「ねえ、覚えてる?」

僕の好きな彼女が、艶のある唇を動かして問うた。桜の花びらが降りそそぐ、三月の終わりのことだった。

「覚えてるって、何のことかな」
彼女が何を言っているのか分からず、戸惑う僕。目の前の彼女——五十嵐美雨(いがらしみう)はふっと肩の力を抜き「そっか」と呟くと少し残念そうな顔をして言った。
「もし、大学を卒業するまでに“あのこと”を思い出せなかったら私、もう隆貴(たかき)のこと待てない」
ぴしゃりと宣言する彼女からは、昔と変わらない、頑固な性格が滲み出ていた。やばい。こうなったら彼女、僕がどんなに言い訳や懇願をしても聞かないのだ。

「ヒントは、何もないの?」

僕たちのいる「汐見公園」は、互いの家から徒歩五分もしない位置にあった。幼なじみの彼女とは、何度もここで遊んだ記憶がある。

「ヒントは、ここ」

僕の目を真っ直ぐに見つめて、彼女は答えた。
ここ。
というのはつまり、この汐見公園のことか。
ここでの思い出なら色々ある。二人で縄跳びをしたりゲームをしたり。時にはお互いに別の友達を連れてきて、みんなで鬼ごっこをした。勝気な彼女は足が速かった。僕はいつも、彼女のことを捕まえられない。

「それ以上は言えない。もしも隆貴が大学を卒業するまでに“そのこと”を思い出せなかったら、私、きっと隆貴のことなんて気にせずに進むから」

進む。一体どこに。いや、この場合「未来に進む」という意味だ。僕だって分かっていた。彼女は僕が不甲斐ないばかりに、今後は僕のいない人生を選ぶつもりなのだ。

「……分かった。必ず思い出すから大丈夫」

口では強気に出たものの、僕の心臓は張り裂けそうなくらい激しく脈打っていた。彼女が「思い出せ」というとある事象について、僕には何の心あたりもない。ヒントは汐見公園だということだけ。ここで僕たちが遊んだ記憶なんて多すぎて、どの記憶を掘り出せばいいか、今は全く見当がつかない。
彼女はそれ以上、言葉を発しなかった。ただ、泣くのを堪えている小さな少女の表情でそこに立っていた。
僕たちの頭上から降り注ぐ、桜。
汐見公園に一本だけ植えられた巨大な桜の木は、いつも僕たちの成長を見守ってくれていた。
けれど、この春から大学生になる僕たちは、明らかに大人への一歩を踏み出している。早く大人になりたいと必死に足掻いていた僕たちの前には、もう昔には戻れないのだという未来への恐怖があった。