華乃子は新刊の献本を持って雪月の長屋を訪れた。玄関でごめん下さいと声を掛け、何時もだったらすぐに中に入ってしまうのを、少し待ってみる。すると、声が届かなかったのか、家の奥からは応答がない。やはり駄目か、と思って中に入ると、奥の部屋の襖に手を掛ける。
「先生、新刊を持ってまいりました」
書き損じの原稿用紙に囲まれて文机に向かっていた雪月は、この時初めて華乃子に気付いたようだった。
「ああ、すみません、華乃子さん。もうそんな時期ですか」
芳しいヒット作のない雪月は次から次へと原稿を書いている。故に、以前書き上げた原稿が新刊となって書店に並ぶ時期を失念しているのだ。
「折角頑張ってご執筆された作品なんですから、もう少し大事にしてください」
華乃子が苦笑すると、雪月も照れ笑いをした。
「私も歴代の先生方と同じく、自分の作品には自分の信条を書き記していますが、それが今の世の中に逆行したテーマだということはそれなりに自覚があったので、あまり自信も持てないんですよね。でも今回書いている作品は、華乃子さんのお話を元に、絶対良い作品に仕上げたいのです」
華乃子を見てにこりと微笑む雪月の笑みに、思わず心臓がどきんと鳴る。しかし、この想いは秘めて、蓋をして、表に出してはいけない。三つ数えて深呼吸をしたあと、華乃子は雪月にまかないの話を切り出した。
「時に先生。女中さんを雇う気はありませんか?」
「女中さん……、ですか……?」
急に話向きが変わって、雪月がきょとんとした。言いにくいな、とは思ったが、原田の言うことも尤もだと思ったし、何しろ沙雪から言われた言葉の傷は深かった。華乃子は話を続ける。
「はい……。雪月先生が悪いというわけでは決してないのですが、未婚の女が男性の家に上がり込んでいるというのは体裁が悪いそうで……。私も考えなしに先生のおうちを勝手してしまっていたので、お詫びする言葉がないのですが……」
そう言って言葉を切ると、雪月は言われたことに漸く合点がいったというように、ああ! と狼狽した。
「そ……っ、それは私の方こそ気付かずに申し訳ありませんでした……。ああ、でも、そうですね……。つい華乃子さんのお気持ちに甘えてしまっていました……。これだから甲斐性がないのですね、私は。華乃子さんの体面に傷をつけるようなことがあってはならなかったのに……」
社交辞令とはわかっていても、雪月の口から華乃子を気遣うような言葉が出てくると、胸の奥がどきりと鳴る。
「いえ、私も図々しかったと思います。……そう言うことで、先生の方でご手配頂くか、ご実家にご連絡を取られても良いかと思います。なんでしたら、沙雪さんにご連絡を取られても……」
そこまで言い掛けると、雪月がぴくりと反応した。
「沙雪……、ですか……? 華乃子さん、沙雪に会われたのですか……?」
窺うような視線。まさか、自分の婚約者が華乃子と会っていたとは思いもよらなかった、そんな反応だ。
「え、ええ……。先日、少しお話をしました。あの日……、資料の本を片付けたあの日にいらしていたお客様は、沙雪さんだったのでしょう?」
問い詰めるようなことはするまい思ってたが、雪月の反応を見て、華乃子も疑問を投げかけてしまった。雪月は、はあ、と大きくため息を吐いて肩を落とすと、少し苛立ったように、全く……、と呟いた。
「沙雪は華乃子さんに失礼なことをしませんでしたか?」
秘密を暴かれたというのに、雪月は沙雪のことで狼狽するのではなく、華乃子を気遣った。あの時の沙雪の言葉は確かに華乃子を傷付けたが、それを言うわけにはいかない。この気持ちは消えてなくなるまで、あるいは次の恋をするまで、蓋をして心の奥深くにしまっておくものだ。いいえ、と返事をすると、雪月はもう一度ため息を吐いて、頭を掻いた。