「ここだ、隆貴」

悠人が立ち止まったのは大学へと続く大通りから一本裏の道に入ったところにある、定食家だった。こじんまりとしていて、落ち着ける空間。なるほど、確かにここならあの勧誘の津波から逃れるには十分だ。

「へえ、こんなところに」
「あるぜ。高校の頃はさ、こういう冒険できなかったから。友達同士で食べる飯って最高だよな」
「だね」
僕たちは笑みを交わし合い、その店でご飯を食べた。大学生向けの量の多さに、思わず会話するのも忘れて食べ物を咀嚼する。思えば入学式やオリエンテーションの緊張で疲れていて、食事のことなんて忘れていたが、いざ美味しい食べ物を目の前にするともう食欲が止まらなかった。
「うめえな」
「うん。安いしね」
「母さんのご飯も飽きてきたし」
「分かるけどそれ、言っちゃいけない言葉だからな」
「わーってるって」
彼は早々にご飯を食べ終わると、ゴクゴクと水を飲み、酒飲みのおっさんのように「ぷはー」と声を上げた。

「で、どうすんの。美雨ちゃんのこと。大学は離れちゃったし、早くしねーと別の男にかっさらわれるぞ」

唐突だった。僕が美雨のことでずっと悩んでいることは筒抜けだったろうが、まさかこのタイミングで彼女のことを聞かれるなんて。
にしても、彼が「別の男」というワードを口にした途端、胸が疼くのは、それだけ僕が彼女のそばにいたいという証拠だった。

「そうだね……。僕も、いい加減伝えないといけないと思うんだ」

「じゃあ、何をそんなに渋ってるんだ。美雨ちゃんだって、ほぼ確実にお前にこと好きだろう」

「それは」

僕は、高校2年生の夏休みの前の出来事を思い出す。
彼女が僕に、旅行に行きたいと言った。でも、高校生にもなって付き合ってもない男女が一緒に遊びにいったり常に一緒に行動したりするのは僕の中の道徳にもとる行為だった。
ましてや旅行。うちの親が何て言うか。
「ごめん」
西日差す放課後の教室で彼女の誘いを断った時の、くしゃりと歪んだ彼女の寂しそうな表情が忘れられない。いつだって強気な彼女が僕にそんな無防備な顔を見せるなんて思いもよらなかった。
その日から彼女は僕の前でぎこちない様子を見せるようになった。目が合えばさっと目を逸らし、話しかけられることもない。
あの日から、全てが変わってしまった。
僕が美雨に近づくことはおこがましいことだ。あの日彼女の心を傷つけてしまったのは僕の方だから。

……その、僕の臆病な心が、大学に入学する今になっても彼女のことでどうすることもできずにいるのだ。

「なるほどな。でも、彼女はもうそんなことより、お前に向かってきて欲しいと思ってるぞ」

妙に自信ありげに断言する悠人が、僕には不思議だった。彼はどうして、そこまで彼女の気持ちを理解してやれるのだろう。僕よりもずっと付き合いは短いはずなのに。
ああ、でもこれが。
目の前の相手と真剣に向き合う人間と、そうでない人間の差なのかもしれない。

「……そうだったらいいんだけどね」

「バカ言え。絶対にそうだっつーの。俺さ、お前には黙ってたんだけど、そろそろ話さないといけないことがあんだ」

ゴクリ、と自分の生唾を呑みこんだ音が、異様に大きく響いて聞こえた気がした。
本能が告げている。
彼の次の言葉を、僕は絶対に聞きたくない。
それは、僕の心を砕くのに十分な気がするのだ。

「あのな、俺」

「やめてくれ」

子供のようにイヤイヤと首を横に振る。しかし、今日の悠人は非情だった。僕の抵抗も虚しく、トン、と水の入ったコップを置いて僕の目を真っ直ぐに見た。

「——聞いたんだ。美雨ちゃんの病気のこと」

「え」

それは、僕が予想していたシナリオとはだいぶかけ離れたものだった。
美雨が、病気?
はは。なんだそれ。僕はそんな話、一度だって聞いていないんだけど。
衝撃は、心を砕くなんて生やさしいものではなかった。彼の口から紡がれる事実をすぐには信じられず、心は固まっていた。思考は停止し、吐き気がこみ上げる。

「隆貴。信じられないかもしれないけど、本当の話なんだ。彼女が先日、俺に連絡を寄越した。脳に、腫瘍ができたらしい……」

シュヨウ。
聞いたことがないわけではないのに、異国の言葉のように聞こえた。

「は……。なんだって、そんなこと。悪い冗談なんか、よせよ。ああ、分かった。君は美雨のことが好きなんだ。だからそんな嘘なんかついて、僕を美雨から遠ざけようとしてるんだろう。僕の気が迷ってる今なら、ちょうど良いもんな」

心から、そんなことを思ったわけではない。
精一杯の叫びだった。
美雨が病気。そんな最悪な事実があるくらいなら、親友に裏切られる方がマシじゃないか。新しく始まった大学生活の最初の思い出が苦い青春の思い出に変わるくらいだ。そりゃ、最初は辛いかもしれないけれど、大人になればいい思い出だったって思えるだろう。もし美雨と悠人が結婚したとしても、数年後の僕は彼らのことを心から祝福できる自信がある。
だから。

「美雨が好きなら、そうとはっきり言ってくれ。最低な嘘、つかないでくれ。僕は、君なら——」

「いい加減にしろよ! 俺のことを話してるんじゃない! お前のことだ。美雨ちゃんのことだ。彼女の叫びが聞こえないのか!?」

ぷつり。
彼の理性の糸が今、完全に切れてしまったのが分かった。それくらい勢いよくバンっとテーブルを叩いた。数は少ないけれど周囲にいたお客さんが一斉にこちらを振り返る。店員さんがオロオロとやってきて、「あの、お客様」と声をかける。
「……すみません」
我にかえった彼は急いで会計を済ませ、お店を出た。僕も彼の後に続く。

お店を出た途端、彼はさっと路地に入り、後ろをついてきた僕の胸ぐらをぐっと掴んだ。

「いいか。お前のためじゃない。美雨ちゃんのために教えてやる。彼女は今、病気なんだ。××病院に通院しているらしい。今はまだ入院していないと言ってたが、いつ入院するか分からないらしい。だから早いとこ、お前は彼女のところへ行け」

彼の目は血走っていた。その必死さが、僕の心をどうしようもなく締め付け、そして彼の強い意志に打ちのめされた。

どうして君が知ってるんだ。僕はそんなこと、美雨の口から一言も聞いてないのに。

「なぜ美雨ちゃんがお前じゃなくて俺にそう言ってきたのか、という顔をしてるけどな、そんなことは自分の胸に聞いてみろ。それから」

彼は掴んでいた僕の胸ぐらから手を離し、今度は肩にぽんと手を置き、笑った。

「頑張れよ」

僕はなんて、臆病者だったんだろう。
なんて、素敵な友人をもったんだろう。

彼の決意のこもった表情を見て、分かった。
彼は、美雨のことが好きだ。
それが僕の心を突き動かすのには十分すぎる事実だった。