当時桐は、“学園長の娘だから”という理由で、遠ざけられたり、調子に乗っていると思われたり、先行するイメージにふりまわされる日々を送っていた。
 鈍い私は、何も気にせず桐に話しかけていただけだけど、そんなことに少しでも彼女が救われていたのなら、私はとても嬉しい。
 いつも助けてもらうばかりで、桐に何かしてあげられたことなんてただの一度もないけれど、彼女は私にとってとても大切な友達で、失いたくない存在だ。
「あ、ていうかいきなり来てごめん。どこか行く際中だった……?」
 無理やり笑って気まずさを誤魔化そうとする桐に、私はメモではなく手話と身振りで気持ちを伝える。
 桐を指さしてから、ぎゅっと手を握り締める。
『桐に、会いに行こうとしてた』
 ゆっくりと口の形を作ると、何を言いたいのかが伝わったのか、桐は泣きそうな顔になる。
 すべてを分かってもらうには、きっととても時間がいる。
 だけど、私は逃げたくない。自分の気持ちからも、大切な人からも。
「柚葵の大切なもの、私も大切にしたい……。でも少し、時間が欲しいんだ……っ」
 眉尻を下げてそう言葉を漏らす桐に、私も思わず泣きそうになる。
 首を何度も縦に振って、「大丈夫」という気持ちを精一杯伝える。
 それから、メモにパパッと言葉を打ち込み、『会いに来てくれて、ありがとう』と伝えた。スマホ画面を見て、桐はポロッと一粒だけ涙をこぼす。
「柚葵。岸……成瀬とは、今どうなってる?」
 桐は親指でぐっと涙をぬぐってから、真剣な顔で私にそう問いかける。
 じつは二週間休んでいて会えていない、ということを伝えると、桐は眉間にしわを寄せて何かを考えこむ顔つきになった。
「ごめん、それ、私のせいかもしれない。じつはこの前、おじいちゃんから無理やり聞き出して、成瀬に電話をかけた」
 え……? 成瀬君に桐が電話を……?
 いったい、何を話したんだろう。
「柚葵に近づかないでって、かなり強く警告してしまった。本心だったけど、でも、感情に任せすぎた……」
 反省したように目を伏せる桐に、私はもう一度「大丈夫」という意味を込めて首を縦に振る。
 そうか、私の知らないところでそんなことが起こっていただなんて……。
 でも、お母さんが倒れて大変だったことは知っているし、理由は桐だけではないと思う。