「待って!」

 後ろから、岡田さんが必死に追いかけてくる。ごめん。でも今は君とも話したくないんだっ。
 大体、今日のこの行動自体、おかしなところばかりだ。
 安藤さんからすれば単なるクラスメイトの僕が訪ねてきて、迷惑だっただろう。しかも、なぜか岡田さんが一緒にいるし。僕らが仲良しなら分かる。でも、その場の流れで安藤家へ一緒に行くことになっただけの仲だ。
 ああ、もう! 全部なかったことにしたい。僕は今日、彼女の家へは行かない。いつも通り部活に参加して暗くなる頃に家路に着く。それで十分。平凡な僕の人生は、平凡な毎日がよく似合う。
 そうすれば僕は彼女にあんなかたちで想いを伝えることもなかった。
 彼女の親友への気持ちを、あれほど真っ直ぐな気持ちを、この胸で受け止めなくて済んだ。

「……くっ」

 ずでん、と嫌な衝撃が右半身を駆け抜ける。
 どうやら道端の出っ張りにつまずいて転んだらしい。転ぶなんて久しぶりすぎて、どうやって受け身を取ればいいのかも分からずなすがままに身体を打ち付けた。

「った」

 幸い、人通りの少ない道で誰にも見られずに済んだ。
 ……ただ一人、岡田京子を除いては。

「板倉! 大丈夫!?」

 彼女は僕に駆け寄り、最初は心配そうな表情をしていたのに、僕の身に大した怪我がないと分かると平手で僕の頬を殴った。

「……え」

 先ほどとは種類の違う衝撃が背中を走る。
 痛い、という感覚よりは「なぜ?」という疑問。その答え考える前に岡田京子は倒れていた僕の胸ぐらを掴んだ。

「あんたは大馬鹿だね!」

 すごい迫力。
 大人しい彼女が急変し、怒りのこもった瞳を僕にぶつけている。僕の思考は相変わらず追いついていない。

「な、なにすんだよっ」

「酷い? 最悪? あんたが一番最悪で最低よ!」

 こいつは何を言ってるんだ? いきなり掴みにかかったと思えば、訳のわからないことをのたまう。

「なんだよ。急になんのこと?」

「すっとぼけないで。あんたが言ったんじゃん。あのランキング、あんなこと書くやつは最低だって!」

 ああ、ようやく分かった。
 彼女が怒っているのは、先ほど僕が安藤さんから逃げてきたことなんかじゃない。例のランキングを見た時の僕の反応のことらしかった。

「それの、何が悪い? 僕は当たり前のことを言ったまでだ。お前だって、悔しくなかったのか? 最下位で公表されて、あんなことやったやつが憎いだろ!」

「違う! 自分も同じでしょう!」

 気がつけば、目の前の岡田京子はボロボロと涙を流していた。僕は、咄嗟の出来事に「え!?」と声を上げるだけで、彼女を慰めるべきなのか、突然殴ったことを怒るべきなのか見当もつかない。
 お願いだから、誰もここを通らないで欲しい。誰かに見られれば、警察に通報されかねない。
 じりじりと、照りつける夕陽が彼女を真っ赤に染め上げる。光に照らされた彼女は、なぜだかとても美しい。あまりよく見たことがなかった彼女の瞳は、透き通るほど澄んでいてまぶしかった。どうしてこの子が、クラスのランキングで最下位になったのか、今はもう信じられないくらいだ。

「自分だって、誰かに投票したんでしょっ……。それと、黒板に結果を書くのが、違うっていうの? 同じことじゃない。結局、あの場では皆が同じ罪を背負ってた。なのにあなたは、『ランキングを書いたやつが悪い』って。傷つく人がいるじゃんって。どうしてわざわざ口にしたの? そんなことされたらさ……最下位の私はさ……、あなたに好きだって言う権利だって、なくなるじゃない!」

「え——」

 彼女はもう、僕の知っている岡田京子ではなかった。

 いつも一人で佇んで、友達がいなくたって平気そうな顔をしている。誰に構ってもらわなくても、自分の道を歩くことのできる少女。クラスの揉め事にだって関心がない。
 僕の中で構築されていた「岡田京子」の像が崩れる音がした。

「人間関係に……最短距離なんてない。私はそれを知ってたから、あんなふうに好きな人との距離を詰めようとするあんたが、馬鹿みたいだと思った。……でも同時に、あんたを今すぐ手に入れたいと思ってしまった。あんたが安藤和咲に抱いた気持ちがまっすぐすぎて、まぶしくて……。だから、私も同じだったよ。こうやって、弱ってるあんたに付け込んでいるんだから」

 岡田さんの腕が、僕の首元から離れ、彼女は自分自身の頬を拭う。
 宝石みたいだと思った。
 彼女の涙が、珠のように光っては消えてゆく。僕は、彼女の気持ちを知らずにとても残酷なことをしてしまったのだ。
 結局は皆エゴイストで、自分の手に入れたいものとの距離を測りかねている。

「岡田さん、ごめん」

 何に対する「ごめん」なのか、自分でもよく分からなかった。僕が彼女を不快にさせたといえばそうだ。けれど、彼女もまた、自分の正義の中で勝手に傷ついていたのには変わりない。

「私も、ごめん」

 彼女の頬にはもう水滴はなくて、代わりに紅く染まっていた。夕陽のせいかもしれない。でも、彼女の想いを聞いてしまった今は、別の意味に取れた。

「好きだって言ってくれて、嬉しかった。でも、僕たちそんなに話したことなかったよね。どうして僕のことをそんなふうに思ってくれたの」

 反則だろうか。彼女の気持ちに今すぐ応えられるわけでもないのに、こんなことを訊くのは。
 けれど彼女は、僕の質問を不快だとは思っていない様子で、ぽつりぽつりと話しだした。

「板倉は覚えてないかもしれないけれど……。中学の時、あなたに助けられたことがあったの」

「……うそ」

 中学の時? 彼女と僕は違う中学校だ。彼女とは高校で初めて出会ったはず。
 しかし彼女はそうではないと首を振る。どうやら本当に僕が覚えていないだけらしい。

「三丁目の交差点で、私、横断歩道のど真ん中で転んだことがあった」

 三丁目。
 交差点。
「あ」
 思い出した。三丁目と言えば、僕が通っていた中学の隣の中学校のテリトリーだ。
 その交差点で、確かに女の子が転ぶのを見た。それで、その後は——。

「車の人たちや他の歩行者に見られて、とても恥ずかしくて。立ち上がれずにいたら、あなたが私の腕を引っ張ってくれた」

『大丈夫。ほら、深呼吸』

 僕はそう口にしたのだ。その言葉を、彼女は今でも覚えてくれていた。僕自身、中学の時から陸上部に入っていたから、走り出す前にルーティンでしていたことだ。

「あの時、あなたがそう言ってくれたから、私は立ち上がることができたの。本当にありがとう」

 そう言って緩く微笑んだ彼女が、この上もなく美しい。
 どうして今まで気づかなかったのだろう。僕の本当の恋は、こんなところに眠っていたのだ。

「岡田さん、僕の方こそありがとう。おかげで目が覚めた」

 よし! と拳を握り、立ち上がる。へたりこんでいた彼女に、もう一度手を差し出して。

「一緒に帰ろう」

 彼女が手を伸ばす。繋がれた手が温かく、心まで沁みてゆく。

 僕はもう、最短距離なんて目指さない。

 君との距離が少しずつ、埋まっていけばいい。



【終わり】