私がモデルなんか頼まなければ、こんな迷惑をかけることもなかった。
 成瀬君と私は、何もかも違う世界線上で生きているのだから。
「くだらねぇ妄想してないで、足りない頭はせめて自分の進路のためだけに使えよ」
 明らかに怒っているその声に、誰もがしんと静まり返る。
 成瀬君がこちらに近づいてくる気配を感じ、そしてその足音は南さんの前で止まった。
 なんとか少しだけ動くようになった首をひねって二人を見ると、成瀬君は何もかも凍てつかせてしまうような冷たい瞳をしていた。
「お前、何がしたいの? 付き合う前に噂を煽っとけば、何かの牽制になるとでも思ったわけ?」
「成瀬が悪いんじゃん。夏休み、私たちとの約束断って、ボランティアみたいなことしてるから」
「終わってんな、お前」
 成瀬君が、瞳の奥に怒りの炎を燃やしたまま、南さんの手首を掴んだ。
 さすがの彼女もそれに怯えたように、ビクッと肩を跳ねさせた。
 成瀨君が何をしようとしているのか予想はできなかったけれど、何か乱暴なことをしようとしていることだけは分かって、私は心の中で全身全霊で叫んだ。
『やめて!!』
 成瀬君はその言葉にピタッと動きを止める。
 代わりに、私は石膏像に固められたかのように重たく感じる体を、なんとか動かした。
 ――いっそ、透明人間になってしまいたい、と思っていたのは、自分にとって大切な人が自分のせいで傷ついたり怒ったりするのを、何度も目の当たりにしたからだ。
 母も父も、妹も、桐も、私を思って悲しんだり怒ったりしてくれた。
 親身になってくれることはとても嬉しかったけれど、私は私のせいで人を振り回すことがとても嫌だった。すごくすごく、嫌だった。
 自分のせいで、自分なんかのせいで、大切な人の日常が変わってしまうたび、消えてなくなりたくなった。
 戦々恐々とした雰囲気の中、私はずるずると重たい体を引きずって、黒板の前に立つ。震える指を片方の手で押さえて、チョークを手にした。
 一文字一文字書くのに、とんでもない時間がかかる。でも、私は伝えないといけないと思った。これは、私の問題なのだから。
【尊敬する画家が卒業した、北海道の美大を目指してます。成瀬君は一切関係ありません】
 そう書き終えると、私はしんと静まり返った生徒たちに向けてぺこっと頭を下げて、ゆっくり教室から出ていった。成瀬君のことは、一切見ずに。