そのとき、
「ねえ」
突然、上から声が降ってきてビクッとした。
人が、いた。
顔をあげると、目の前に知らない男の子が心配そうな顔で覗きこんでいる。大きな二重瞼の目にほっそりとした顎、色白で細身の体。白い長袖のTシャツに黒いパンツ姿。
「コレ、飲む?」
「え……」
差し出されたのは、缶コーヒーだった。
クリーム色の缶に『微糖』と書いてある。
「そこの自販機にあったやつ」
「え、あ、ありがとう」
私はびっくりしすぎて、何も考えずに缶を受け取った。あまり見かけないメーカーのコーヒーだった。
物騒な世の中である。知らない人から物を受け取っては行けないことくらい小学生でも知っている。一見無害そうな小柄な男の子であっても、じつは人の弱みにつけ込む悪魔かもしれない。
悪魔、と思って、私は思わず笑いそうになる。あまりにも、目の前の男の子に似合わなかったから。
なんだか男の子というより、恥ずかしがり屋の猫みたいな……。
小さい頃、家によく出入りしていた野良猫を思い出した。最初は物陰からこっそり家の中を覗いていた。毎日エサをあげるうちにだんだん近づいてきて、いつの間にか居着いていた。だけどある日ふっといなくなってしまった、白い猫。
缶の蓋を開けて、冷たいコーヒーを飲んだ。
甘さと苦さが半分半分に入った、優しい味だった。涙の味もほんのり混ざっている。それは、いままで飲んだどんなコーヒーとも違っていた。
「おいしい」
なんだか、ホッとした気持ちで私は言った。
「でしょ。俺、これがいちばん好きなんだよね」
男の子は嬉しそうに笑う。
「バイトの帰り?」
「え?」
なんで知っているのだろう。もしかして、店にいたお客さん?
「それ」と彼は私の胸元を指指して、
「名札、ついてるから」
くすくす笑いながら言う。
「あ……」
満島くんたちのことで頭がいっぱいで、名札を取るのをすっかり忘れていた。
私は慌てて名札を取って、鞄にしまう。
「ふうん。日浦さんっていうんだ。名前、聞いてもいい?俺は、葵」
「葵……」
「女みたいな名前でしょ」
彼は苦笑しながら言う。
「葵」は花の名前だから、女の子っぽいイメージがあるかもしれない。
もしかしたら、私が身長を気にしているように、彼も名前を気にしているのかもしれない。
「そんなことない。いい名前だと思う」
自分と重ねて、思わず声に力が入ってしまった。
「ありがとう」
葵は本当に嬉しそうに笑うのだった。
「私は、奈々瀬」