「では、また様子を見に来よう」

ふと、千雪の牢の前に居た男の人がそう言って母屋の方へと戻ってくる。華乃子は咄嗟に身を隠して、彼が行きすぎるのを待った。雪山の中に立っている屋敷の周りに、しん、と静かな空間が戻る。ふと。

「華乃子。此方へおいでなさい」

牢の方から千雪が華乃子を呼んだ。盗み聞きしていたのがばれていたのだ。
華乃子は雪樹に部屋に戻るように言い含めて、おずおずと部屋の陰から雪明りが差し込む牢の前へ出た。丁度影と光の届く場所の間に千雪が座っており、その顔が華乃子を見つめる。

「昼間、私の娘で良かったと言ってくれましたね。母は嬉しかったです」

そしてこうも続けた。

「貴女さえ望めば、この郷で暮らしていくことが出来ると思います。光雪さまと雪月殿は、貴女を支えて下さると思います。貴女が現世でどんな辛い目にあってきたか、私たちは知っています。貴女はこの郷に居たほうが良いと私は思いますが、貴女はどうしますか?」
「私は……」

急に、人生の岐路に立たされた。
確かに昼間、千雪の娘で良かったと思ったけど、それと今まで生きてきた十八年の人生を天秤に掛けることは今すぐには無理だ。少なくとも、自分は自分のことをあやかしだと認めていない。いや、認められない。

「お母さま……」

しんとした空間に、声が吸い込まれていく。華乃子は腹に力を籠めて自分の気持ちを述べた。

「私は……、……私は自分があやかしだと思えません……。確かに……、昼間、遭難しかかった私に何かの力が働いた。でもそれは、あの言葉がたまたま聞こえたから吹雪の中から帰って来れただけで、私が何かをしたわけじゃない……。今ここで、今までの十八年間を捨てろとおっしゃるのに頷くには、無理があります」

私は、鷹村華乃子だ。そう育ってきたし、そう生きていくんだと思っていた。
父に叩かれたことも、継母に冷たくされたことも、学校で除け者にされたこともあったけど、でも親切にしてくれた寛人だって居た。九頭宮出版の人々にも会えた。作家の雪月にも出会えた。その時間を生きたのは『人間の鷹村華乃子』だ。雪女の華乃子じゃない。

「私は、私の生きる道を生きたい。今決めるなら、それは此処ではないです」
「貴女の力は多くのあやかしを惹き付けます。現世でそれは危険。それでもですか」
「それでもです。私は、人間として、生きていきたい」

多くのあやかしに会うなんて、今までと同じだ。今までと何ら変わらないなら、自分は人として生きたい。
沈黙が落ちる。ぐっと奥歯を噛みしめて千雪の言葉を待つと、彼女は弱々しい表情で微笑んだ。

「……あんなに小さかったのに、立派になったのね、華乃子……」

千雪が牢の格子まですり寄って来た。格子越しに手を伸ばして、華乃子に触れようとする。華乃子はそっと近寄り、伸ばされた手に格子越しに触れた。……冷たくて、あたたかい手だった。

「お母さま、私を生んでくださって、ありがとうございました」

千雪の手が更に伸ばされるのを、華乃子は避けた。
そうして牢の前を辞して……、一人部屋に戻って布団の上に寝転んだ。
もう会えないかもしれない母親……。それでも自分は人として生きていく。
華乃子は強い決意で、部屋の天井を見つめた……。