私の盲目な恋

緊張しながら待つこと、数時間。
玄関の呼び出し音が鳴り、いつのもように彼を部屋に迎えた。
「こんにちは」
「こんにちは!」
……。
玄関を開けて、すぐにいつもと違うことが分かった。
誰かが、いる。
蓮くん以外の誰かが。
「雪乃さん、今日はちょっと彼女、連れてきたんです。ピアノやってて、彼女も雪乃さんから教えて欲しいって」
カノジョ。
その単語が、異国の言葉のように遠く聞こえた。
「初めまして。須藤ミノリといいます。彼と一緒にピアノ始めたんですけど、蓮が、雪乃先生に習ったら上手くなるからって教えてくれて」
須藤ミノリ。
明るくて、ハキハキとした声。
たぶんだけど、私より若い。
「同じ匂い……」
「え?」
そう。
須藤ミノリから、蓮くんと同じ匂いがした。
「ああ、ミノリの香水の匂いかな」
「そうかも! やっぱり移っちゃうんだね」
ははっという、二人の笑い声。
聞こえない。
聞きたくない。
「先生、ミノリに先生のピアノ、聞かせてやってください」
「ぜひ! 私、蓮の話聞いて雪乃先生のピアノ聞いてみたいって、思ってたんです」
「分かりました」
放心状態のまま、ピアノの前に座る。
蓮くんがピアノを始めたのって、もしかして。
ミノリさんがピアノを始めたから……?
そう、分かったとたん、全身から、血の気がさーっと引いてゆくのが分かった。
最初から。
最初から、蓮くんは。
ミノリさんに、上手になったところを見せたくて、ピアノを頑張っていたのだ。
なんて純粋で、なんて尊くて、美しい恋。
静かに目を閉じて、鍵盤に右手を触れた。
ドビュッシー『月の光』。
右手の旋律だけで始められるこの曲を、私は大好きな人のために弾く。
高音が重なり合う、最初の旋律がたまらなく愛しい。
掌からこぼれ落ちてゆく砂のような、儚げなメロディを奏でて。
途中で始まる左手の伴奏。右手のメロディとシンクロして、神秘的な月の光が、頭上から降ってくるように。
行き場のなくした私の「好き」を、『月の光』に託す。


「すごい! 先生、目が見えないのに。こんなに綺麗に弾けるなんて」


ぴたりと、私の指が止まる。
ミノリさんの心からの褒め言葉が、ぐさりと胸に突き刺さった。

先天性全盲。

私は、生まれた時から、光を知らない。
知らないからこそ、いろんなものを想像で補って。
バイト先の、先輩の怒った顔。
蓮くんの、精一杯の笑顔。
その全てに形をつくってゆく。
ミノリさんの、無邪気な感嘆と、「すごいだろう」という蓮くんの得意げな声。
「雪乃さんのおかげで、ピアノが好きになれたんだ」

ああ。
蓮くん。
ありがとう、そう言ってくれて。

でもね、ちょっと痛いかな。


目を閉じると、暗闇になる。

生まれてからずっと暗闇だった視界の奥に、ミノリと蓮が微笑み合う光景をはっきりと見た、そんな気がした。


【終わり】