃子ちゃんのようだったね」
そう言われてどきりとする。廊下を歩くのに寛人が華乃子に並んで、まるでこれから二人で打ち合わせでもするかのように歩調を合わせてきた。
「そ、そうなんです。雪月先生が意欲的に職業婦人のことを聞いてくださって、私としてもご協力のし甲斐がありました」
あくまでもモダンガールが題材であって、華乃子がモデルであることは雪月と華乃子だけが知って居れば良いことだった。その思い出を、金平糖を含んだように甘く感じながら、華乃子は言った。しかし寛人は、それにしても、と言葉を継いだ。
「あの雪月先生がモダンガールを題材にするとは思わなかった。雪月先生は古き良き時代の女性を好んでいただろう。君は本当に関係していないのかい?」
やけにこだわるなあと、華乃子は笑みを浮かべて応じた。
「日記ならともかく、小説はいつでも『誰か』のためのものです。その小説に、実在の人物のモデルが居たら、読者は興ざめだと思います」
「なるほどね」
寛人も、笑みを崩さず頷いた。ただ、華乃子に寄せられる視線から、納得したとは思えなかった。
「まあいい、深く聞くのは止めておこう。ところで、今日はもう終わりなんだろう。どうだい、僕とカフェーにでも行かないかい?」
え。
帰りがけに唐突な誘いだなと思った。寛人が家に帰らず華乃子とカフェーに行きたい理由は何だろう。
ぽかんと寛人を見てしまったかもしれない。寛人はくすっと笑って、そんなに不思議なことかい? と言った。
「……何か、お仕事の話でしょうか?」
華乃子がそう聞くと、まあそんなようなものだよ、と寛人は応えた。
「兎に角付き合いたまえ。軽井沢の件は、これでチャラだ」
そう言って寛人は華乃子の手を引いた。男性から手を握られる経験は雪月と合わせて二人だが、社内の廊下でとなるとなかなか恥ずかしいものだなと華乃子は思った。